宮藤官九郎のオリンピック大河ドラマはナチスの「民族の祭典」になるのか、それとも五輪ナショナリズムを解体するのか

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2016年11月18日 11:40  リテラ

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リテラ

大人計画 公式サイトより

 2019 年のNHK大河ドラマの脚本を宮藤官九郎が担当することが発表された。しかも、テーマは「東京とオリンピックの物語」。日本選手がたった2人で初めて参加した1912年のストックホルム大会から、1964年の東京オリンピック開催まで、52年にわたってオリンピックに関わった日本人を描くのだという。



 大河が近現代を舞台にするのは33年ぶりらしいが、それよりもびっくりしたのは、なぜクドカンがこんなテーマのドラマをやる気になったのかということだ。クドカンというのは典型的な「小ネタ」の人で、「大きな物語」なんて興味がないと思っていた。それが、大きな物語の代表選手のような大河ドラマで、これまた、大きな物語でマッチョなオリンピックを描く。舞台もこれまでクドカンが好んで描いてきた木更津や三陸のような「周縁」ではなく、「中心」である東京だ。大丈夫なのか、クドカン。



 さらに気になるのは、安倍サマのNHKがこのところ、2020年東京五輪を「国家の一大イベント」と位置付けて、並々ならぬ意欲を見せていることだ。リオ五輪が閉幕した直後の9月21日、同局の『おはよう日本』で、五輪開催のメリットとして、いの一番に「国威発揚」をあげる時代錯誤丸出しの解説をしていたが、この空気はいま、NHK全体を覆っている。



 東京五輪の前年に放送されるクドカン大河も、このNHKのベタな「オリンピック=国威発揚」キャンペーンのひとつに組み込まれてしまうのではないか。そんな懸念がつい頭をもたげてしまうのだ。



 いや、下手をしたら、クドカン大河は、ナチスドイツでレニ・リーフェンシュタールが監督したベルリンオリンピックの記録映画『民族の祭典』のような役割まで演じてしまうかもしれない。



 というのも、1912年のストックホルム大会から1964年東京五輪までを描くということは、日本が帝国主義・侵略戦争に突入していった時代、そしてオリンピックが、国家主義的イベントへと変質していった時代を避けては通れないからだ。



 たとえば、1912年は明治最後の年であり、1925年には治安維持法が制定され、1931年には柳条湖事件、満州事変が起きた。1936年にはナチスドイツによるベルリンオリンピックが開催されている。そして1941年、太平洋戦争に突入していくのだが、その前年の1940年は、幻の東京五輪が開催される予定だった年だ。この1940年の東京五輪は、皇紀2600年を記念し、ベルリンオリンピックと同様、まさに国家主義イベントとして招致されたのだが、日本が日中戦争を引き起こしたことで世界中から非難を浴び、開催を返上している。



 こうした出来事の描き方によっては、オリンピックを前にそれこそ安倍首相が大喜びしそうなナショナリズムを鼓舞するドラマになりかねないだろう。



 しかし、一方では、クドカンなら絶対にそうはならない、という見方もある。宮藤官九郎は、オリンピックを描いたからといって、「国家の威信をかけてオリンピックに向き合った男たち」というような浅薄でわかりやすい物語をつくる脚本家ではないからだ。



 たとえば、あの『あまちゃん』だって、アイドルを描いていたけれど、いわゆるアイドルドラマでなかった。主人公・天野アキは、日本の芸能界の中心たる東京ではアイドルとして成功しない(=東京で全国区で売れるというかたちの成功とは別のものを選ぶ)で物語は終わる。むしろ、昨今のアイドルブームに対する批評であり、アイドルを解体・脱構築して、既存のアイドルを乗り越えたオルタナティブなあり方を示していた。



 そして、『あまちゃん』は東日本大震災についても、定番の「絆」のような物語とはまったく別の、新しい描き方で、視聴者に勇気を与えた。



 そんなクドカンがオリンピックを題材にするのだから、むしろ、「オリンピック=ナショナリズム」という構造を解体してくれるのではないか、という期待もある。



 実際、今回の制作発表でNHKは「オリンピックをめぐるスポーツマンや関係者の奮闘ぶりなどが、東京の歴史とあわせて描かれる予定」とドラマを紹介していたが、当のクドカンは「戦争と政治と景気に振り回された人々の群像劇」と語っていた。



 クドカンは明らかに、戦争の時代を描くということに意識的だ。しかも、クドカンは今年7月に発売されたみうらじゅんとの対談本『みうらじゅんと宮藤官九郎の世界全体会議』(集英社)のなかでも、戦争をどうやって伝えるべきかを考えていることを明かし、こう語っていた。



「憲法を変えるとか、戦争できる国になるとかならないとか、ちょっと勘弁してほしいなって思います」

「僕が"戦争"っていう言葉を聞いたときに一番最初に思い浮かべるのって、やっぱり子供のことなんですよね」

「それにもし万が一、戦争が将来起こったときに、僕たちはもう老人になってるから戦場に行くことはないと思いますけど、子供たちの世代が戦わなきゃいけなくなる可能性があるわけじゃないですか」

「いずれ学校の授業で、日本が昔、戦争で負けたっていうのを知ることになるわけじゃないですか。にもかかわらず、今になって再び戦争をやりかねない状況に持っていこうとしてる大人がいるっていうその現実を、戦争を体験した世代がどんどん減っていくなかで、子供たちにどう伝えたらいいんだろうなって」



 こうしたことを考え合わせると、クドカンはすでに、国威発揚と逆ベクトルのドラマを構想している可能性もある。1910年代は、一方で、大逆事件や大正デモクラシーなど、民衆の時代の幕開けでもあった。オリンピックにしても、ベルリン五輪に「日本代表」として出場した当時日本の植民地支配下にあった朝鮮の選手たちやオリンピック開催に反対していた人々など、大河的な英雄史観ではとらえきれないエピソードはいくつもある。



 クドカンはこうした史実を得意の小ネタとして散りばめ、いままでにないやり方で戦争の恐怖や国家の残酷さ、そして国家に忠誠を誓うことのバカバカしさを描こうとしているのかもしれない。



 ただ、安倍政権や極右勢力が、帝国主義時代・侵略戦争を正当化しようという歴史修正主義の動きを強めているいま、安倍さまのNHKで、「オリンピックのメリットは国威発揚」と言ってはばからないNHKで、どこまでそれができるのか、という問題はある。



 しかも、この時代を描くというのは、一歩間違えれば、右派勢力やネトウヨの炎上を招くことを意味する。



 それでも、クドカンにはチャレンジしてほしい。安倍やNHKにはそうとは気づかせないやり方で、左翼にはできないやり方で、戦争の恐怖を訴え、オリンピックナショナリズムを乗り越える方法を提示してほしい。そう願わずにはいられない。

(酒井まど)


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