もし、職場や学校で“悪意に満ちた人”に出会ったらどうすればいい?

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2017年04月21日 11:00  citrus

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4月から環境が変わって、新しく色んな人と会う機会が増える方も多いと思いますが、面白い人や気になる人に出会う機会はありますか? 僕自身も4月から非常勤講師として新しい学校で新しい生徒たちに会って、「名探偵コナンって人気あるんだなあ」とか「まだ知らない戯曲をこれから読むってことは幸せだよなあ」とか思いながら、新鮮な気分で通学路の風景を眺めていたりします。

そんな時、なるべく「変な人」や「困った人」に会いたいなあと思います。これはもしかしたら劇作家的なものの見方かもしれませんが、常識から外れていたり、他人には理解しがたいような個人的なこだわりを頑固に持っている人に会いたいのです。そういう人は世の中を全然違った見方で見ていたり、人とは違った人生の面白がり方を知っていたりするからです。

とは言え、そこまで行かずに割と常識的な方でも、話を聞けば、使い捨てコンタクトレンズを捨てられずにずっと小瓶に入れて集めている人や、空を見て死んだ人の顔をそこに浮かべる人など、その人独特のものの見方や感じ方を持っている方がいます。

もし初っ端から「うわ、これは困った人だなあ」という人に出会ったら、それは劇作家の感覚としてはラッキーなわけです。いや、実際に付き合うとシャレにならないということはわかっているのですが。でも、実際そんなに非常識な方は小劇場の世界にもあまりいません。演劇は集団作業が基本なのでコミュニケーションが難しいと作品づくりができません。


■楳図かずおが描く悪意をもったオトナ

でも、フィクションの世界に目を向けると、そんな人はたくさんいます。僕が小学生の時からずっと「こんな大人になりたくない」「こんな人がいたら絶対イヤだ」と思っているのは、『漂流教室』というマンガの中の関谷という人物です。

『漂流教室』は楳図かずおの傑作長編です。ある日、小学校が大きな爆発とともに校舎、校庭、生徒、先生まとめて消えてしまい、未来の世界に飛ばされてしまいます。そこは見渡す限り、砂漠の世界で、彼らは時には殺し合いをしながら、サバイバルをしていくという話です。

環境、社会、政治、宗教、病、友情、暴力、SF、親子、勉強など、さまざまな切り口で語れる作品で、登場人物にしても、それぞれ個性的で語りだしたらきりがありません。主役の翔や咲っぺ、ライバルの大友くん、超能力を持った西さんだけでなく、怪物に片手をちぎられても再び立ち向かって殺される池垣くんなどは、登場シーンは少ないにもかかわらず、一人単独でフルタの食玩としてフィギュア化されているくらい、根強い人気があります。

しかし、僕にとってはなんと言っても、関谷という人物が忘れられません。たまたま給食屋として小学校に出入りしていた関谷はふだん、給食のおっさんと呼ばれ、先生にも生徒たちにもバカにされていたらしいのですが、非日常の未来においては、ここぞとばかり、恨みを晴らすかのように子供に暴力を振るいまくります。また、自分の食事中に歌を歌わせたり、時には、ユウちゃんという幼児(うっかり三輪車に乗ったまま小学校に紛れ込んでいた)を人質にとって小学生を脅し、言うことを聞かせようとします。

しかし、怪物に襲われた恐怖体験の後、いきなり自分が赤ん坊に退行するような事態がおとずれます。「ダアダア」とか「バブバブ」などと口にして、一転して生徒たちに服従するようになり、子供よりも幼児よりも弱者として扱われるのです。この逆転ぶりがとても面白い。情けないとも言えますが、環境にうまく適応しているようにも見えます。実際、関谷はある時点で正気に戻っていて、生き抜くために演技をしていることが判明します。そして、物語のラストまでしぶとく生き残っていきます。

クライマックスのシーンでも関谷は相変わらずです。生徒たちが幼児を一人だけ現代に戻そうと画策している時にも、関谷は「おまえらに帰る、元の世界などあるもんか!バカめが!!」と自分が割り込もうという気マンマンなのです。結局、あっさりと失敗するのですが。


■善悪の区別なく“本能”で悪のふるまいをする人がいる

さて、楳図かずおはなぜこのような人物を最後まで登場させ続けたのでしょうか? 子供だけの世界に大人がいるほうが面白いからということもあるでしょうが、僕はやはり関谷という人物の抗いがたい魅力というものがあるのだと思います。読者に「内なる関谷」なるものを呼び起こさせたかったのではないかと。

自分のことをバカにしていた者の前で、思いっきりふんぞり返ってみたり、あるいは逆に、状況が不利になったと見るや、とことんまで卑屈に、下手に出るというような処世術を用い、さらにまた、どこかにスキができたら、いつでも手のひらを返してやろうと考えている人物。ぞんざいにも卑屈にも、その両極端の方向に瞬時に針が振り切れるような人物。

最近、関谷のように悪が結晶化している人物を描くのがなかなか難しいと常々感じます。僕自身、どうしても「悪」には「悪」になっただけの理由を説明して、善が悪に変化したかのような人物にしようとしてしまう。けれど、悪が結晶化している人物は、本人自身は特に悪いと思ってなかったりします。つまり、善悪の区別がなく、ただ本能で悪のふるまいをするというか。現代の、特に日本でのコミュニケーションは広く浅くなので、もし存在したとしても、その人物の深い部分まで知ることなく、過ごせてしまいます。だから、出会うとしたら事後、つまり、事件の後にしか出会えないかもしれません。それは恐ろしいことなのですが。

そして、そんな人物とどう関わっていくのか。ここで他の登場人物の力量が問われてしまいます。そんな人物を許容できるのか? こちらが大目に見たら、図に乗るし、厳しく出ると、影で悪さをするような人物に寛容になれるのだろうか?と。


■“悪の結晶のような人”と出会って見えてくること

この関谷のような人物が周りにいたら、本当に疲れることでしょう。いや、本当にテロリストか独裁者のような存在ですから。頭の中が彼のことでいっぱいになり、会いたくなくなるし、考えただけでストレスです。きっと、多くの人から煙たがられているに違いないです。でもこころのどこかで、むくむくと、その純粋な「悪」に惹きつけられる自分に戸惑うことがないとは限りません。つまり、関谷的な人物は犯罪者にもカリスマにも英雄にもなれるような者です。そんな人物と何を共有し、何を諦め、何を主張するか。

そう考えると、関谷と面と向かって対峙したときにはじめてくっきりと問題が提示されるということもあるのではないでしょうか。普段なあなあで済ましていることが、はっきりと壁になって見えてくる。「善悪」はもちろんのこと、「仲間」とか「暴力」について、ここからここまではアリでここからはナシなどの線を引かなくてはならなくなります。それはハードな選択ですが、決断を迫られるわけです。つまり、「自分」が見えてくるし、試されるわけです。

だから、こうはなりたくないなーと思いつつも、自分が持っているネガティブな部分を認めるためにも、あるいは逆にそれに抗うポジティブな部分を探し出すためにも、関谷という人物は欠かせません。言いかえれば、関谷的な「影」の部分の人物こそを「他者」として設定しない限り、なかなか主役の人物たちの「光」は見えてこないでしょう。だとすれば、関谷という人物こそ、私たちの人生にとっても必要不可欠なキャラクターなのではないでしょうか?

もし、職場や学校で関谷的な人物に出会ってしまったら? ふてぶてしく狡猾で危険極まりない人物。まあ、『漂流教室』にならうなら、チームを組んで対処するしかないですよね。そこで初めて連帯や絆という意味を知ることになるかもしれないし、もし関谷的な人物に取り込まれそうになった時にも、その集団の未来がはたして魅力的なのかを考える必要が生じます。

あれ?「変な人」に会ったらラッキーだという話だったはずなんですが、危険人物への対処法みたいな方向に進んでしまいました。いや、「自分」にとって「他者」って誰だ?っていう話です。関谷に限らず「他者」と出会わないと、「自分」がわからないということはあると思うのです。
 

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  • 怪物と戦う者は、その過程で自分自身も怪物になることのないように気をつけなくてはならない。深淵をのぞく時、深淵もまたこちらをのぞいているのだ。フリードリヒ・ニーチェ
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