舛添知事が27年前に語った言葉「カネにまつわるスキャンダルが民主政治の質を低下させる」

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2016年05月14日 17:02  新刊JP

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『賤業としての政治家』と『東京を変える、日本が変わる』
舛添要一東京都知事が「炎上」している。

海外出張の際には1泊10万円以上の高級ホテルに宿泊、1回の視察の出張費はなんと5000万円以上におよぶこともあると報じられると、世間からは「豪遊ぶりがすごい」「税金のムダ遣い」という声があがった。

さらに、毎週末湯河原町の別荘に行くための交通手段として公用車を使っていたことに加え、2013年1月と2014年1月の2回にわたって、家族旅行の費用計37万円を「会議費用」として処理した疑いがあるとして、政治資金規正法違反の疑いも持ち出されている。

■舛添知事の過去の著作を掘り起こすと…。

確かにスゴイお金の使いぶりだが、これは舛添知事の政治的な信念によるものだと解釈できるかもしれない。


というのも、1989年刊行の『賤業としての政治家』(飛鳥新社刊)の中で、政治家が「庶民性」を打ち出すことについて批判を展開しているのだ。

=====(書籍59ページより引用)
戦後の日本のような大衆社会では、「庶民」というイメージが物を言う。小学校卒の田中角栄が東大卒の福田赳夫に抵抗するときのイメージ操作は、「庶民性」を活用することにあった。カネと暇のあるのは貴族であり、だからこそ「虚業」としての政治にたずさわることができる。「庶民」とは「実業」の世界に生きる人々である。政治家にとって「庶民性」の強調が不可欠になると、政治もまた「実業」化せざるをえない。そこにもまた、政治が「賤業」化する契機がある。
=====

「庶民性」は政治家にとってアピールポイントにはなるが、それは同時に強力なリーダーシップや権威を否定することになりかねず、衆愚政治に堕ちてしまう可能性がある。その点を舛添知事は指摘している。

■政治は「高貴な」仕事であり、一つの「遊び」である。

舛添知事は本書の中で、政治は「高貴な」仕事、「貴業」と呼んでいる。政治は社会のさまざまな利害を平和的に調整し、一つの政策にまとめあげる役割を担う。それはある意味で小説や詩を書くのと同じで、一つの「遊び」であると述べる。つまり、政治自体は実利を出さない「虚業」なのだ。

この本が書かれた当時、リクルート事件によって自由民主党に対する不信が広がっていた。その背景の中で、「虚業」だった政治は、自由民主党の長期政権の間で、私利私欲にまみれた目先の直接的利益を求める「実業」へ転化し、「貴業」から「賤業」へと堕落してしまったと指摘するのである。

■カネにまつわるスキャンダルは政治の質を下げる。

舛添知事のお金の使い方は、「庶民性」を感じさせないエピソードである。しかし、そうした行動は、結果的に悪い方向に行ってしまった。

「政治によって蓄財し、それを私利私欲のために使うとすれば、貴族的精神など生まれるはずはない。カネにまつわるスキャンダルが民主政治の質を低下させる所以である」(P45より引用)

何より、舛添氏が使っていたお金は、税金だった。

5月13日午後2時から行われた記者会見で、支出の一部の返金を明言した上で、都知事続投の意向を示した舛添知事。これからどのように信頼を回復していくのだろうか。

(新刊JP編集部)

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