「中国では2度取材を中断されました」――新聞記者が追いかけた満州国の若者たちの戦後

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2016年05月18日 17:02  新刊JP

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『五色の虹 満州建国大学卒業生たちの戦後』三浦英之さん
「右傾化」が世界的に進んでいるといわれる中で、異民族による協和は果たして実現可能なのか疑問符が浮かぶ。

それでも、可能性はある。それを示すのが「建国大学」の卒業生たちだ。

1932年から1945年の間、現在の中国東北部に一つの国があった。「満州国」である。その建国の際、日本人・漢人・朝鮮人・満洲人・蒙古人の五族が協調して暮らす「五族協和」が掲げられた。

建国大学は1938年、満州国の新京(当時。現在は長春)に創立された、満州の国立大学である。全寮制で将来のリーダーと嘱された学生たちが寝食を共にして学ぶ。国籍も幅広く、日本、中国(満州)、朝鮮、モンゴル、ロシアの若者たちが友情を築き上げた。

建国大学は満州国崩壊に伴い、1945年に閉学することになるのだが、その後も卒業生たちは交流を続けていく。第13回開高健ノンフィクション賞を受賞した『五色の虹 満州建国大学卒業生たちの戦後』(集英社刊)は建国大学卒業生たちのその後を、朝日新聞記者の三浦英之さんが丹念な取材で追いかけた一冊だ。

そんな三浦さんへのインタビューでは、「戦争の記憶をつなぐこと」「民族協和の可能性」を軸にお話をうかがった。三浦さんの眼に映った建国大学卒業生たちの友情。それはとても密度の高いものだったが、その一方で取材を途中で中断させられてしまうケースもあったようだ。

(取材・文/金井元貴)

■建国大学の卒業生たちに受け継がれる「民族協和」の今

――本書はかつて満州に存在した建国大学の卒業生たちを追うノンフィクションです。まずこのテーマで書かれたきっかけを教えていただけますか?

三浦:きっかけは、第二次大戦後キルギスに抑留された経験のある方が新潟にいるから会ってみないかという話でした。そしてその方のご自宅にお邪魔してお話をうかがったのですが、家の中にロシア語の教材が積み上げられていて、「まだ勉強を続けている」と言うんです。

話をしていくと、その方は建国大学の卒業生でした。僕は初めて建国大学という存在を知り、その大学でどんな教育が行われていたのかを知りたくて取材をはじめたんです。

――その新潟の方は取材されたときには85歳。この本は膨大な取材を元に完成されていますが、おそらく建国大学の卒業生の方々がいなくなってしまう直前の最後のタイミングなのではないかと感じました。だからこそ、「語り」がすごく映えている、と。

三浦:そうなのかもしれませんが、僕自身はもう10年早く取材をすれば良かったと思っています。というのも、戦争の記憶をいかにつないでいくかというところに焦点を当てて考えたときに、3つの世代があるんですね。

第一世代は自ら戦争の記憶を持っている人たち。彼らは自ら自分の体験を言葉にすることができます。第二世代は戦後に生まれたけれど、身近なところに生の戦争の記憶を持っている人がいて直接話が聞ける人たち。僕は1974年生まれですが、第二世代の終わりくらいですね。第三世代は戦争の記憶を持っている人が周囲にいない世代です。

この第三世代にいかに記憶をつないでいくかということが問題で、おそらく今はその過渡期です。この本にメインで登場していただいた方の80%は、この4、5年で亡くなってしまいました。そのくらいの年齢になってきているということです。だから、もしあと10年早ければ、もっといろいろな記憶の証言を聞けたかもしれないし、建国大学や彼らの戦後に深くアプローチできた可能性があると思います。

――確かにもっとたくさんの方にアプローチができたかもしれません。

三浦:申し訳ないけれど、記憶が曖昧になっている方も多かったのは事実です。そういう意味でもあと10年早く、という思いはありました。

――それは「あとがき」に書かれていましたね。

三浦:僕らは新聞記者なので、事実の裏取りをしなければなりません。これは大変な作業で、裏付けが取れない証言もたくさんありますし、それらは使うことが難しい。また、今回は電話でお話を聞くことも困難でした。なぜかというと、もう彼らは耳が遠くなっていて、質問の意図が伝わりにくいんです。

ただ、その分、彼らの伝えようという意識が強かったかもしれませんね。自分に残された時間はわずかしかないというのを分かっていたから。

――中国政府によって途中でインタビューができなくなってしまった方もいらっしゃいましたよね。

三浦:そうですね。中国では2度、そういう事態が起こりました。初めの人はインタビューの途中で中断されて、次の人は会うことすらもできなかった。これが新聞記事であれば成立はしません。ただ、ノンフィクションの世界にもっていけば、自分を通すことで取材が中断されてしまったことが、彼らが置かれている現状を示す強い証拠として書くことができます。これは後からの発見でした。

――この本の171ページで、中国政府は「不都合な事実は絶対に記録させない」と書かれています。この一文はとても印象的でした。

三浦:権力者は事実を自分の都合のいいようにしたいと思うものですが、中国は特にそれが昔から長けていますよね。それは中国という国がずっと戦争をし続けてきた歴史に裏付けされるものだと思います。

――今回、三浦さんの一連の取材の中で分かった事実がこうして本として残るということは、そういう風にこの本が歴史の一部として参考にされていくのかもしれません。

三浦:僕はそういう風に読まれるのではなく、卒業生のその後の生き方にスポットをあてることによって、彼らが達成していた国際交流のあり方のヒントを示したかったんです。彼らは「民族協和」をかなり前向きに実践していて、その後も非常に濃密な付き合いを続けている。満州国の中で行っていた彼らの実験は、最終的には失敗してしまったけれども、現代までそれが続いていて、僕らが今継承すべきメソッドがたくさん詰まっていると思うんですね。

――異民族との交流は現代的なテーマです。

三浦:そうですね。僕が今、駐在している南アフリカでもジェノフォビアという、排斥主義の思想がありますが、日本でもそう考えている人は一部だけれどもいます。でも実際は、もう一つの民族、一つの国の中だけで完結してやっていくことは不可能なんですよね。アフリカならば、自動車はトヨタの車がばんばん走りますし、日本メーカーの電化製品はたくさんの人に使われています。

現代は、もう自分たちの民族だけでやっていくという思想では成立しません。他の民族との交わりの中で生きていけなければいけない。そこでヒントになるのが、彼らが建国大学卒業生の交流です。これは紛争問題を解決する一つの提案だと思います。

――彼らがその場で民族共和の一つの形を作れたことは、若さがあったのでは思います。

三浦:それは絶対にありますね。僕は今、41歳なんですが、家族がいて仕事があって、生きていく上である程度の年収は必要になります。しがらみもすごく多い。その中で、異民族の人たちと一緒にやっていこうとしても、かなり難しいところがあります。でも、17、18歳くらいの子たちならば、若さがあるし、何よりも失敗できるんですよね。

損得なく喧嘩ができるし、夢を語り合うこともできます。一緒にバカなことをすることもできるでしょう。それこそが彼らの強みだと思います。

(後編に続く)

■三浦英之さんプロフィール
1974年神奈川県生まれ。京都大学大学院卒。朝日新聞記者。東京社会部、南三陸駐在などを経て現在、アフリカ特派員(ヨハネスブルク支局長)。著書に『水が消えた大河で──JR東日本・信濃川大量不正取水事件』(現代書館刊)、 『南三陸日記』(朝日新聞出版刊)がある。

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