ベルリン・フィルの次期音楽監督人事を考える - 冷泉彰彦 プリンストン発 日本/アメリカ 新時代

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2015年06月02日 13:21  ニューズウィーク日本版

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ニューズウィーク日本版

 フルトヴェングラー、カラヤン、アバドといった、その時代ごとに世界を代表する指揮者を音楽監督として招いてきたドイツの名門オーケストラ、ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団(BPO)は、現在の音楽監督であるサイモン・ラトルが、2018年をもって退任し、ロンドン交響楽団の指揮者に転出することが決まっています。


ラトビア出身のネルソンズがベルリン・フィルの次期音楽監督として本命視されているがBrian Snyder - REUTERS


 そこで、楽団員による選挙で次期音楽監督を決めるはずだったのですが、5月11日の投票では1人に絞ることができませんでした。楽団からは、1年以内には決定できるだろうという見通しとともに、「今回は決定できず」という発表がされましたが、世界中のクラシック音楽ファンの間では、あらためてこの「次期監督人事」が話題に上ることとなりました。


 世界中にオーケストラは数あるわけですが、どうしてこのBPOの指揮者の人事が特に話題になるのかというと、この楽団が世界の頂点にある、つまり世界中から優秀な独奏者を集めてきて構成した特殊なオーケストラだからです。一言で言えば、非常に上手なのです。早く正確に弾けるとか吹けるというだけでなく、楽員の一人ひとりが自分の音楽のスタイルを持っているので、それをベースとして指揮者の表現意図を理解して即座に音にする、しかもピタッと合わせることが大変に高度にできる楽団です。


 現代のクラシック音楽の世界では「新しい解釈、新しい表現」が強く求められます。時代の雰囲気がそれを求めるということもありますが、デジタル化した録音が山のように出回る中で、音楽ファンは過去の演奏スタイルに関しては熟知しているわけです。ですから、新しい演奏に際しては、過去にはなかったような表現への期待感が強いのです。


 そんなわけで、BPOというのは、指揮者が練り上げてきた新しい演奏のスタイル、楽曲の解釈を非常にスムーズに飲み込んで音にしてしまう、そうした特殊な楽団であるとも言えます。ですから、多くの客演指揮者との間で、興味深い演奏が繰り広げられています。ですが、楽団としての活動の根本としては、常任である音楽監督との長期間の共同作業を通じて、楽団としての新しい音楽を作っていかなくてはなりません。そして、過去の指揮者たちはそれを世界中に話題を提供する形で作って来たのです。ですから、次が「誰」になるかというのは、音楽ファンの大きな関心を呼ぶわけです。


 さて、現在のところは本命がラトビア出身のアンドリス・ネルソンズ、対抗馬がドイツのクリスティアン・ティーレマンで、楽団員の票が割れているということが言われています。ですが、私にはこの2人はどうも中途半端であるように思えます。


 まずネルソンズが若手でモダンな演奏、ティーレマンが伝統的な演奏をする大家という紹介がされていますが、これはちょっと違うと思っています。


 ネルソンズという人は、とにかく音楽の厚みを造るのが上手い人です。厚みというのはオーケストラの音量調整と、旋律の歌わせ方が適切なために、楽曲のスケールが大きく聞こえるということです。一方で細かな部分も丁寧に作るので、変なことはしなくても新鮮さと勢いの感じを与えることが出来る人です。そのために、確かに現在40歳前後の指揮者の中では世界的に人気があります。


 ただ、ネルソンズの音楽は、物凄い深みというのとは違います。ノリの良いライブをやるだろうというのは、とても分かるのですが、分かりやすくてカッコいい音楽、という以上の大胆さとか、前衛精神、開拓精神、知的な表現の構造設計ということでは今ひとつという印象があります。得意なのが、ショスタコーヴィチとドボルザークというのも、BPOのシェフとしては少しズレた印象です。


 BPOの場合は、英語を中心に世界中にビデオ・ストリーミングで音楽に関するメッセージを発信するのが当たり前になっていますが、英語でのコミュニケーションや、メッセージの知的な切れ味というのも不安材料です。後は、ボストン交響楽団が前任のレヴァインが健康問題でいい仕事ができない空白期間があった後に、このネルソンズを音楽監督として大きな期待とともに招聘しているという経緯がネックになると思います。ここでボストンを蹴ってBPOに行くというのは、ちょっと難しいのではと思われるからです。


 ティーレマンは、立派な体格で、指揮ぶりも堂々としていて「いかにもドイツのマエストロ」という風情なのですが、この人の音楽は少々変わっています。全体はドイツ=オーストリア系の正統音楽で、無難なのですが、細かなところで「変わった表現」をしたがるのです。異常に遅いテンポを取ったり、突然テンポを変えたり、聴かせどころをわざと冷淡に処理したりと、それが新しさと言えばそうなのかもしれませんが、全体の構成感を左右する設計レベルからの新しさというのは、余り感じられないのです。この人の場合も、スッタモンダの挙句に前任のルイージを追い出すようにしてドレスデンのシュターツカペレという名門の指揮者になったばかりですから、転出は難しいのではないかと思います。


 私が可能性を感じているのは、この2人ではなくカナダ人のヤニック・ネゼ=セガンという40歳の指揮者です。現在、フィラデルフィア、モントリオール、ロッテルダムの3つのオーケストラを掛け持ちしながら、MET(ニューヨークのメトロポリタン・オペラ)のオペラでの指揮でも高評価を得るなど、非常に精力的に活動している人です。しかも、3つのオーケストラで既に実績を挙げていますから転出できる可能性はあります。


 ネゼ=セガンの強みは彼の知性です。とにかく、楽譜を徹底的に検討して過去になかった解釈を作ってくる、そして的確な言葉(英仏の完全バイリンガル)で楽員や聴衆にメッセージを伝える、それが彼のスタイルであり、世界を駆け巡りながら各地で水準以上の演奏ができているのは、そうした彼の知的な生産性の高さによるのだと思います。故ジュリーニの弟子で、マーラーとブルックナーの楽曲研究に余念がないばかりか、フランス系も得意だし、20代の時には合唱指揮者の勉強も集中的に行うなど、守備範囲の広さも魅力です。


 これから最終的な人選が決まるまで、この3人の仕事ぶりを比較しながら人事の予想をするというのが、音楽ファンの究極の楽しみです。



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