ポルノに表現の自由なんてあるのか? ナイジェル・ウォーバートン『「表現の自由」入門』

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2016年05月25日 23:01  おたぽる

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おたぽる

『「表現の自由」入門』(岩波書店)

 そもそも「表現の自由」ってなんなのか。これまで、筆者も「表現の自由」がテーマとなるさまざまな問題を取材し、著書も執筆してみた。でも「表現の自由」がなんなのかは、よくわからない。



 この記事を読んでいる人すべての考える「表現の自由」が一致することはない。だから「『表現の自由』を守ろう」というお題目は、ものすごく扱いづらい。



 そんなしちめんどくさい「表現の自由」という問題を、ナイジェル・ウォーバートン『「表現の自由」入門』(岩波書店)は、解きほぐしてくれる。本書の原書は2009年にオックスフォード大学の「Very Short Introduction」シリーズの一冊として刊行されたもの。ゆえに「表現の自由」を、こういうものであると断定するのではなく、さまざまな視点から、基礎を教えようという意志で記述されている。



 本書では、冒頭に表現の自由の根本原理として2つの資料を示す。合衆国憲法第一修正と国連人権宣言(世界人権宣言)第19条である。そのまま引用してみよう。



 合衆国議会は……言論・出版の自由もしくは人民が平和的に集会し、不満の解消を求めて政府に請願する権利を奪う法律を制定してはならない。
(合衆国憲法第一修正)



 すべて人は、意見及び表現の自由に対する権利を有する。この権利は、干渉を受けることなく自己の意見をもつ自由並びにあらゆる手段により、また、国境を越えると否とにかかわりなく、情報及び思想を求め、受け、及び伝える自由を含む。
(世界人権宣言第19条)



 本書では、これを金科玉条とするのではなく、この2つの条文が、蓋然性のある基本原理であるとした上で「表現の自由」の価値と課せられるべき制限について、さまざまな論点を示していく。



 本書の中では言論と表現の自由は一体とのものとして記述されていくわけだが、その中で著者は、その擁護者たちはなんらかの制限の必要性を認識していることを記し「自由は放縦は混同されるべきではない」とする。



 ここで著者は、それが完全な自由な状態であれば、誹謗中傷や児童ポルノ、国家機密の漏洩を許容することになると指摘する。そして「望むに値する言論の自由の種類とは、あなたの見解を適当な時に適当な場所で表明する自由であり、自分に都合のよい時にいつでも発言する自由ではない」と釘を刺す。



 その上で、本書では巨大な「表現の自由」は、いかなる場合にいかなる制限を受けるべきかについて、これまで行われてきた膨大な議論をコンパクトにまとめていく。



 そこで記される内容は、翻訳書ゆえに日本国内ではあまり気にも留めなかったが、実は重大な価値を持つものが多い。例えば、ポルノグラフィの項では、最近は知る人も増えたポルノによる女性への社会的危害を主張するキャサリン・マッキノンの主張と、それに反対するフェミニズムの双方を取り上げている。



 だが、ここで注目すべきは、その前にハードコア・ポルノ(註:実際の性行為を扱うもの。日本ではアダルトビデオが該当する)が、言論の自由に該当するか否かという議論が存在することも紹介していることだ。



 ここでは、ハードコア・ポルノがセックスの補助具の役割でしかないとする議論も紹介した上で、著者は「ハードコア・ポルノを含むポルノは、時には思想の市場に入ることを許されるべき思想を表明できる」と記す。



 ポルノグラフィの問題に限らず、ヘイトスピーチなど、本書の中で取り上げられている項目の中で、著者は一貫して「表現の自由」を語るにあたって個人的な感情や道徳観を排除した上で、いかなる制限が課されるべきかが重要であることを記している。



 そして、その制限がいかなるものであるべきか。本書の中で著者は結論を示さない。というのも、個別の事象によって状況はまったく異なるからだ。とりわけ、戦時下において国家機密の漏洩やサボタージュを行うような表現に対して、著者は否定的に見える。とはいえ、それもまた、どのような形で規制されるべきか、さまざまな議論があるだろう。



 少なくとも「表現の自由を守る」という言葉には、いくつものウソが隠れている。その上で、どうするかを考えるための一冊だ。
(文=昼間たかし)


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  • ミロのビーナスやダビデ像が芸術である限り、芸術は守られるべき。
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