我が国日本は、昔から水資源に恵まれた国である。
日本全体の年間平均降水量は約1,700ミリ。これは世界平均の倍である。しかも、日本は山がちの国土だから、河川が氾濫して溺死者が出るということはあっても、飲み水がなくて人が渇き死ぬなどということは起こらない。
そういえば日本史上の飢饉も、原因はどれも冷夏長雨がもたらすものであって、干害による飢饉というのはあまり聞いたことがない。もちろん、局地的に見れば干害もあったのだろうが。
ともかく、それほど日本人は昔から水には困っていない。だが、日本以外の国ではそうではない。むしろ“水に困っていない国”のほうが少ないのでは、と筆者は考えている。
水の地域間格差
地球は“青い惑星”である。その青は、もちろん水によるものだ。
|
|
だが地球上に存在する水の殆どは海水だ。淡水は多く見積もってもせいぜい全体の2パーセント強しかなく、しかもそれがすべて飲み水になるわけでもない。人類は、非常に限られた量の水資源を使いながら生きているのだ。
そして先述の通り、水の量には地域差がある。例えば、静岡県の年間降水量は約2,500ミリだが、南アルプスを越えた隣の長野県のそれは1,000ミリにも満たない。日本ですら、こうした地域間格差があるのだ。だが我が国の場合は、全国の隅々に充分な治水インフラが整備されている。でも、それがなかったとしたら?
インドネシアは“よく雨が降る国”というイメージを持たれているが、それはあくまで一地域の話だ。確かにカリマンタン島やスマトラ島は、場所によっては3,000ミリ以上の年間降水量に恵まれている。
首都ジャカルタも約1,700ミリと、日本と同じだけ雨が降る。だが東西に幅広いこの国は、東に行けば行くほど乾燥しているという特徴を持っている。
東ヌサ・トゥンガラ州のフローレス島は、インドネシアの中でも特にインフラ整備が遅れている地域の一つである。島一番の都市マウメレの年間降水量は、せいぜい800ミリといったところだ。
|
|
世界平均くらいの量だが、問題は勾配の激しい火山島なのにダムなどのインフラ整備があまりなされていないという点だ。
乾燥した山岳地帯では、ダムは不可欠である。だがインドネシアの都市開発は、残念ながらジャワ島に偏っているのが現状だ。ジャワ島でなければバリ島やバタム島、カリマンタン島の油田地帯など、外国からの投資が集まりやすい地域ばかりが優先開発される。
だからフローレス島のホテルに行くと、グレードの高いところはともかくとして中級以下の宿のシャワーは小便みたいなものだ。下品な表現だが、それ以外に例えようがない。
水を浪費しないために、ホテルのスタッフがいちいち水道管の元栓を閉じてしまうということもザラにある。
水は神聖なもの
フローレス島はカトリック信徒が優勢の島だ。山奥の集落にも必ず教会があり、ヴァティカン公認の神父が常駐している。
|
|
日曜日になると、フローレス島内の教会は信者でごった返す。そしてカトリックの定めた祝祭日には、祭壇の上になぜか大量のミネラルウォーターが置かれる。
「あれは神への捧げ物なんだ」
とある男性が、筆者にそう教えてくれた。フローレス島では飲み水が貴重であるが故に、それが捧げ物として充分な価値を持つのだ。現にこの地域でのミネラルウォーターの値段は、どんなに安くてもジャカルタの倍以上はする。
だが、世界的に見ればフローレス島はまだ平均水準だ。仮にも年間800ミリの雨が降る。それにすら恵まれない地域も、この世界には存在する。
筆者はモンゴルのカラコルムへ足を運んだことがある。かつてモンゴル帝国第二代皇帝オゴデイが、ここを帝国首都と定めた。世界遺産エルデニ・ズー寺院があることでも知られている。
この周辺を住処とする遊牧民にとって、オルホン川は生きるのに欠かせない“命の水”だ。ゲルに住む少年少女たちの一日は、オルホン川への水汲みから始まる。
そもそもモンゴルは、雨のよく降る地域でも年間200ミリがせいぜいだ。喉の渇きは水ではなく牛乳で潤す。
遊牧民の少女が屠殺した羊を洗浄している場面を見たが、コーヒーカップ1杯の水で腸を綺麗に洗ってしまうのには驚いた。
この国では“水は神聖なもの”というが、それは一滴の水も無駄にはしないという精神に他ならない。
そこにある水不足の危機
今回はフローレス島とカラコルムの水事情を見てきたが、ここから我々日本人は何を学び取ればいいのだろうか?
「我が国はインフラ整備がしっかり施されている。やはり我々は恵まれている」という結論に達したのなら、それは間違いではない。だがそれで考察を終わらせるのは、物事を途中放棄するのと同じだ。
我が国は高レベルの治水インフラが整っているからこそ、そこにある水資源枯渇の危機が見えづらくなっている。
水資源に恵まれているからこそ、我々日本人は“省水生活”の技術をあまり知らない。我々を支える水資源が何かしらの要因でなくなってしまったら、実は打つ手など何も持ち合わせていないのだ。
とりあえず、この記事を読み終えたらあなたの家の蛇口を確認していただきたい。栓が少し開いたままかもしれない。
蛇口からポタポタと落ちる水滴は、まさに血の一滴に等しいものだ。人間は、水なしに生きていけないのだから。
【画像】
※ catolla / PIXTA