埼玉の小さな町にダライ・ラマがやってきた理由

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2016年12月28日 11:32  ニューズウィーク日本版

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ニューズウィーク日本版

<11月下旬、埼玉県毛呂山町の埼玉医科大学で講演を行ったダライ・ラマ14世。半世紀前にチベット難民を受け入れて以来、毛呂山町とチベットとの間には知られざる絆が結ばれていた> (写真:ダライ・ラマ法王14世を迎えるなかに在住チベット人たちの姿が)


 2016年11月26日、埼玉県毛呂山町にある埼玉医科大学のキャンパスは静かな興奮に包まれていた。東京から電車を乗り継いで約1時間半。埼玉県の小さな町にあるこの大学に、来日中のチベットの精神的指導者ダライ・ラマ法王14世がやってくるのだ。


 寒空の下、法王を待つ大学関係者と報道関係者の中に、一握りの民族衣装を着た人たちも混じっている。毛呂山町在住のチベット人コミュニティーの人々だ。実は毛呂山町は半世紀前にインドに亡命したチベット難民を受け入れており、それをきっかけにチベットとの交流が始まっていた。ダライ・ラマ法王が埼玉医科大学を訪れるのもこれで3回目だ。チベットとこの町の間には、知られざる絆があった。


激動のチベットから戦後日本への道のり


 中華人民共和国成立後の1951年、中国はチベットに侵攻し、実質的な支配下に収めた。これに反発して1959年、チベットの首都ラサで反中蜂起が発生する。蜂起を鎮圧した中国はチベット政府を解散させ、現在にいたるまで続く直接支配の体制を構築した。


 動乱で数多くのチベット人が命を落とす中、ダライ・ラマをはじめとする政府関係者やそれに従う人々がインドやネパールなどに流入。以来インド北部のダラムサラには、ダライ・ラマを頂く亡命政府が成立し、亡命チベット人たちは各地にできた難民キャンプなどを中心に生活するようになった。


 ヒマラヤでの動乱をよそに、当時の日本は高度成長を謳歌していた。そして1965年、埼玉県毛呂山町に5人のチベット人留学生がやってきた。彼らはインドのダージリンにある難民キャンプからやってきた少年たちだった。その1人が毛呂山町在住で来日当初12歳だった西蔵ツワンさん(64歳)だ。


 当時、世界各国でチベット難民受け入れの動きが広がっていたが、日本は国として受け入れることはなかった。しかし、戦中にチベットに潜行し諜報活動に従事した木村肥佐生氏が受け入れに奔走。最終的に埼玉県毛呂山町の毛呂病院院長、故・丸木清美博士が5人の少年たちの受け入れに名乗りをあげた。木村氏の知己でもあった丸木博士は、チベットのほかにも、韓国やフィリピン、バングラデシュなどアジア各地から様々な研修生を自分の病院に迎えていた。チベット人もその中に加えられたのだ。


10歳の時に徒歩でヒマラヤを越えて亡命した


 日本に来るまでの西蔵さんの少年時代は激動のチベット現代史そのものだ。西蔵さんの父はかつてチベット政府の商務省の高官だった。ヒマラヤを越えて岩塩を売る隊商を指揮していたが、1959年の蜂起当時インドにいた父親はいち早く亡命した。


【参考記事】Picture Power 抑圧と発展の20年、変わりゆくチベット


「これを境に人生が変わった」と西蔵さんは語る。家族は離ればなれになり、政府高官の息子だった西蔵さんは中国政府が作った小学校に入れられ、中国共産党の政治教育を徹底的に叩き込まれた。幼い子どもへの影響は大きく、真新しい人民服を着られることをうれしく思い、チベット人が尊敬するダライ・ラマ法王をも国家分裂主義者の悪い奴だと思うようになったという。


 1962年、インドからひそかにチベットに戻った父に連れられ、家族はチベットを脱出した。わずか10歳の西蔵さんも徒歩でのヒマラヤ越えという難行に挑んだ。中国軍の監視を逃れるため、昼間は洞窟で寝て、月明かりを頼りに夜間に移動する逃避行だった。どうにかインドにたどり着いた家族は西ベンガル州ダージリンのチベット難民センターでの暮らしを始めた。そしてその2年後、西蔵さんに日本行きの機会が訪れる。


 日本に行けば、難民とは違った道が開ける。そう考えた父親は西蔵さんに日本留学を強く勧めたという。しかし、ヒマラヤ山脈のふもとから、高度成長期の日本にやってきた西蔵さんにはカルチャーショックが大きかったという。


「来たのはいいが、見るもの聞くもの新しいものばかり。テレビや地下鉄など、インドにはないものばかりに圧倒されたし、食事もチベット人の口に合わず、私ら5人は、毎日ホームシックだった」


日本社会に溶け込めたのは教育のおかげ


 外国人が珍しかった時代、しかも大都市ではない毛呂山町ということを考えれば、現在の日本よりも相当に条件は厳しかったはずだ。どのようにして西蔵さんたちは日本社会に定着することができたのだろうか。


「丸木先生は本当に教育熱心な方でした。私たちが日本社会になじめるよう、学校の勉強についていけるよう、徹底的につきあってくれました。病院の若い職員がマンツーマンで家庭教師として親身になって教えてくれましたし、丸木先生からも徹底的に教育を受けたのです」と西蔵さんは振り返った。


 チベットから来た留学生たちは、当時の日本のマスコミに大々的に取り上げられ、小さな町の有名人にもなった。「近所の人にもとても良くしてもらった。外国人だからといって差別されたことはありませんね」と西蔵さんはいう。こうした環境でチベット人の子供たちは成長していったのだ。


 後に15人のチベット人少女たちも来日。総勢20人のチベット人少年少女が毛呂山町で勉学に励んだ。


 それから半世紀。丸木氏の運営する毛呂病院は1972年に埼玉医科大学の母体となり、丸木氏は1994年に永眠する。その遺産として、チベット難民の子供たちの多くは、成人後、埼玉県各地の病院で勤務するようになった。


 西蔵さんも、おなじく丸木氏のあっせんで来日したチベット人留学生の女性と結婚し、今は毛呂山町の隣にある日高市にある武蔵台病院の院長を務めている。「私がチベット人だというと、まったく気づきませんでしたと驚く患者さんまでいるほどですよ」と西蔵さんは笑った。


【参考記事】五体投地で行く2400キロ。変わらない巡礼の心、変わりゆくチベット


外国人労働者受け入れの成功例として知られていい


 2016年11月、国会で外国人技能実習制度適正化法と入管法改正法が成立した。今後は外国人技能実習生の受け入れ職種として介護分野が加わるほか、介護福祉士の国家資格を取得した外国人の在留資格が認められることとなった。労働人口が減少するなか、人手不足に苦しむ介護業界で外国人労働者の受け入れを進める狙いだ。


 しかし、これまでに医療現場で受け入れた外国人の定着率は高いとはいいがたい。言葉の壁や、日本社会になじめなかったりしたことが原因とされている。そうしたことを考えると、半世紀前に埼玉県の小さな町で起きたことは、もっと成功例として知られていいと感じる。


「すべては教育の力です」と西蔵さんは言う。「今の外国人医療者の招聘はケアが足りないのです。だから失敗するのです」


「2004年、私が保証人となってチベット人女性2人を日本留学に招きました。昔の私同様、彼女たちにも徹底的に勉強してもらいました。彼女たちは立派な看護師に育ちましたし、正しいやり方だったと思っています」


 教育こそが人間を変える。それが丸木氏から学んだ西蔵さんの信念だ。


【参考記事】ダライ・ラマ亡き後のチベットを待つ混乱


埼玉医科大学での講演の様子(撮影:筆者)


チベット人との絆が地域社会を豊かにした


 前述したように、埼玉医科大学でのダライ・ラマ法王の講演は今回で3度目だ。その背景には大学の創立者である丸木博士が西蔵さんらチベット人を暖かく迎え入れた来歴があるのはいうまでもない。講演は「医学の進歩と温かい心」をテーマに行われ、仏教の教えや科学者との対話などの豊富な知識と経験、さらにウィットに富んだジョークで会場をわかしていた。


 法王が聴衆に語り掛けたのは「腕がよくても優しさがなければ薬は効かない、腕がなくとも優しさがあれば薬は効く」――チベットに伝わる言葉だという。「医は仁術なり」というが、現代医療においても優しい心が必要だというのが法王のメッセージだ。会場の西蔵さんたちはじめ、毛呂山町在住のチベット人たちも感慨深げに法王の講演を聞いていた。


 西蔵さんたち毛呂山町のチベット人は、地域医療に貢献しているだけではなく、この地とチベット社会、ひいては世界とをつなぐ窓口としての役割を果たしている。日本社会に溶け込むだけではなく、異なる文化的背景を持つ人の存在が地域社会を豊かにしていると感じさせられた。


[筆者]


高口康太


ジャーナリスト、翻訳家。1976年生まれ。千葉大学人文社会科学研究科(博士課程)単位取得退学。独自の切り口から中国・新興国を論じるニュースサイト「KINBRICKS NOW」を運営。著書に『なぜ、習近平は激怒したのか――人気漫画家が亡命した理由』(祥伝社)。




高口康太(ジャーナリスト、翻訳家)


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