ミッションを遂行する者たち──マニラの「国境なき医師団」

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2017年05月29日 18:53  ニューズウィーク日本版

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ニューズウィーク日本版

<「国境なき医師団」(MSF)を取材する いとうせいこうさんは、ハイチ、ギリシャで現場の声を聞き、今度はマニラを訪れた>


これまでの記事:「いとうせいこう、『国境なき医師団』を見に行く 」


まず、ここで「スラム全景を空撮した映像と雨の日のスラム地区の様子を短くまとめた」映像をMSFに作っていただいたので見てみて欲しい。最後にトラメガでメッセージしているのはジュニーだ。


トンド地区の厳しい状況がよくわかる。


その上で、この地で粘り強く活動する人の話を読んでいただければ、と思う。


マニラ:スラム全景と雨天の活動(2017年3月)【国境なき医師団】


その人ジョーダン・ワイリー


さて、ではこの活動を取り仕切っている国境なき医師団(MSF)側のトップ、ジョーダン・ワイリーはどんな人物か。彼がナイスガイでまるで映画の中の人々のようなオーラを持っていることは、マニラ編の冒頭に書いた。


【参考記事】あまりに知らないスラムのこと


しかし経歴はまだ報告していない。私は鍋をかぶったデモ隊の運動をバランガイの中で見た日の午後、ジョーダンに時間をとってもらってくわしく話を聞いたのである。


【参考記事】鍋をかぶった小さなデモ隊──マニラのスラムにて


MSFマニラ本部、海沿いの建物の上にある広めの3LDKの奥が彼のオフィス。いつものことだが机と椅子以外、目立った荷物はなかった。机にはノートブックパソコンと数冊のノートがあるばかり。数年単位のミッションであっても、おそらくジョーダンからはいつものMSFのスタイルが抜けておらず、いつ活動の形が変わってもいいような仕事ぶりなのだ。


その机をはさんで俺と広報の谷口さんはジョーダンにあれやこれやと質問した。三十七歳のジョーダンは真摯にそれに答える。


米国ポートランド出身。もともとは一般病院でスタッフ・トレーニングや災害救急マネジメントなどの仕事についていたという。地震、テロ攻撃など多数の被害者が出るような事態で、病院はどのような対処をすべきかの計画立案や訓練をしていたのだ。


さらに遡れば、彼はシングルマザーだった母親のもとで育ち、六人の弟と一人の妹を持つ身として家計をどう助けるかを考えながら、警察官に憧れていたジョーダンは十歳の頃にはすでに人助けがしたいと思うようになっていた。


はっきりと道が決まったのはなんと十一歳の時。テレビでアフリカの人道危機を知り、自分が役に立てればと思う。そのあと何年もしてから友達がMSFに参加してアフリカに行き、ジョーダンを誘った。すでに病院の仕事をしていた彼は、一も二もなくという感じなのだろう、二〇〇七年にはMSFに登録。


翌年にはナイジェリアに飛んでいた。


「このマニラで13ミッション目だね」


にっこり笑ってそう言うジョーダンは、几帳面な性格ゆえか、小さなメモ帳に小さな文字で全ミッションを書き出し、ボールペンの先でそれを数えた。


「うん、やっぱり13」


一番短いもので2か月、ナイジェリアでの緊急援助で500万の子供たちに髄膜炎のワクチンを打つという予防接種のロジスティック(運送や管理担当)をつとめ、一番長いのはもちろんここマニラでの2年だという。


さらに2010年には俺も訪ねたハイチに偶然ミッションで入っており、つまり大地震を体験してしまったのだそうだ。それは小さなアルマゲドンだった、とジョーダンは言う。


「周囲のビルもMSFの病院も崩れ落ちた。人材も医療品もMSFとして確保されているのに、残念ながら病院がないんだ。それでロジスティシャンとして場所を緊急に設計して、木の板でベッドを作ったし、シーツで天井を作った。ない物はがれきの中から拾ったよ。コンテナの中で手術もしてもらった」


そこまで言ってジョーダンはふうと息を吐き、俺を見た。


「7人のスタッフを亡くした。たくさんの患者を亡くした」


とジョーダンは表情を変えずに言った。


災害などの緊急援助にあたったスタッフは必ず休ませる、とは菊地寿加さんにも聞いた通りだ。地震後10日間働きづめに働いたジョーダンを、MSF活動責任者は母国に戻した。彼本人はまだまだやることがあると反発したが、


「今思えば正しい判断だったよ」


とジョーダンは俺たちにはっきり言った。なぜかを話さない彼だったが、その後もPTSDがあったに違いない。そのままミッションを続けていれば、彼は壊れかねなかったということだ。


それでも2年後、ジョーダン・ワイリーはハイチのミッションに戻る。彼の責任感はやり残したことをそのままにしておけなかった。そこに戻る仲間もいた。


シリアにも何度か入った。2013年には銃を持った者が病院内に侵入し、自分ともう一人のスタッフがスパイと間違われて殺されるか誘拐かどちらかだと感じる状況に陥ったこともあった。この時はまわりの村の人たちが救いに来て「この人は私たちに医療を提供してくれているのだ」と説得してくれたそう。その時、人道援助の空間が守られないという事態に直面してそれまでの活動では経験したことのない無力さを痛感したという。


マニラのひとつ前にはチャドにいた。奥さんのエリンも同行して共にチャドにいたそうだが、ボコハラムが跋扈する土地で終日MSFの敷地内にこもる毎日では、彼女の安全もストレスも心配きわまりなかった。だから今マニラにいるのは安心だ、とジョーダンは言った。


「僕自身は今回の活動を去年の10月から始めて、歩みはひどく遅いながらもあきらめずに計画を前に進めている。MSFとしてもこれはチャレンジなんだ、セイコー。今までのように"絆創膏を貼る(事態の根本的な解決はその国にまかせ、緊急援助のみに集中する)"だけでなく、問題の内部に自ら入ること。しかも」


とジョーダンは姿勢の癖でかがめている身をさらに小さくして俺たちに近づいた。


「フィリピンは女性政治家も多いし、女性の力が強い。アメリカも日本も見習うべきだ。ただしリプロダクティブ・ヘルスが弱い。そこをどう援助していくか」


つまり彼はもちろんフィリピンの問題にどう関わるかを配慮しながら、同時にその国のよさを世界にどう輸出するかも考えているわけだった。世界の女性の権利を健康から考える。ジョーダンはその一助となりたいのだ。


そうした目標の中でこそリカーンは自国の女性問題に長く力を尽くしてきた団体として、MSFの導きの糸になる。


さらにジョーダンはこう言った。


「他にも援助団体はあるし、リカーンは決して有名ではない。そのへんの道で聞いても知らない人はたくさんいるだろう」


熱き男ジョーダンはそれ以上ないほど身を乗り出す。


「だけど、スラムで彼らを知らない者はいない。ここが重要なんだ。困窮した人々に絶対的な信頼がある」


彼の視点は明確で、事の奥まで見ていた。


「我々は彼らと共に進むんだよ」


さて、インタビューの最後に、谷口さんがこう聞いた。


「ジョーダンはどうしてMSFを選んだの?」


するとジョーダン・ワイリーは答えた。


「自分が何をしたいのか、ここにいるとそれがわかる」


抽象的に見えるが、人生にとってそれほど具体的に満足いくことがあろうか。事実、ジョーダンからは常にみなぎる何かが感じられる。


その人ジェームス・ムタリア


一方、かつてのジョーダン少年が人道援助に向かいたかったアフリカから、巨体ジェームス・ムタリアは来ているのだった。俺たちはいったん廊下へ出て、同じ階にある彼の部屋に行った。


インタビューを始めようとすると、ジェームスは恥ずかしそうに短髪の頭をなでる。しかし質問をすると落ち着いた小さな声で的確に話すのもジェームスの特徴だ。


彼はもともとケニアで国際企業にいたが、2005年MSFの国内医療スタッフになった。医師と看護師の中間で、日本にはない準医師という職種だそうだった。


なにしろ恥ずかしがり屋なので自分からはあまりつまびらかにしないが、彼は医療援助に強い興味を持ったのだろうと思う。頭脳明晰な彼ならば企業の中にいても成功したはずなのだ。実際、MSFから始まってUNHCR(国連難民高等弁務官事務所)、他のNGOのマネージャーを務め、2010年にMSFに戻っている。


スーダンは北ダルフールで9か月プロジェクト・コーディネーターをし、翌年からジンバブエでHIV/エイズ結核プロジェクトに参加、2013年にはインドでやはり同様のミッションを行いながらC型肝炎や性暴力被害から人々を救う活動を行い、おそらくその経歴から2015年パキスタンでのリプロダクティブ・ヘルス、子供の栄養失調に関する活動に転ずる。


一貫して、ジェームスは弱い立場の人々に関わっているのだった。それはMSFだから当然ではあるものの、自国を出たジェームスはほとんどミッションに人生を捧げ続けている。


実は三人の子供の父親で、一番上は20歳。その下も学校は卒業し、一番下の子もじきそうなるのだという。どんな子供たちなのか、俺は猛烈に興味がある。ユーモアがあって優秀で冷静で、しかも実は内面にたぎる何かを持っている子供。俺はジェームスの生き写しみたいな若者を想像する以外ない。


マニラでのリカーンとの活動について聞いて見ると、ジェームスはやっぱり小さな声でこう答えた。


「パートナーシップを組んで長期プロジェクトを行うというのは、ひとつのパッケージとして他でも今後試せる形なんですよ。それを僕たちはゼロから始めてる」


これだけで十分に彼のIQの高さがわかると思う。やっていること全体を確実に把握し、すでに次のことも視野に入れているのだ。


「性暴力やリプロダクティブ・ヘルスは時間がかかるんです。こちらが何をしたいかを伝えて、人々が自国のありように疑問を持って、施設が出来て、信頼を勝ち得て、偏見を減らしながら政府とも連携して......ね?」


ジェームスはくりくりの黒目を俺たちに向け、にこっとする。不機嫌かと思っているとそういう表情をするので、いわばツンデレのようなものだ。


「来年からは性暴力被害者への活動も始めます。つまりファミリープランニング、妊産婦ケア、性感染症対策、子宮頸癌の治療と予防、性暴力被害者支援という柱でやっていくことになる。ともかく必要な医療が受けられる状態にしなければいけません。そしてたくさんの人が来てくれることが重要です。信頼されるということですから」


そう具体例を挙げた上で、さらにジェームスは興味深いことを言った。


「それだけじゃありません。来年は人類学者も心理学者も、回診車も来ます。フィリピンの文化がどう作用しているか、我々は知るべきです。そして同時に外に出ていって診療の機会を出来るだけ増やすんです」


手の打ち方に抜かりはなかった。"時間がかかる"問題に、ジェームスたちは確実な処方せんを出していた。


「マニラのミッションで一番大変なことは何でしょうね、ジェームス?」


やはり最後に広報の谷口さんが聞いた。


するとジェームスはジェームスらしく短く答えた。


「誰かのアポをとること」


そして自ら吹き出した。


そしてデモ隊


外では反マルコスのデモが始まっていた。


かつて1980年代に民衆が革命で追い落としたマルコス政権だったが、現在のドゥテルテ大統領が彼マルコスの冷凍された遺体を国家の英雄墓地に埋葬したことを受け、反対運動が盛り上がっていたのだ。


デモ隊が近くの広場に集合する予定だったので、俺もそこへ行ってみることにし、実際にフィリピン国民がどう政治参加しているのかを知ることになるが、それは次回の冒頭にでも触れたい。


ともかく非常に感銘を受けた、とだけ早めに書いておこう。


<続く>


いとうせいこう(作家・クリエーター)


1961年、東京都生まれ。編集者を経て、作家、クリエーターとして、活字・映像・音楽・舞台など、多方面で活躍。著書に『ノーライフキング』『見仏記』(みうらじゅんと共著)『ボタニカル・ライフ』(第15回講談社エッセイ賞受賞)など。『想像ラジオ』『鼻に挟み撃ち』で芥川賞候補に(前者は第35回野間文芸新人賞受賞)。最新刊に長編『我々の恋愛』。テレビでは「ビットワールド」(Eテレ)「オトナの!」(TBS)などにレギュラー出演中。「したまちコメディ映画祭in台東」では総合プロデューサーを務め、浅草、上野を拠点に今年で9回目を迎える。オフィシャル・サイト「55NOTE」


※当記事はYahoo!ニュース 個人からの転載です。




いとうせいこう


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