ポジティブ思考信仰の危険な落とし穴

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2016年11月09日 10:51  ニューズウィーク日本版

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ニューズウィーク日本版

<自己啓発本は前向きになることが幸せな人生のカギだとうたうが、楽観主義を強要されて鬱になるリスクも>


「楽観的になりなさい!」「幸せは自ら選んで手に入れるもの」――書店には幸せになるための自己啓発本が数多く積まれている。アメリカで1952年に出版され、15カ国語に翻訳された『積極的考え方の力――ポジティブ思考が人生を変える』(邦訳・ダイヤモンド社)は今でも根強い人気だ。


 プラス思考を身に付ければ誰でも幸せになれるという考え方は、問題に対処するスキルを向上させたり心の健康を保つ手法として、学校や職場、軍隊などで広く採用されてきた。


 しかしこの考え方が広まるにつれて、鬱や不安に悩んだり、時々ネガティブな感情を抱くだけでも恥ずべきことだと思う意識も高まり始めた。その弊害は、心理学の学術誌「モチベーション・アンド・エモーション」でも指摘されている。


 同誌10月号に掲載されたエール大学の研究者エリザベス・ニーランドらの研究によると、感情を簡単にコントロールできると考えている人は、そうでない人に比べて、ネガティブな感情を覚えたときにそれを自分のせいだと感じやすいという。


 心理学者たちは何年も前から「ポジティブ心理学崇拝」の危険性、特に自尊心に及ぼす影響を研究してきた。その結果、ポジティブ思考によって幸せになれる人もいるが、挫折感を覚えたり鬱に陥る人もいることが示されている。


【参考記事】「誰かに認められたい」10代の少女たちの危うい心理


 幸せじゃないのは自分に問題があるせいだと責め立てられるようなポジティブ思考の押し付けによって、アメリカの鬱病患者はかえって増加していると訴える専門家もいる。


 メンタルヘルスにおけるポジティブ心理学のアプローチの始まりは、1950年代にさかのぼる。アメリカの心理学者アブラハム・マズローが54年に著した『人間性の心理学――モチベーションとパーソナリティ』(邦訳・産業能率大学出版部)の中で、「ポジティブ心理学」という言葉が初めて登場した。


 マズローはこう書いている。「心理学はこれまでポジティブな側面よりもネガティブな側面ばかりに光を当ててきた。人間の欠点や病気、罪について多くを研究してきたが、人間の潜在能力や美徳などについてはほとんど目が向けられていない。自ら研究領域を半分に制限してきたようなもので、しかもそれは人間の暗く卑しい心理だ」


笑えない自分に罪悪感


 近年は企業や軍隊でもポジティブ心理学が採用されるようになり、その影響は大衆文化にも及んでいる。だがポジティブ心理学が広まるにつれ、そのアプローチはよりシンプルな言葉で表現されるようになった。「ポジティブ思考」だ。


 心理学者のマーティン・セリグマンが考案したポジティブ心理学の下に、ずさんな研究が数多く発表されるようになったと、ウェルズリー大学のジュリー・ノレム教授は指摘する。それらの研究の大半が、楽観主義とポジティブ思考が幸せな人生をもたらすと主張した。


 だが、このように簡略化されたポジティブ心理学は、むしろ人々の心に害を及ぼすのではないかとの懸念が近年高まっている。「前向きになることを強要されている」と、ボードン大学の心理学者バーバラ・ヘルドは言う。「苦しいときでも笑ったり楽観的になれない人は駄目だという雰囲気がある。深い悲しみに陥っても、数週間で乗り越えるべきだと思われている」


 ヘルドによれば、ポジティブ思考の強要は2段階で襲ってくる。まず心に痛みを抱えている自分が嫌になる。次にそこから前に進めず、プラスの側面に集中することができない自分に罪悪感を覚えるようになる。


 ポジティブ思考が裏目に出ることは複数の研究でも証明されている。クイーンズランド大学(オーストラリア)が12年に行った研究では、後ろ向きになるべきではないと周りから思われていると感じていると、よりネガティブな感情を抱きやすいことが分かっている。


 09年にサイコロジカル・サイエンス誌に掲載された研究では、「私はみんなに好かれる人間だ」などポジティブな言葉を使うよう強制されると、かえって自信が持てなくなる人がいるという。


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プラス思考で金融危機に


 世の中には、ポジティブ思考よりもネガティブ思考、いわゆる「防衛的悲観主義」のほうが向いている人が存在する。防衛的悲観主義者はすべてが悪いほうに転ぶ可能性を考えることによって不安を緩和し、往々にして悪い結果を回避すると、ノレムは言う。


 一方で防衛的悲観主義者がポジティブ思考を強要されると、潜在能力を発揮できなくなる。ノレムによれば、アメリカ人の25〜30%が防衛的悲観主義に当たる。


 ポジティブ思考のもう1つの弊害は、現実から目をそらす「否認」だ。深刻な状況に陥っているのは明らかなのに、すべてうまくいくと信じて、問題の解決を図ろうとしない。


『ポジティブ病の国、アメリカ』(邦訳・河出書房新社)の著者バーバラ・エーレンライクは、08年の金融危機の責任の一端は人々が住宅ローンを払えなくなるといった悪いシナリオから目を背けたことにあると指摘する。


 結局、現代人が抱える複雑な問題を一気に解決して幸せをもたらすような魔法の心理療法はない。人生がうまくいかなくなったときに後ろ向きの感情を抱いてしまうのは、決して悪いことではない。


「いつも前向きでいる必要はないし、第一そんなことは不可能だ」と、ノレムは言う。「前向きでいられないのは心に問題があるせいではない。人間としていろんな感情を持つのは当然のことだ」



[2016.11. 8号掲載]


モーガン・ミッチェル


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