【古式銃のテクノロジー・前編】すべては「種子島」から始まった

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2016年09月11日 13:10  FUTURUS

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FUTURUS(フトゥールス)

「火縄銃伝来」という出来事は、どこの中学校でも必ず取り上げられるだろう。

1543年、後期倭寇のジャンク船に乗った3人のポルトガル人が種子島に上陸した。彼らはマスケット銃を所持しており、それを種子島の領主に見せた。このあたりは日本人なら誰しもが知っているであろう知識である。だがその銃を、地元の鍛冶職人がたった1年ほどでコピー生産してしまったことは意外と知られていない。

種子島は、もともと鋳物づくりが盛んな地域だった。島では上質の砂鉄が採取できたのだ。こうした基礎技術が、短期間での鉄砲製造を可能にした。

これは見方を変えれば、我が国の工業史の金字塔である。火縄銃は日本の伝統技術のレベルを証明し、しかも後世に渡ってその技術を大きく発展させた。

今回の前後編連載『古式銃のテクノロジー』は、当時の最新鋭兵器である銃の構造はもとより、それが我が国の工業技術に何を与えたかを追求するものである。

必要不可欠なふたつの部品

火縄銃、すなわちマッチロック式マスケット銃とは、ご存知の通り火種を火薬に押しつけることで弾丸を発射する武器である。

火縄銃の製造には、以下のふたつの部品が欠かせない。ネジとバネだ。

ネジは銃身末尾の穴を塞ぐために用いられる。これは尾栓ネジと呼称されるが、16世紀中葉の日本にはネジ製造の技術がなかった。そのため、刀鍛冶の八板金兵衛は自分の娘をポルトガル人に差し出し、代わりにネジの製法を教えてもらったという伝説もある。


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ともかく、金兵衛の仕事は極めて早かった。鉄砲伝来から国産化成功を領主に報告するまで、わずか1年程度。ネジには手間取ったものの、それ以外の部分は1年足らずで製造してしまったという。

だが、もし金兵衛が刀鍛冶でなかったら、バネの製造にもてこずっていたかもしれない。着火媒体である火縄を操作する火挟みという部品は、バネの力で上下する。だがバネというものは、材料となる金属に強度と柔軟性がなければ話にならない。硬すぎたら折れるし、柔らかすぎたらバネとして使えない。

そうした絶妙な金属を生産できるのは、日本では刀鍛冶しかいなかったのだ。

職人たちの戦国時代

そしてさらに重要なのは、この火縄銃が種子島だけの特産品にならなかったことだ。

火縄銃の製造技術はすぐさま畿内に伝搬し、当地での量産が始まった。これは優秀な刀鍛冶が、日本全国に存在したという証でもある。そうでなければ、鉄砲は「種子島でしか製造できない代物」になっていたはずだ。

この時代が、ちょうど戦国期であったことにも触れる必要がある。

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中世日本に君臨していた室町幕府は、全国各地の守護大名に囲まれながら存続していた。だがこの政権の問題点は、力のある守護大名に政治的権限を与え過ぎたことだった。次第に守護大名が中央政権の方針に介入し、さらにその守護大名も従属勢力からの突き上げを食らい権力区分が細分化してしまった。それが戦国時代である。

鉄砲伝来前の日本は、各勢力が領土拡大を目論んでいたとはいえ「自分たちの上には室町幕府がある」という点だけは一致していた。当時の足利将軍家は、互いに競い合う諸大名の隙間でかろうじて命脈を保っていたのだ。

ところがその足利将軍家を駆逐し、さらに室町幕藩体制に固執する守護大名をも粉砕できる力を手にした男がいる。

織田信長だ。

奇跡の鍛造技術

戦国時代の真の主役は、職人たちである。

たとえば、建設業を主な産業としている村があれば、戦国大名たちはどんな手を使ってでもその村を味方に引き入れようとした。「どんな手を」というのは決して武力に頼った方法ではなく、早い話が買収である。特に織田信長の場合は他の大名と比べて、戦争そのものに強かったというわけではない。だが彼は、驚異的なスピードの野戦築城を可能にする土木集団を有していた。それは要するに、圧倒的な経済力で職人を囲い込んだということだ。

鉄砲鍛冶も例外ではない。信長はかねてより鉄砲生産で名が知られていた国友という集落に、惜しみない投資を行った。結果、日本の鉄砲はヨーロッパのそれとは異なる独自の進化を遂げるようになる。

日本の火縄銃は、大口径銃が非常に多い。三十匁、六十匁、百匁、そして二百匁の火縄銃というのも存在する。百匁以上の銃は、ヨーロッパでは大砲と見なされるだろう。だがそれらは青銅を鋳造したものではなく、鉄を鍛造したものだ。

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鍛造、すなわち「叩いて引き延ばす」手法による鉄製品は、あまり大きなものにはならない。当然だが、鋳造のほうがより大きなものを作ることができる。ところが鉄を完全に溶かすには摂氏1,500℃強の温度が必要で、16世紀にそのようなことができる鋳物職人は皆無だった。反射炉の発明はまだ先のことである。

だから日本の鉄砲鍛冶は、鉄鍛造の限界に敢えて望んだ。その結果、二百匁火縄銃というような恐ろしく巨大な代物まで登場した。ヨーロッパの職人なら青銅の鋳造で済ませるようなサイズの代物を、日本人は鉄でこしらえてしまったのだ。

こんな国は他にない。

【動画】

※火縄銃の組み立て、発砲。−YouTube

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このニュースに関するつぶやき

  • 此れ等の正しい歴史を 学校で教育しない国も珍しい。日本くらいか?
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