人生を「勝ち負け」で語るほど、貧乏臭くエレガンスに欠ける行為はない

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2017年04月12日 01:00  citrus

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ネット上で、文春オンライン配信による『「勝ち組・負け組」と騒ぎ立てる人のイヤらしさ』というタイトルのコラムを見つけた。

著者は「楠木健」という人で、3ページにわたる(ネット記事だと「ページ」じゃなく「クリック」とでも呼んだほうがいいのか?)なかなかの長文だったりする。

最初の2ページは「勝ち負け」に対する自身の美学を延々書き連ねている風で(※冒頭に「あくまで個人的な好き嫌いの話として聞いていただきたい」との断り書きもある)、読んでいて気持ち間延びしてしちゃってる感は否めないが、最後の3ページめにはわりと同意できる部分があったので、とりあえずはそのあたりを抜粋してみよう。


現行の意味合いでの「勝ち組・負け組」、これほど下品な物言いもめったにないと思う。

「勝ち組・負け組」という言葉を見たり聞いたりするたびにたまらなくイヤーな気分に包まれる。その背後にある思考様式が大嫌いなのである。
勝負とか勝つとか負けるとかというのは基本的に自らの能動的な行為でありその結果である。にもかかわらず、話が集団への帰属にすり替わっている。自分はその「組」に入っているだけ。勝負が自分の意志による選択や行為ではなく、どこか受動的というか、他人事になっている。
(中略)「勝ち組・負け組」とか言っている連中に言いたい。
勝ち負けぐらいで「組」になるな。勝負は一人で勝手にやれ!


多少ニュアンスは異なるが、私も「勝ち組・負け組」なる言葉には"猛烈な品性の無さ"を感じているクチである。

なぜ、「組」で括って「勝ち」と「負け」の二元論で自分を、ひいては他人までをも強引にカテゴライズしようとする? 「強引に〜」ってところがまず下品。

「勝ち組・負け組」と同種の響きをただよわせる、あと一つ私の嫌いな言葉に「できる男」ってヤツがある。「できる男のファッション」「できる男のクルマ」「できる男の休日」「できる男は超小食」……どれもこれも下品極まりない。

そもそも、私のベクトルは“そこ”には向いていない。「人生」という捉えどころのない概念に勝ち負けを付けること自体ナンセンスだと思うし、ナンセンスゆえ勝つために「できる男」になる必要もない。

昨日、私は男子3人で中目黒の中華料理屋に行って、信じられないほどの量の炭水化物と紹興酒を摂取し(総額約2万5千円!)、「もうダメ…お腹パンパン」と満腹ボーイ(=超大食のできない男)3人で目黒川の夜桜を見物しながら、腹ごなしの散歩と洒落込んだのだが、それだけの暴飲暴食に堪えうるだけの「健康」と、約2万5千円を3で割れる程度の、あと願わくば旅行くらいにはたまに行ける程度の「経済力」があれば、もう充分ではないか。要はこのレベルの「健康」と「経済力」をキープしたまま、人生を逃げ切ることこそが重要なのだ。

すでに30年以上も前、美術学校『セツ・モードセミナー』の創始者である長沢節という人が、卒業する生徒を前に、こんな風な言葉を贈ったという。


「きみたちはこれから社会に出て、いかに楽をして人生を生き抜いていくかを真剣に考えなければならない」


そう。「勝ち(組)」にこだわったり「できる男」を目指して無駄な労苦を背負うことほど貧乏臭い、エレガンスに欠けた行為はないのである。

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