被災地の写真を撮り続け個展開催。高校生写真家に聞いた3.11

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2014年03月11日 12:40  スタディサプリ進路

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スタディサプリ進路

写真
●高台から見た景色は戦争中のようだった 「中学校の卒業式の後友達とカラオケへ。部屋に入ったとたん揺れ始めました」 と2011年3月11日のことを語るのは、東日本大震災を伝える写真展『ツタエル』を各地で開催している高校生写真家・千葉拓人くん(東松島高校3年生)。 宮城県石巻市在住の彼は、3歳のころ、おじいさんからライカのM4というカメラを譲り受けて以来、ずっと写真を撮り続けてきた。それこそおもしろい、きれいと思うものを見れば、何でもシャッターを切っていたそうだ。 カラオケ店から避難誘導されて道路に出ると、すでに目の前の道は渋滞が始まっていて、クラクションや「早く行け!」という怒鳴り声が飛び交う異様な雰囲気だった。津波警報が鳴り、「6mの津波予想」という放送が聞こえる。それはそのうち10mの予想に変わった。粒の大きな雪が降っていた。 友人親子と共に車で避難する途中、北上川の橋の上で逆流する川を見た。船や家が流れていた。友人宅に避難してしばらくすると、やっと1通のメールが親につながり、迎えにきてもらうことができた。 「ぼくの家は高台にあります。暗くなってから家に戻り、家族と一緒にさらに山に上がって石巻の街を見渡しました。石油コンビナートなどがある浜はオレンジ色に光り、黒煙が上がっていました。『戦争の空襲ってこんな感じなのかな』と思ったのを覚えています。コンパクトカメラを持っていたので、地震後初めて、その様子を写真に撮りました」 ●避難所で寝泊まりしながらボランティア活動 中学時代から子ども相手のボランティア活動を行っていた千葉くんは、母校が避難所になっていると聞くと、自分の食料と水、着替えを持って手伝いに行った。そのまま寝泊まりして、炊き出しをしたり、プールの水をトイレに運んだり。体育館で子どもたちの世話をするのは得意だった。子どもたちが、がまんしている、気をつかっている、そんな窮屈な感じがたまらなかった。 「伝える手段はわからなかったけれど、とにかく記録しなくちゃ、伝えなきゃと思い、写真を撮り続けていました」 がむしゃらに撮っていた千葉くんだが、被災地のまっただなかにいるうちに気持ちに変化が生まれてくる。 「ある日、流された家の土台だけが残っている場所で、お母さんと娘さんらしきふたりがしゃがみこんで泣いていたんです。僕はその姿を後ろから撮ろうとした。そこへ通りかかった男性が怒ったように『撮ってどうするんだ?』と聞いてきたんです。どうするんだろう? 自分でもまるでわからなかった。何も答えられなくて、その場を去りました」 ●これからは報道カメラマンを目指したい 12月、『石巻日日こども新聞』の記者になった千葉くんは、取材に来ている本物の記者の人たちと話す機会に恵まれた。話をきいているうちに、何を写すのか、その写真のなかにどんな情報を入れるのか、を考えて撮ることの大切さに気づいた。また、撮られる側の気持ちに立ってみることの大切さも教わった。 翌年の夏、花火をする子どもたちの写真を撮った。「被災地にも明るい笑顔が戻り始めた」ことを伝えたかった。海岸に打ち上げられた枯れ木の写真はモノクロフィルム。被災地の報道が減り、みんなの記憶が風化していくことへの焦りや心配の気持ちを切り取ったのだという。 そんな千葉くんの活動を見守ってきた『石巻日日こども新聞』の発行元が、石巻で彼の個展を開催することに。震災後1年以上たってから撮った写真を集めたものだ。それを見た人が関東でも開催したいと申し出て、『ツタエル』展は広がっていった。 「写真を見た人が感想を言ってくれるのが素直にうれしい。もっともっといい写真が撮れるはずと励まされます。埼玉の個展では石巻出身のおばあさんに、何度も『ありがとう』とお礼を言われ、石巻から離れた場所での交流が持てたことがうれしかったです」 これからも撮り続け、いずれは報道の道に進みたいという千葉くん。 「被災地にいる子どもたちの姿や表情が印象に残っています。だから、大変なことが起こっている世界各地で子どもたちの写真を撮りたい。個展を開いてもらったことで、背中を押された気持ちがしています」 『ツタエル』展の今後の予定 3月8日〜16日 レストラン マテリア 神奈川県横須賀市鴨居4−1128 3月21日〜31日 シェアリーカフェ 神奈川県横浜市都筑区中川1−4−1ハウススクエア横浜内

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