ライフスタイルに知的な刺激を提供することを旨とする情報サイト『NIKKEI STYLE』内にある、キャリアアップしたい人たちの学びのチャンネル『出世ナビ』に、『倫理の死角』(マックス・ベイザーマンら著)という経営書について論じている記事があった。
記事タイトルは「気付いたら不適切行為 悪意ない人に性善説は通じない」で、NIKKEIだけに、私にはあまり縁がない小難しいビジネス用語が満載の、おカタい文章がわりと長めに熟々と続くのだが、そのなかに比較的身近で、ちょっと面白い事例がピックアップされていたので、今日はそれについて考えてみたい。
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人間はもともと善人にできているのだから、何が正しいのかを教育すれば間違ったことはしないというのが性善説です。ところが、本書の中にはその前提が通用しない事例が数多く出てきます。
一例として、子供のお迎え時間に遅れる母親がいることに悩まされる保育園の話が出てきます。この保育園は、遅れることが悪いことだと思っていない母親がいると考え、遅れた場合には罰金を徴収することにしました。ところが、それによって逆にお迎えに遅れる母親が増えてしまったといいます。遅れることが悪いことだと理解すれば、遅刻が減るだろうという考えは、事実によって否定されてしまったのです。いったい何が起こったのでしょうか。
要するに、この保育園は“罰金”を導入したことによって、「遅刻をお金で解決できる」という認識を母親側に植えつけてしまった、言い換えると「遅刻が延長サービスへとすり替わってしまった」わけで、
このように、倫理に反する問題を金銭による取引にすり替えてしまうのが人間で、こうしたすり替えが行われると、倫理教育は効果を失ってしまいます。
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と分析している。性善説や性悪説は、人間の「主観」を「客体」として扱おうとするところにそもそもの限界がある、という理屈である。
たしかに母親側からすれば「私たちだって遊びじゃなく、いろいろ深刻な事情があって、やむを得ず遅刻しちゃっているんだから、それくらいはブツブツ言わず大目に見てよ」といった、保育園側に望む“性善説”があり、そのおたがいの、本来なら平行線でしかない二つの“性善説”に「罰金」が皮肉にも妥協点を見いだしてしまったかたちとなり、これまで保育園側の“好意”に甘えていたという、母親側が潜在的に抱く“後ろめたさ”が“お金を払うこと”によって一気に吹き飛んでしまったのだ。
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上記のような「倫理に反する問題を金銭による取引にすり替えてしまう」ケースが、すでに“システム”として、もっとも成熟している一つが「風俗」だろう。
「好きな人以外とセックスするのはいけないことです」という“性善説”が、お金を介在させることによって、女性側からすれば「生きていくための術」、男性側からすれば「合理合法的な性欲発散による浮気・不倫・強姦防止」といった大義名分を生み、ひいてはそれが“開き直り”へとつながっていく流れである。
そう考えれば、「性善説と性悪説」のあいだで折り合いをつける「必要悪」に頼る比率は、我々が暮らすこの社会においても、存外に大きいのかもしれない。それが悪いことなのか、良いことなのかはよくわからないが……?