NHKの連続テレビ小説で、もっとも優れた作品は何か?
もし世間にこう問いかけるとしたら、どのような答えが返ってくるのだろうか。実際にやってみないと分からないことだが、それでも『おしん』が上位に入ることはまずもって断言できる。
『おしん』は、あらゆる意味で連続テレビ小説という枠組みを越えた作品だ。その爆発的人気は狭い日本を飛び越え、海外の市民をも取り込んでしまった。特に現代の新興国では、『おしん』は大変な影響力を持っている。ある国では、男女問わず『オシン』という名を子に名付けることもあるのだとか。
それだけ、この作品は革命的なセンセーショナルを世界に与えた。だからこそ、放映から30年経った今も人々は『おしん』を忘れていない。いや、忘れることができないのだ。
貧農の女子が富豪になるドラマ
山形の寒村で育った少女・谷村しんのストーリーは、1907年から始まる。小学校入学を前にしたしんは、そうであるにもかかわらず実家の困窮が原因で、米一俵と引き換えに奉公へ出されてしまう。
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雪積もる村の川を舟で下るシーンは、日本人なら誰しも目にしたことはあるだろう。だがここで問題にしたいのは、ストーリー上の時代設定である。1907年、すなわち明治40年だ。
この時代、貧しい小作人の子は商家へ奉公に出されるということが頻繁にあった。実際にタイムマシンに乗って1907年に行けば、何十人という数のしんを目撃できるに違いない。もしそうしなければ、子どもは間引かれる。貧農とはそういうものだ。
だがしんは、そんな己の境遇に打ち勝つかのように商売で身を立てた。髪結い、露天商、めし屋、魚屋という流れを経て、老年を迎える頃には十数のチェーン店を持つスーパーマーケットを運営していた。
20世紀初頭に生まれた貧農出身女性の、経営者としてのサクセスストーリー。こんなドラマを作ることができる国は、まず日本しかない。
そもそも世界史の常識として、“女は男より偉くも強くもなれない”というのがある。女はあくまでも“子どもを産む機械”、そうでなければ“繁殖牝馬”だ。だから女には権力も財産も必要ない。16世紀のイギリス国王エリザベス1世などは例外中の例外で、しかも彼女ですら畑違いの弟が早死しなければ“テューダー王朝の王女”から一歩も外れることはなかった。
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王家以外のイングランド人なら、なおさらだ。しんが奉公に出された当時のイギリスは、法律で家の財産を女性が継ぐことはできなかった。蓄財の管理権は必ず男性が握るようになっていたのだ。日本でも人気を博したイギリスのテレビドラマ『ダウントン・アビー』は、そうした男系社会を背景にした作品である。
『ダウントン・アビー』第1シーズンは1912〜14年にかけての話だ。イングランドの貴族クローリー家は、財産の継承者だった男子をタイタニック号沈没事故で亡くしてしまう。クローリー家の当主の子は3人いるが、いずれも女子だ。そこで遠縁の若者を家の次期当主として指名するが、そこからお家騒動が始まり……という物語である。
たった100年前のイギリスは、こうした明確な男女格差が存在した。
海外の階級社会
また、日本以外の国では社会階層間に大きな壁がある。
これもイギリスの作品だが、『マイ・フェア・レディ』というミュージカルがある。言語学者ヘンリー・ヒギンズがロンドンの下町で知り合った少女イライザの庶民訛りを矯正し、貴族の子女にでっち上げるという内容だ。
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英語圏の国は、地域間はおろか中産階級・労働者の間にも方言が存在する。ロンドンの庶民の場合は『コックニー』という言葉を話す。『A・I・E』を「アー・イー・エー」と発音するから、クィーンズ・イングリッシュ話者と意思疎通が難しいことすらある。
すなわち、かつてのロンドン市民は生まれながらに己の属する階層が宿命付けられていたのだ。人間は宿命に抗うことはできない。万が一に平民が巨額の資産を手に入れたとしても、それは“成金”と見なされ社交界には入れない。今のイギリスの二大政党政治(保守党と労働党)は、そうした階級間の摩擦から端を発している。
だが、日本にはそのような違いはない。山形の人間は、富豪も貧農もみんな山形弁を話す。もっと平たく言えば、“貧農でも人一倍の努力をすれば富豪になれる”ということだ。
世界の人々は、しんを羨み尊敬した。
日本型資本主義を示す
しんは自由競争が前提の資本主義の只中で生き抜いた。だがそれは、アメリカのような配当利益とパテント売買を中心とする市場原理主義に基づいたものではない。
ドラマの中で、こんなエピソードがある。しんの老年期、今や一大企業に成長した彼女のスーパーマーケットは、名古屋の住宅地区にチェーン店を展開することになった。だがそれはおしんの息子が話を進めたことで、しん自身はそれに猛反対した。なぜなら、出店先には既存の商店街があり、そこにしんの恩人の店もあったからだ。
このドラマが放映されていた頃、経済先進国では“スーパーマーケットの拡大戦略”が問題視されていた。特にアメリカでは、ウォルマートの地方進出が各地で反感を買っていた。巨大な規模と物量で攻勢に出るウォルマートに対し、既存の地元商店街は何もできずに潰れていく。
ところが商店街がなくなったあとに「ここでは利益が取れない」という理由で、ウォルマートはあっさりと撤退してしまう。残るのはシャッター街と買い物難民だけだ。
俗に“焼畑商業”と呼ばれるこのやり方を、しんは作中で露骨に非難した。そこには商倫理がはっきりと存在していた。“ひたすら利益を追求する”という息子の考えと対立したしんは、アメリカ式の大量消費資本主義のアンチテーゼとして視聴者の目に写った。
社会の底辺から努力一つで出世し、莫大な財産を築き上げた少女。だがどんな時も商倫理を忘れず、自由競争の中にも一定の秩序を示したその姿こそ、各国市民を感動させたのだった。
【画像】
※ Earthscape / PIXTA