同性愛者が見た『ズートピア』論 多様性と偏見を巡って

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2016年08月24日 08:00  KAI-YOU.net

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同性愛者が見た『ズートピア』論 多様性と偏見を巡って
本稿は、2016年6月3日に公開された記事の再掲となる。公開にあたって寄稿者に序文を加えていただいた。


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8月24日(水)、ディズニーのアニメ映画『ズートピア』のパッケージ版であるMovieNEXが、日本での販売を開始しました。

『ズートピア』は国内の興行収入が70億円を超え、世界興収も10億ドルを突破するなど、全世界的に大ヒットした作品です。そんな『ズートピア』について、公開当時、私は同性愛者という立場からレビューをしました。今回、パッケージ発売にあたって、その記事を再掲させていただく運びとなりました。

この記事を公開した9日後、アメリカ・フロリダ州のゲイナイトクラブで100人以上が死傷する銃乱射事件が起こりました。死亡した容疑者は普段から同性愛者を嫌悪する発言が目立っていたといいます。

また、8月頭には、一橋大学法科大学院の男子学生が友人の男子学生に告白をした後、アウティング(秘密にしている同性愛指向などを他人へ暴露されること)によって心を病み、結果として転落死した事件の裁判が注目を集めました。こうした出来事もあってか、現在、LGBTといった性的マイノリティをめぐってはさまざまな意見が噴出しています。

人々が亡くなり、傷ついたことは本当に悲しいことです。一方で、正直に言ってしまうと、いずれの事件の当事者でない筆者には、引き起こされた事件をもって、LGBTをめぐる事件で糾弾されている人々の人格までを断罪できるとは思えず、また、そうしたいとも思えません。その理由の一端は、この記事で書いたようなことを考えているからだと思います。

今月11日、有名なジャーナリストである鳥越俊太郎氏は、日本版「ハフィントンポスト」のインタビュー(外部リンク)において、「ペンの力って今、ダメじゃん」「ネットにそんなに信頼を置いていない。しょせん裏社会だと思っている」と語り、大きな話題となりました。

それでも、木っ端なライターの私は、ペンとネットの力に託すような気持ちで、当時この記事を書きました。私はまだ“ペン”と“ネット”、そして『ズートピア』のような“フィクション”の力を信じています。願わくば、この記事が多くの人に読んでもらえますように。

“この世界をより良くするために”奮闘するジュディに敬意を表して。

文:須賀原みち 編集:新見直

同性愛者が見た『ズートピア』論 多様性と偏見を巡って


4月末より公開されたディズニー映画最新作『ズートピア』。すでに、ネット上でも本作を絶賛するレビュー記事は、数多く公開されています。

本稿では『ズートピア』の魅力を簡単に紹介すると共に、作中で「感動の名場面」とされているあるシーンから、本作のテーマとされる“差別や偏見”について、極私的な立場で筆者なりに紐解いていこうと思います

※多少のネタバレは含みますが、鑑賞前の人も是非読んでみてください

1.あらすじ紹介 『ズートピア』はありふれた良い話だったか?


本作の簡単なあらすじは、以下の通り。

肉食動物が草食動物を捕食する野蛮な時代ははるか昔に過ぎ去り、動物たちは文明を築いて暮らすようになりました。

その象徴ともいえるのが、さまざまな種族の動物が共生する文明都市“ズートピア”。ここは誰もが夢をかなえられる楽園。そんなズートピアから遠く離れた田舎町で育ったウサギのジュディ・ホップスの夢は、“ズートピア初のウサギの警察官になって、世界をより良くすること”。

「ウサギは警察官になれない」という両親の説得や警察学校の厳しい訓練を耐えぬいたジュディは見事警察官となり、ズートピアに着任します。しかし、赴任した警察署(ZPD)でジュディは疎んじられ、同僚が街を騒がす連続失踪事件の捜査にあたる中、ひとり駐車禁止違反の取り締まりを命じられます。そう、ここズートピアにも種族に対する差別や偏見は存在したのです。



めげずに頑張る彼女は、詐欺紛いの商売を生業とするキツネのニック・ワイルドと出会います。ニックは“ずる賢い”というキツネのパブリックイメージ通りに生きているように見えます。出会った当初は、互いに反発し合うジュディとニック。しかし、ある事件をきっかけに2人は共に連続失踪事件の謎を追うことに──。



筆者個人的には、鑑賞前の『ズートピア』の第一印象は、決して心惹かれるものではありませんでした。ディズニー映画史上初となるダブルヒロインの『アナと雪の女王』では美しい氷と雪の意匠が、マーベル・コミックの「Big Hero 6」原作の『ベイマックス』では白い巨大医療ロボットが目を引くのに比べ、『ズートピア』のウサギやキツネといった擬人化された動物というビジュアルは、いわゆる“子ども向けのディズニー”然としていて、正直特別な期待をしていませんでした。“ありふれた良い話”なんじゃないかって(これだって、とんだ偏見なんですが)。

しかし鑑賞後に思ったのは、『ズートピア』は“ありふれた良い話”なんかではなくて、紛れもない傑作だということ。

それはなぜか? 一人でも、友達や恋人、家族、誰と見に行っても老若男女が楽しめるエンターテインメント作品で、そして本作のテーマとされる“差別や偏見のある社会”を真摯に描いている作品だからです。特に筆者には、そう強く感じられる理由がありました。

2.『ズートピア』の魅力 伏線を回収する巧みな脚本と、多様性のあるキャラクター描写


まず、『ズートピア』の魅力として真っ先に挙がるのは、膨大な伏線を見事に回収する“巧みな脚本”でしょう。本作には「無駄なシーンがひとつもない」と言ってもいいほど、至るところに伏線やモチーフが散りばめられています。

例えば、ZPD着任初日にジュディが本性を表したニックと街を歩くシーンで、ニックは露店からブルーベリーをくすねます。その後、ジュディの実家でつくったブルーベリーを気に入るニック。そして、最後にはこのブルーベリーが起死回生の一手となります。

また、録音機能付きの人参ペンは、本作で最も印象深いアイテムでしょう。クライマックスでは、2人の切り札となって登場する人参ペン。クライマックスだけを見れば、その使われ方はありきたりにも思えるでしょう(犯人が語るに落ちるパターンによくあります)。しかし、当初、打算的にジュディとニックを結びつけていた人参ペンが、会見のシーンでは2人の信頼関係を、トンネルのシーンでは2人の和解を表象し、最後には「2人の絆が勝ったのだ」と言わんばかりに登場します。見ている側としては、ついついニヤリとしてしまうでしょう。

今挙げた2つは代表的な例ですが、ほかにも伏線や反復するモチーフは数えきれず、見返すごとに新しい発見があるはずです。

例えば、ZPDのバッヂシールがジュディ→ニックの詐欺仲間・フィニック→ニックへ──という一連の流れに、筆者は2回目で気付きました。その流れがわかると、ジュディを否定的なZPDの面々に対して、ニックがそのシールを誇示するシーンがより印象深く思えたのです。ほかにも、羊のダグが序盤に登場していたりと、『ズートピア』は何度見ても飽きない見事なつくりとなっています。

そして、『ズートピア』の魅力として、「『ズートピア』のなかには、あなたに似ているキャラクターがきっといます」と謳われるように、“多様性のあるキャラクター”も欠かせません。

太ったチーター、幼い容姿ながら中身はハードボイルドなフェネックギツネ、ヌーディストクラブでヨガを習っていた真面目そうなカワウソ、小さなトガリネズミの“Mr.ビッグ”、ガゼルのアプリで遊ぶ厳つい署長、腹に一物を抱えた羊、スピード違反の車をぶっ飛ばすナマケモノ……作中に登場するキャラクターの多くは、それぞれ意外な一面を垣間見せてくれます。



種族、性別、年齢、大きさ…さまざまな差異を持った動物が一つに集まる都市「ズートピア」ですが、そこに集まる個人にもさまざまな顔があって、多様で多面的な存在なのです。だから、『ズートピア』の動物たちはあんなにも愛らしく見えるのでしょう。

この多様性・多面性の実現こそが、『ズートピア』で描こうとしている“ユートピア=楽園”なのです。

以上が、『ズートピア』の魅力のほんの一部である“巧みな脚本”と“多様性のあるキャラクター”についてです。

ここまでで『ズートピア』に興味を持った方は、是非劇場に足を運んでみてください。きっと期待を裏切らない楽しさが待っているはずです。

3.『ズートピア』において「なぜニックはジュディを許したのか?」という問い


実は、『ズートピア』鑑賞後、筆者は「なぜニックがジュディを許したのかわからない」という意見を数人から聞きました。

ニックと協力して事件を解決した(と思っていた)ジュディが、その会見で、肉食動物への偏見を助長するようなスピーチを行い、傷付けられたニックは彼女の元を去ります。その後、自身の犯した過ちに気づき、警官を辞して実家のニンジン販売を手伝うジュディ。そこで肉食動物が凶暴化した本当の原因を知り、彼女はニックに助けを求めます。そして、ニックはそんな彼女を受け入れます。

ジュディはこのトンネルでのシーンで、ニックに対して明確な謝罪の言葉は口にしません。「許してもらおうなんて思ってない」「自分でも(自分のことが)許せない」「でも、あなたがいないと無理なの」と語りかけます。

では改めて、なぜこのシーンで、ニックはジュディを許したのか? この問いに対して、ある知人は「それはニックがジュディを愛していたから」と答えました。なるほど、ニックはジュディが好きだから彼女を許せた。ジュディの過去の過ちを許して、愛する人の力になってあげたい、そういうことなのかもしれません。

確かに、この物語を、恋愛と見ることもできます。でも、本当にそれだけでしょうか? ニックはジュディを“許した”のではなく、彼自身が“救われた”から、そのお返しとして彼女の力になったのではないか。筆者はそう感じました。

4.ジュディが謝罪の言葉を口にしなかった理由


まず、彼女が許してもらおうとも思えず、自分でも許せなかったこととは何か?

それは、“肉食動物に対する偏見を助長する会見をしたこと”、つまり、ジュディのした“行為”についてでしょうか。そうではなく、ジュディは、表面的にはニックを頼りながらも、心の中で肉食動物に抱いていた“誤った認識(=差別や偏見)”が許せなかったのではないでしょうか。

「ウサギは警察官になれない」という偏見に苛まれ、対峙してきた彼女も、キツネに対する偏見や幼少期のトラウマを払拭できていませんでした(だから、キツネ避けのスプレーを携帯していました)。彼女は、自身の経験から“キツネ”というフィルターを通して、他者(ニック)を見つめていたのです。

しかし、ジュディは実家で、小さい頃に“間抜けなウサギ”である自分を敵視し、トラウマを植え付けられた張本人であるキツネのギデオン・グレイがパティシエとなり、両親と仲良く過ごしていることを知ります。

あれほどキツネに対して根強い偏見を抱き、自分に偏見を植え付けてきた両親。そんな“頭が堅い”典型的な保護者として描かれていた彼らのふとした寛容さを目の当たりにしたジュディは、自分の愚かさに、本当の意味で気付きます。

彼女はそこで、自分がこれまで持っていた「キツネは心からは信用できない」という“誤った認識”を許せないと思ったのでしょう。

一方のニックは、ジュディが自分の過ちを心から悔いていることは当然知りません。ニックには少年時代、草食動物の集まるJr.レンジャー部隊に入ろうとした時に、「キツネは肉食動物で、狡猾だから」という理由だけで苛められた過去があります。そして彼は、世間が持つキツネのイメージ通り、ずる賢く生きていくことにします。そうすれば、「キツネだから」と揶揄されてもきっと傷つかない。だって、自分は“ずる賢いキツネ”だから。他人から貼られた“キツネ”というレッテルを自ら貼って、姑息に生きていきます。

ひどく個人的なことで恐縮ですが、筆者は同性愛者です。そんなこともあってか、鑑賞中はついついニックに共感してしまうことも多かった。「キツネだから」と決めつけられ、一緒くたにされる。一方で、“自分がキツネであること”は自身の行動原理や考え方に否応なく関わってきます。何にだってなれると思っていた楽園でも、ウサギはウサギ以外にはなれず、キツネもやっぱりキツネでしかないのです。ただし、どんなウサギで、どんなキツネなのかは個人に依るところが大きいはずです。“ずる賢いウサギ”もいれば、“間抜けなキツネ”だっています

5.私の見た『ズートピア』


話を戻しましょう。繰り返しますが、なぜニックは、謝罪の言葉も口にしなかったジュディを許したのでしょうか?

多分ニックはジュディに悪意がなかったこともわかっていたと思います。凶暴化した肉食動物を隔離した元病院で、研究者は凶暴化の原因として「生物学的要素」を挙げます。それを聞いていたジュディは、会見で悪びれもせず「生物学的要素で肉食動物が凶暴化した可能性がある」と言います。それはある意味、一般的な“普通の”認識に基づいた発言です。

そんな“普通の”発言について謝られたところで、ニックは嬉しいでしょうか? 彼は、そんな風に言われることにはもう慣れています。謝られたところで、「世界なんて、そんなもんだ」と、少しの諦念と共に思うでしょう。

筆者がカミングアウトをした人の中には、普段から「同性愛者はキモい」と公言していた人もいます(もちろん、もっと辛辣な言葉を聞いたこともあります)。でもやっぱり、その人に過去の発言を謝ってもらいたい、と思ったことはありません。

ジュディはあのシーンで、“この世界をより良くするために”「あなたがいないと無理なの」と、ニックに呼びかけます。自分の中の偏見と向き合うことで自分の世界を変えつつあったジュディが、今度は自分が助長させてしまった偏見に満ちた世界を変えるために、ニックの力を必要とします。そこで、ニックは“救われた”んだと思います。蔑まれ続けてきた自分の存在が大なり小なり“世界=他者を変えることが出来る”、そう思えただけで

偏見をぶつけられた人から、謝罪の言葉が聞きたいわけではないのです。ただ、同性愛者に辛辣な言葉を口にしていたその人から、「世界の見方が変わった」と言われた時、とても嬉しかったことを、筆者も覚えています。もしかしたら、その人はこれからも偏見に基づいた発言をしてしまうことがあるかもしれない。でも、その時、その人の頭にふと筆者のことがよぎってくれたら。そうしたら、こんな自分でも少しは“世界を変えられた”と思える。嬉しくて、自分が“救われた”と思える。たとえそれが、愛する人からの言葉でなくても。

“許す”という行為には、上下関係が生じます。どちらか一方が悪くて、それを許してあげるという非対称な関係。

例えば、同性愛をカミングアウトすると、こんな風に言われることがあります。「そういうの(同性愛)もアリだと思うよ!」なんて。もちろん善意からの言葉でしょう。その人は良い人だな、とも思います。でも、すっかりひねくれてしまったキツネのような筆者には、それが「(自分とは違うけれど)そういった世界が存在してもよいでしょう」という“許可”、つまり“許し”の言葉のように聞こえてしまうことがあります。ひどく曲解した捉え方であることはわかりつつも、それでも、思ってしまうのです。私とあなたのいる世界は地続きではなかったのか。草食動物と肉食動物の住む世界は、別の世界だったのか、と。

『ズートピア』はバディ(相棒)・ムービーで、2人は対等な立場です。だからか、ニックはジュディに対して「許す」なんてセリフは使いません。自分を救ってくれたジュディが困っていて、自分を必要としている。そんなジュディの力になってあげたいと思うのは、当たり前に思えます。それに彼女は、私とあなたが一緒にいる“この世界をより良くするために”助けを求めているんですから。

だから、「なぜニックがジュディを許したのかわからない」という疑問に対して、筆者はこう答えます。そもそもニックは“許す/許さない”なんてことは考えていない。「ただ、自分を救ってくれた人を助けたい」という気持ちから、彼女の呼びかけに応えたのだ、と


──これが、筆者の見た『ズートピア』でした。読者の中には、異論・反論がある人もいることでしょう。だから、あなたの見た『ズートピア』を、あなたの世界の見方を教えてください。それでわかり合ったり、わかり合えなかったりしてみたほうが良いと思うのです。とりあえず、“なんでもやってみよう”。その時には、本稿には入らなかった、私から見たクロウハウザーのプリティーさも存分にお話しできるかもしれません。

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  • この世に”全き悪”があるとして、自分は”善”で信じているあなたは”悪”を赦し、受け入れることができますか?共存できない感情というものがある限り、何らかの違和感を抱えたまま共存するほかない。
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