トルコ政府とPKKとの抗争における「村の守護者」の役割

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2016年10月13日 17:21  ニューズウィーク日本版

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ニューズウィーク日本版

<トルコ政府とクルディスタン労働者党(PKK)の抗争が激しさを増している。トルコの治安関係者の中でも多くの犠牲者を出していると言われるのが、「村の守護者」と呼ばれるクルド人だ。「村の守護者」とは...>


 トルコ政府とクルディスタン労働者党(PKK)の抗争が激しさを増している。2013年3月下旬から2015年7月中旬まで停戦し、和平交渉を進めてきたのが遠い昔に感じられる。国際危機グループ(International Crisis Group)によると、2015年7月から2016年7月までの一年間で307名の市民、582名のトルコ治安関係者、633名のPKK兵士、所属が不明の219名の若者が命を落としている。犠牲者は、和平交渉前の2011年6月から2013年3月までの時期の死亡者数をすでに上回っている。1984年に始まったトルコ政府とPKKの抗争ですでに4万人以上が亡くなっている。


【参考記事】トルコ結婚式で51人死亡、12─14歳の子ども自爆テロ


PKKに対抗させるために設立されたクルド人「村の守護者」


 トルコの治安関係者の中でも多くの犠牲者を出していると言われるのが、「村の守護者(Köy Koruculuğu)」と呼ばれる人々である。最近では2016年9月27日には、PKKによってハッキャーリ県をパトロールしていた村の守護者3名が命を落とした。村の守護者とは、どのような人々なのだろうか。


 村の守護者は、PKKの抗争が始まった翌年の1985年にトルコ政府によって設立された、クルド人の部族や村人に武器を提供し、PKKに対抗させるという制度であった。この制度は、トルコ共和国建国初期に、建国の混乱に乗じて村を襲うギャングに村人が対抗するために採択された「一時的な村の守護者法」をアップデートしたものであるが、その起源はオスマン帝国の末期にアブデュルハミト2世が組織したクルド人の非正規軍、ハミディエであると言われている。


 この村の守護者と呼ばれるシステムが機能した背景として、3つの点が指摘できよう。


 第一に、PKKは発足当初、クルド人が多く住むトルコの東部および南東部で正当性を確立するため、自分たち以外のクルド人の組織の壊滅に力を入れた。そのため、PKKを快く思わないクルド人の組織や部族の人々は多数存在した。


 第二に、第一の点とも関連するが、クルド人と一口に言ってもその内実は非常に多様であるという点が指摘できる。イスラームの信仰に篤いクルド人、世俗的なクルド人、スンニー派のクルド人、シーア派のクルド人など宗教に対するスタンスも違いがあり、話す言語も地域によって異なる。PKKは世俗的な立場をとる組織であるが、例えば、90年代から2000年代初頭にかけてPKKと抗争したトルコ・ヒズブッラーは、PKKと異なり、イスラームに敬虔な人々から支持を集めた。


 第三に、トルコの東部および南東部は産業が発展しておらず、村の守護者制度は政府から安定した収入を得られるという点で魅力的であった。当初、トルコ政府は個人を対象に採用していたが、次第に部族のネットワークに着目し、特定の部族を一括採用するやり方に変更した。2016年現在、約2万1800人が恒久的に、さらに約4万7500人が一時的に村の守護者として採用されている。恒久的な村の守護者は、毎月収入を得ることができる他、健康保険などの行政サービスも受けることができる。一方、一時的な村の守護者は、収入は得られないが、行政サービスは受けることができる。


 いずれにせよ、ゲリラ戦術を得意とするPKKに対して、クルド人地域の特徴をよく知り、クルド語も理解できる村の守護者は、戦力として、情報提供者として、トルコ政府にとって欠かせない存在であった。


トルコ政府とPKKの抗争の激しさを図るバロメーター


 とはいえ、村の守護者制度にも多くの課題があった。1980年代、トルコ政府は部族長などを通して、村の守護者のコントロールに成功していた。しかし、90年代に入り、PKKとの戦いが激しさを増す中で村の守護者を増やした結果、次第に彼らを十分にコントロールできなくなった。


 例えば、PKKからの報復を恐れる者が逃走したりPKKに寝返ったりという事態が起こるようになった。この背景には、村の守護者に対するPKKの容赦ない攻撃があった。村の守護者当人はもちろんのこと、その家族、部族もその対象とした。1999年にPKKの党首、アブドゥッラー・オジャランが逮捕されたことで、PKKの勢力は一時的に弱まったものの、2000年代に入り再び攻勢を強めるようになった。村の守護者は、相変わらずPKKにとって主要な攻撃の対象であり続けている。


 加えて、村の守護者には、自身のステイタスや政府から支給された武器を私的な目的で使用しているという批判が付きまとっている。1985年から2003年の間に犯罪に加担した村の守護者は約4800人に上ると見られている。


 このように、多くの犠牲者を出し、さらに問題も指摘される村の守護者制度だが、PKKとトルコ政府の抗争が激しくなり、新たな和平交渉の糸口が見えない中、その役割が再評価されている。


 2016年9月1日に新たに内務大臣に就任したスレイマン・ソイル(Suleyman Soylu)は、9月23日に22の地域から村の守護者の代表37人を招集し、村の守護者制度を強化することを約束した。また、内務省下に村の守護者制度を専門に扱う部署を設置することも決定した。このように、村の守護者制度は、トルコ政府とPKKの抗争の激しさを図るバロメーターの1つである。




今井宏平(日本貿易振興機構アジア経済研究所)


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  • ベトナム戦争における戦略村みたいなもんかな?……金の切れ目が何とかの切れ目にならないようにな
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