「学び方を学ぶ」という視点での習い事選び ――アクティブ・ラーニングの入口

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2017年02月02日 12:03  MAMApicks

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最近、筆者の3才になる娘は、昨年秋に近所にできたばかりのユニークな造形教室に通い始めた。それは、“芸術を通してアクティブ・ラーニングを学ぶ”というテーマで、現役の芸大生が教えてくれる教室なのだ。

Visions Palette
「アクティブラーニング」を、美術から。
https://www.visions-palette.com/
“現役の芸大生”という時点で、自分の周りにはいたことがない属性ゆえ大変興味深かったが、それよりも興味を持ったのはその教え方であった。

毎回、1時間の時間内で何かを制作するのだが、作るのは絵でも粘土でも木工細工のようなものでもなんでもOK。ただし、先生からは一切テーマは与えられない。子どもたちが自分でやりたいことを見つけて取り組ませ、その際に必要なサポートをする、という方式をとっている。

少し見学をさせてもらったときに、大変印象深い光景があった。
本棚の高い位置に分厚く巨大な美術書を戻そうとしている女の子がいて、どうやら重たくて持ち上がらないようで、先生に助けを求めた。

「先生、戻せない……。」

「あれ?それ、さっき自分で取れたよね? 自分でとれたんだから、きっと自分で戻せるよ。どうやってとったか思い出してごらん。」

その後、女の子は樽のようなものを運んできて、それを踏み台に使うことでうまく戻すことができていた。

ほほぅ、これがこの教室流のアクティブ・ラーニングか。と感じたエピソードである。


この教室で、先生は生徒に、「キレイなものを描こうと思わなくてもいいよ。どんなものをキレイと思うかは人によって違うし、正解はないんだ。君が描きたいもの、作ってみたいものをやってごらん。」というような声がけをされている。

正直、もし私が真っ白なキャンパスを渡されて、「なんでも好きなものを描いてみて」と言われたらとても困る。内から湧き出るようなものはまったくないし、何か描こうと考えを巡らせてみても、どこかで見た何かの絵が浮かんでは消え、浮かんでは消え……。テーマを与えてもらったら、何かしら描けるかもしれないが、完全に自由にやってよしと言われてもなかなかできるものではないなと感じる。

しかし、3才の娘は毎回、とても素晴らしいものを制作してくるのだ。作品のテーマを聞くと、「夕日に向かって走る新幹線」だとか、「きのこの運動会」だとか、なぜそんなことを発想したのか? 直接的に最近彼女の身に起こった身近な出来事ではなかったので、大変興味深かった。

≪アクティブ・ラーニング≫

最近ホットなキーワードである。

文科省によると、アクティブ・ラーニングとは、“課題の発見・解決に向けた主体的・協働的な学び”とのこと。

つまり、これまで日本の近代教育制度が確立して以来続けてきた、“先生による知識の一方的なインプット”ではなく、学ぶ側の方が主体的に学びたいことを見つけて学んでいく、というスタイルなのだろうと筆者は認識している。

ふと、こんなセリフを思い出した。

「なぜあなたは山に登るのか?」
「なぜなら、そこに山があるから。」

山に登るのは、「山という存在へのあこがれ」や「登りたい」という気持ちがあるからであって、「山に登ると健康になるから、課外授業として登山を取り入れています」であれば、主体的な登り方ではないよね、ということだ。

自分の学びを振り返ると、私は長年もしかしたら、「これを学ぶと、こんなことができる」という、言わば“効能”みたいな情報を元に、「じゃー学んでみよう」という取り組みしかしてこなかった。

もし先に「◯◯がしたい!」という気持ちがあって、そのための手段として何かを学んでいたら、現在の私のココロの中には常に「あれがしたい!」「これがしたい!」という思いで溢れて、真っ白なキャンパスを渡されても、何かしら描きたいものが内から溢れ出てきたのかもしれない。

「◯◯がしたい!」という思いの実現手段は無数に存在するので、いろんな方法を試してみたり学んでいく過程で、きっとまた別の興味・関心に出合うことも多くなるだろう。芋づる式に新たな興味・関心に出合ってさらに学ぶ、というのは、なんて素敵なサイクルなんだろうと思う。これは、効能目的で学んでいたら発生しにくいのではないか。


しかし、この「◯◯がしたい!」という思考を、意図的に作り出すのは、大人になってからは難しいのかもしれない。無趣味な人に、「なんか趣味持ったほうが人生楽しくなりますよ〜」と言っても、本人が「面白い!」と思って取り組むことがなかなかできないのもそのひとつ。「◯◯がしたい!」という思い、つまり物事に対する好奇心は、自分の意思ではどうにもコントロールできないのだ。

大人の脳は発達段階という視点で考えても衰退期であり、柔軟性に欠く。思考パターンが固定化してしまい、何かに少し興味をもっても、取り組む前にそれまでの人生の経験を元に「どうぜ△△だから……」と結論付けやすかったりする。

一方で、筆者の3才の娘は、まだまだすべてにおいて経験が少なく、思考パターンも柔軟であると思う。彼女のココロの中にある「◯◯がしたい!」という思いであふれ、それを実現する手段には制約もないのであろう。

「◯◯がしたい!」という思いから学びにつなげていく、そんな“幼児ならでは”のこの能力を、なんとか大人になっても残していってあげたいと考えたとき、学ぶ対象よりも、学び方自体を考えて習い事を選ぶということは、とても価値があることなのかもしれないと感じる。

今後日本は大規模な教育改革を迎えるが、その教育の下に育つ子どもが、いったいどうなっていくのかはまだ誰にも分からない。ただ、これからの子どもたちには、「100の問題が解ける」ことよりも、「100の◯◯がしたい!」という好奇心を持つことを目指してもらいたいな、なんて思った。

【参照】
新しい学習指導要領等が目指す姿|文部科学省
http://www.mext.go.jp/b_menu/shingi/chukyo/chukyo3/siryo/attach/1364316.htm

森田 亜矢子
コンサルティング会社、リクルートを経て、第一子出産を機にフリーランスに。現在は、Baby&Kids食育講師・マザーズコーチング講師・ライターとして活動中。3才長女と0歳長男の二児のママ。

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