「3.9+5.1=9.0」が、どうして減点になるのか? - 冷泉彰彦 プリンストン発 日本/アメリカ 新時代

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2016年12月01日 17:41  ニューズウィーク日本版

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ニューズウィーク日本版

<教育現場での一斉指導が困難となる一方で、悪しき「横並び主義」の束縛から逃れられない日本の教育は苦悩している>


 脳科学者の茂木健一郎氏が、日本の小学校における算数教育について問題提起をしています。氏のブログから該当する部分を引用してみましょう。


「昨日、小学校の算数のテストで、「3.9+5.1=9.0」と書いたら、減点されたというツイートが流れてきて、とてもびっくりした。これははっきり言って一種の子どもに対する「虐待」である。」


 更に茂木氏は「これ以外にも、小学校の算数には謎の奇習があると聞く。」として、次のような例を挙げています。


「かけ算の順序、足し算の順序、という「問題」があって、2×3=6は正解だが、3×2=6は不正解、同じように2+3=5は正解だが、3+2=5は不正解、という「世界」があるのだという。」


 まず、「3.9+5.1=9.0」ではダメという問題ですが、では正解は何かというと「9」でなくてはいけないのだそうです。実際の教育現場では、筆算をした結果の「9.0」において「0」にも、そして「小数点」にも斜線を引いて抹消しないといけない、その通りにしないと減点するという指導をしている学級もあるようです。


【参考記事】数学の「できない子」を強制的に生み出す日本の教育


 私は最初、ずいぶん難しいことを教えるようになったのだと驚きました。というのは、「9.0」と書くと、有効数字が2桁であり、小数第2位を四捨五入した「近似値」というニュアンスが出るので、それを否定しなくてはならない、つまり「ちょうど9」だという「真の値」を示すために「9」と書かせる、そう思ったからです。


 ところが、調べてみると理由は違うのです。そうではなくて、ゼロをそのままにしておくと「90」と間違える生徒がいるので、「0を消させる」必要があり、またゼロだけを消すと「9.」という小数点だけを残すという「ルール違反」になるので、念のために「小数点も消させる」というのが真相なのだそうです。


 つまり「3.9+5.1=」という筆算をやらせた結果「90」や「9.」と答えてしまう誤答が増えた結果として、これを防止しなくてはならない、そのような教育現場の切羽詰まった状況が背景にはあるようです。


 次に「2×3=6は正解だが、3×2=6は不正解、同じように2+3=5は正解だが、3+2=5は不正解」という話ですが、これも似たような理由です。まず、掛け算の場合は、「鉛筆を一人につき2本配りました」そして、その配った対象人数は「3人でした」という「生活実感」から「掛け算」という「新しい概念」を理解させる場合には、逆にすると混乱して「掛け算を理解できない」というケースが出るというのです。


 また「足し算」の場合も、「ある状態に何かを加える」という「増加」と、2つのものをまとめるという「合併」は「別の概念」として、生活実感から「足し算」を理解させるアプローチが徹底して取られるようになっています。その場合に「合併」なら順番を入れ替えてもいいのですが、「ビフォー」と「アフター」のある「増加」のストーリーの場合は、前後の入れ替えを認めると「生活実感からのストーリー性が破綻して足し算がわからなくなる」危険があるというわけです。


 では、多くの「親の世代」が子供だった時代にはなかった、このような「厳格性」が導入されているのは何故なのでしょうか? それは「日本文化独特の形式主義が暴走した」とか「管理教育が強化された」からではありません。


【参考記事】女性と若手が校長になれない、日本の学校の旧態依然


 そうではなくて、そのような「生活実感からのストーリー性」を丁寧に追わないと、小数とか、足し算、掛け算の導入で「つまずく」子供が増えているからです。また、従来は「落ちこぼれ」になっていたそのような生徒に対して、教育現場が何とかしようという努力を強めた結果でもあります。


 ということであれば、この措置は正しいのでしょうか?


 とんでもありません。まず低学年では「入れ替えは禁止」として、手のひらを返したように高学年では「許可」するという矛盾や二度手間、あるいは多くの現場で起きているだろう「本音としては合っているが、ルールなので一点減点」という説明は、そもそも算数や数学の持っている「究極の合理性」というカルチャーに反します。そんな中で、「小学生にプログラミング教育を」などというのは笑止千万でしょう。


 そして家庭における「憤慨する親の教育への不信感が子供のモチベーションを傷つける」という問題もあるでしょう。更には「塾ではいいが、学校ではダメ」といった「悪しき本音と建前の使い分け」を子供に強制することにもなります。


 更に心配なのは、「AL(アクティブ・ラーニング)」という掛け声の下に、低学年から「抽象概念の操作」というアプローチを強化する動きがあることです。もちろん、知識とスキルが出来上がってからの抽象概念操作は、これまでの日本の公教育に決定的に欠落していた部分であり、強化は当然必要です。


 ですが、AL的なアプローチがこうした「掛け算」や「足し算」、あるいは「小数」などの導入部分でやられては大変です。「生活実感から数式に至るストーリー」を更に冗長にやっていたら、公教育の生産性は更に低下してしまいます。


 対策は一つしかないと思います。それは、公教育に本格的な「習熟度別」を導入するということです。算数・数学が得意な子供の知的好奇心や潜在能力を発揮させるのはもちろんですが、算数・数学が不得手である生徒を救済するためにも、この「習熟度別」は待ったなしだと言えます。もちろん、教育現場では既に導入されていますが、学年のカリキュラムからの逸脱は「先へ」も「後ろへ」も許されないという「横並びの進度」では、効果は半減します。


【参考記事】理系人材が育たない日本の硬直した科学教育


 一つ気になるのは、どうして「習熟度別」に対しての「抵抗勢力」が存在するのかということです。その背景には、この社会は「何かにつけて人間に序列をつける社会」だという危機感があるのだと思います。良く言えばそうですが、要するに「この社会では人間は平等ではない」ということを、批判するにせよ受け入れるにせよ、それを前提に行動しているということがあるのだと思います。


 仮にそうだとして、本当に平等を達成するには「不得意な子には納得できる指導と、しっかりした訓練の機会を」与えることが必要なのです。そこに踏み込むことなく、とりあえず表面的な現象として「横並び」にしておくことは、平等の達成でも何でもなく、学力格差の拡大に対して全くの無策であるだけと言えるのではないでしょうか。


「9.0は減点」という問題の背景には、「指導の困難化」が進む中で「横並び主義」の束縛から逃れられないという、日本の教育現場の苦しさがあるのだと思います。



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