世田谷一家殺人事件、被害者遺族の今──「助けが必要な人」から「助ける人」へ

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2017年12月31日 10:00  週刊女性PRIME

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入江杏さん(「ミシュカの森」主宰/上智大学非常勤講師)

 2000年12月31日、20世紀最後の日に日本中を震撼させた「世田谷一家殺人事件」。いまだに解決をみないこの凶悪事件の被害者遺族、入江杏さん(60)。最愛の妹家族を奪われ、暗闇のように絶望的な日々を乗り越え、今、「ミシュカの森」主宰、そして上智大学非常勤講師として人々の悲しみに寄り添う活動を行っている──。

  ◇   ◇   ◇  

 11月15日、明治大学のホールで、講演が始まろうとしていた。

「学部はどこ?」「今日は、どんな話が聞きたい?」

 講師の入江杏さんが、着席している学生に、気さくに声をかける。

 講演のテーマは『犯罪被害者支援のつどい』──。

 冒頭、スクリーンに映像が流れ始めると、学生たちの表情が引き締まる。

 2000年、12月31日に発覚した『世田谷一家殺人事件』の報道番組を、10数分に編集したものだ。

 当時、世田谷区上祖師谷に暮らしていた、宮澤みきおさん(44)、妻・泰子さん(41)、長女・にいなちゃん(8)、長男・礼くん(6)〈年齢は当時〉の一家4人が殺害された事件は、17年たった現在も犯人逮捕に至らず、未解決事件となっている。

「みなさんは、この事件を知っていますか?」

 VTRが終わると、入江さんが静かに語りかける。

 若い学生のほとんどは知らなかったが、中高年の参加者は大きくうなずく。

「あの日、事件をニュースで見たとき、自分が何をしていたかまで覚えている方も多いんです。大みそか、という特別な日でしたからね」

 確かにそうだ。自らを振り返っても、大掃除を終え、のんびりテレビを見ていたとき、不意に飛び込んできたニュースに凍りついたことを、今も鮮明に記憶している。

 かわいい子どもたちの命まで奪った残虐な事件は、日本中を震撼させ、20世紀最後の凶悪犯罪と呼ばれた。

 だが、ほとんどの人は知らなかったのではないか。

 殺害された宮澤さん一家のすぐ隣に姉一家が暮らしていたことを。事件を機に、姉一家も大きな渦に巻き込まれていったことを──。

 その姉が、入江さんである。

「“世田谷事件の遺族です”、そう人前で話せるまでに、6年かかりました。そして、今、17年たった私の姿です」

 穏やかな表情は、犯罪被害者遺族という言葉が不釣り合いなほど。ざっくばらんな話し方も、実に親しみが持てる。

 講演の中では、事件を語る一方、被害者遺族と周囲が、どう向き合えばいいか、という話にも多くの時間を割いた。

 終盤では、次々と質問する学生に、「いい質問ですね」と、時に笑顔を見せながら、自分の考えを伝えていた。

 その姿が物語っていた。

 17年を経て、入江さんが、「助けが必要な人」から、「助ける人」へと立場を変えていることを。

 事件があった『あの日』から、どう生き直してきたのか。

 壮絶な日々を振り返ってもらった。

  ◇   ◇   ◇  

「両親の話もするんですか?ちょっと待っててください」

 東京・港区の自宅リビング。

 入江さんはそう言い置くと、別の部屋から風のように2つの写真立てを持ってきた。

「こちらが父。豪放磊落(らいらく)で、ちょっと遊び人、なんて言ったら怒られちゃうかな(笑)。母は、見てのとおり、まじめな人でした」

 1957年、東京・品川区旗の台で生まれた。不動産業を営む父親は、仕事柄、浮き沈みが激しく、しっかり者の母親が、家庭を守っていたという。

 2つ違いの妹・泰子さんとは、2人きりの姉妹で幼いころから、それは仲がよかった。

「子ども時代は、路地裏で遊んだり、年ごろになってからは、恋の話も打ち明け合ったり。やっちゃん(泰子さん)は私にとって、誰よりも心を許せる存在でした」

 小学校から高校まで、入江さんは私立の一貫校に通い、泰子さんは地元の公立学校に通った。

 姉妹で進路が違ったのは、「父の羽振りのいい時期が、たまたま私の学校の節目に重なっただけ」と笑う。

「だから、妹が高校受験のときは、勉強を見てあげたりと、できる限り応援しました。父の仕事がうまくいかず、家が大変だった時期も、やっちゃんがいれば心細くなかったし、たぶん、妹も同じだったと思います」

 絆の深さは、唯一無二。

 名門、国際基督教大学を卒業して間もなく結婚したのも、「やっちゃんの言葉が決め手でした」と言うほどだ。

「夫を自宅に初めて招いたとき、妹が“お姉ちゃま、わかってる? あの人、とってもいい人よ。あの人を逃したら、一生後悔するよ!”って、すごい勢いで。当時、末期がんを患う父を安心させたい気持ちと、仕事で自活したい気持ちがせめぎ合っていましたが、妹の言葉で迷いが吹っ切れました」

 こうして、24歳のときに、大手自動車会社にエンジニアとして勤務する、8つ年上の夫・博行さんと結婚。

 父親にも、晴れ姿を見せることができた。

 結婚から6年後には、待望の長男が誕生。同じころ、泰子さんも、会社員のみきおさんと結婚し、家族ぐるみの付き合いが始まった。

 そんな両家が、寄り添うように建つ二世帯住宅に引っ越したのは、1991年のことだ。

「妹と相談して、決めたんです。2つの家族が“支え合う仕組み”を作ろうって」

 当時、夫の独立・起業にともない、入江さん一家はイギリスに生活の拠点を移すことになっていた。

「父に先立たれた母をひとり残すのが心配でしたが、母が私たちの家に暮らし、隣に妹夫婦が住んでくれたら安心だと。私たちも、日本と行き来するつもりだったので、妹たちと暮らせることを、楽しみにしていました」

 宮澤家に、にいなちゃん、礼くんが生まれてからは、帰国のたび、両家8人の大家族が、にぎやかに食卓を囲んだ。

 泰子さんが学習塾を開く際は、入江さん一家のリビングを教室として提供。二世帯住宅は、当初の予定どおり、2つの家族が『支え合う』舞台となっていた。

 あの事件に巻き込まれるまでは──。

20世紀最後の日。悪夢の始まり

 2000年、12月31日。

 事件発覚の日、入江さん一家と母親は、いつもと変わらぬ朝を迎えていた。

「帰国したばかりの夫が、和食が食べたいと言うので、鮭を焼いたのを覚えています」

 この年の春、息子が私立中学に入学したため、8年間のイギリス生活をいったん終え、入江さんは息子と帰国していた。年末を迎え、単身赴任中の夫も帰国し、昨夜は2家族で夕食のテーブルを囲んだばかりだった。

「いつもと違ったのは、早起きの、にいなちゃんと礼くんが、なかなか起きてこなかったことです。大みそかで朝寝坊かな、と気にもとめませんでしたが」

 時刻は10時を回っていた。

 待ちきれないように腰を上げたのは、母親だった。泰子さんとおせち料理を作ることになっていたため、「起こしてくる」と隣家に向かった。両家は、二世帯住宅といっても、玄関が別々だった。

「だから、母が第一発見者になってしまったんです

 10分もしないうちに、血相を変えて戻ってきた母親は、震える声で叫んだ。

「隣が、泰子たちが、殺されちゃってるみたい──」

 ただならぬ様子に、入江さん一家は、隣家に急いだ。

「殺されたって、まさか──」

 半信半疑で玄関に入った瞬間、全身が凍りついた。

 目に飛び込んできたのは、異様な光景だった。

「衣類や書類が散乱し、家じゅうが荒らされていました」

 山積みの衣類の下から、みきおさんのものと思える白い足が見えた。

 弾かれたように中に入ろうとする入江さんを、夫が鋭い声で止めた。

「見るな! 触るな! 戻るんだ!」

 悪夢の始まりだった。

「妹一家が殺されたと知ったのは、警察の事情聴取を受けているときでした。このとき、母の頬に血がついていることに気づいて。第一発見者の母は、たったひとりで家中を回り、4人の亡骸を抱きあげていたんだと胸が詰まりました」

 犯行時間は30日午後11時から翌日の未明にかけて。

 犯人は宮澤さん一家を殺害後、現場に長時間とどまり、現金を強奪して逃亡した。

 現場には、犯人の指紋、衣類、血液など、多数の証拠が残され、逮捕は時間の問題だと思われた。

 だが、予想に反して、捜査は難航した。

「どんな小さな情報でも、思い出してください」

 警察は殺気立ち、入江さん一家は、朝から晩まで、人を疑う作業を続けた。

「それこそ、寝食を忘れて、捜査に協力しました。絶対に、犯人を逮捕する。怒りに突き動かされるように」

 葬儀の席では、同情の声が上がる一方、「家の前を通るのも恐ろしい」「犯人と違う血液型でよかったわね」だのと、心ない言葉を浴びた。

 過熱したマスコミの、根も葉もない報道にも愕然とした。

「身も心も限界でした」

 入江さん一家と母親が、逃げるように世田谷の地を離れたのは、事件から1か月後のことだ。

引きこもる母。自分を責め続ける日々

 仮住まいのアパートに移ってからは、息をひそめるように暮らした。

「母は、あんな事件に巻き込まれて恥ずかしい。世間に顔向けができないと、引きこもってしまいました。私も、どん底でした」

 夫は半年間、忙しい仕事を休み、家族を支えた。

 息子も、先生と相談し、事件の遺族であることを公表しないまま、学校に通い続けた。

「夫のやさしさや、息子の健気さが、ありがたかった。でも当時の私は、その思いに応えるどころか、死ぬことすら考えていたほどです

 なぜ、「一緒に暮らそう」と、妹一家を誘ってしまったのか。

 なぜ、みきおさんが「両家が仲よく暮らすために、防音設備にしよう」と提案したとき、「そんなの水くさいよ」と断らなかったのか。防音でなければ、犯人の気配に気づき、助けられたかもしれないのに──。

 自分を責め続けた。

「何より、悔いたのは、なぜ、もっと早く、引っ越さなかったのか、ということです」

 事件現場の周囲が閑散としていたのは、公園用地のため、近隣の家がほとんど立ち退きをすませていたからだ。

 姉妹一家も、東京都に土地を売却し、入江さんにいたっては、新しい土地を購入していた。早い段階から、「一緒に引っ越そう」と、泰子さんに提案もしていた。

 しかし、泰子さんは引っ越しを躊躇した。

「立ち退きの猶予期間が3年あるので、しばらく、このまま生活したい」

 と。

 それは、母親として、子どもを思ってのことだった。

「礼くんには発達障害がありました。妹は、翌年の春、1年生になる礼くんを、にいなちゃんと同じ、地域の小学校に入学させたかったんです」

 礼くんの障害と向き合い、懸命に子育てする泰子さんを、間近で見てきた入江さんは、反対などできなかった。

 暗闇の中で、もがくような日々が続いた。一筋の光が見えたのは、1枚の絵と再会したことに始まる。

妹一家の幸せな姿を残しておきたい

「絵の中の女の子に気づいたとき、“あ! にいなちゃんがいる”と叫んでいました」

 小学校の先生から、遺品として受け取った、にいなちゃんの絵は、目にするのもつらくて、しまい込んでいた。

 再び取り出したのは、事件から半年あまりが過ぎた、にいなちゃんの誕生日のことだ。

「『スーホの白い馬』という物語の一場面を描いた絵ですが、ほら、ここに!」

 入江さんは絵を見せながら、声を弾ませる。

 白い仔馬を抱いた、スーホの隣に、頭にバンダナを巻いた女の子が、しっかりと描かれていた。

 その姿は、事件前日のにいなちゃんそのものだった。

「あの日もバンダナを巻いて、大掃除のお手伝いをしていました。夫が“頑張ってるね”と声をかけると、はしゃぐように笑顔を見せて」

 そのときの笑顔が、絵の中のにいなちゃんと重なった。

 泰子さん、礼くん、みきおさんの姿も、まぶたに浮かんだ。みんなが笑っていた。

「このとき、ふっと心が動きました。このままじゃいけないって。もちろん、ドラマみたいに、すぐに立ち直るなんてできなかった。でも、私がどん底にいたら、家族が悲しむ。そのことを、現実として、感じられるようになりました」

 事件から1年後、港区の新居に引っ越してからは、上智大学などで死生学を学びながら、社会活動にも視野を広げ、地域の小学校の図書館でも働き始めた。

 少しずつ、日常を取り戻しながら、絵本づくりにもとりかかった。

「マスコミが伝える、“かわいそうな家族”ではない、幸せな妹一家の姿を、残しておきたかったんです」

 主人公は『ミシュカ』

 にいなちゃん、礼くんが大事にしていた、クマのぬいぐるみだ。

 物語を紡ぐうち、心が温かくなるのを感じた。

「4人の死を、受け止められたというか」

 臨床心理士で、後述する『ミシュカの森』の主要メンバー・倉石聡子さんが話す。

「入江さんは、にいなちゃんの絵から、メッセージを受け取り、絵本を書くことで喪失感から回復していったのではないでしょうか。回復のきっかけを探していたタイミングで、にいなちゃんの絵と出会えたことにも、運命的なものを感じます」

 文章と絵、両方に思いを込めて手がけた作品は、2006年、4人の七回忌に、『ずっとつながってるよこぐまのミシュカのおはなし』(くもん出版)として出版された。

 これを機に、『世田谷事件』の被害者遺族であることも公表した。

「とても勇気がいりましたが、大学に入学した息子が、友達にカミングアウトしたことや、世間体を気にしていた母が体調を崩し、世間の目どころではなくなったことも、公表に踏み切れた理由です」

 ペンネームは、『入江杏』。名づけ親は、息子だ。

「にいな『NINA』と、礼『REI』、2人のアルファベットを入れ替えて、『IRIE・ANN』はどう? って。とても気に入っています。絵本のタイトルも、息子がつけてくれました」

 絵本は反響を呼び、多くの人の心をとらえた。

 出版に携わった、元くもん出版の田中康彦さん(65)が話す。

最初に絵本を読んだとき、妹さん一家の楽しい日常と、突然の別れを、ミシュカを通してやさしく表現されていることにホッとしたのを覚えています。

 私自身、すでに妻を見送っていたので、“これからもずっとつながっている。忘れないよ”というメッセージに、とても共感しました」

 読者から届く手紙の中には、『池田小学校事件』(2001年・大阪教育大学附属池田小学校で起きた、無差別殺傷事件)で姉を亡くした女の子からのものもあった。

「“心の支えになった”と感想をもらって、私のほうが励まされました。そのころから、人とのつながりが広がって、被害者遺族として、自分に役割があることにも気づけたように思います」

泣いていい、思い切り笑っていい

 絵本の出版を機に、人前で話す機会も増えた。

「最初は、事件の話と、絵本の読み聞かせが中心でした」

 この集いは、いつしか『ミシュカの森』と名づけられ、以来11年、行政などと協力し、誰もが悲しみを発信できる場として形を変えている。

「母もそうでしたが、弱い立場の人ほど、“悲しい”と声を上げられず、引きこもってしまいがちです。そういう人が、安心して話せる場所を、できるだけ自分でも設けていますし、そうした場づくりの応援もしています。話すこと、聞いてもらうことが、回復の糸口になるからです」

 身近な人の死別、離別で悲しみを抱える人を支援する、グリーフケアについても学びを深めた。現在は、上智大学グリーフ研究所で非常勤講師、世田谷区グリーフサポート検討委員を務めるなど、それぞれの立場から、人々の悲しみに寄り添う。

 前出・倉石聡子さんが話す。

「入江さんは率直な方なので、自分の弱さや失敗談も、あっけらかんと話します。その姿に、多くの人が“こんな自分でもいいんだ”と励まされ、声を上げることができるのだと思います」

 息子さんを自死で失った、皮膚科医の樋口恵理さん(58)も、そのひとりだ。

「講義に参加して驚いたのは、入江さん自身の輝きでした。ああ、人は生き直せるんだと、その姿が教えてくれました。行動力も驚くほどで、私が今、月に1度、医療少年院で治療に携わっているのも、入江さんに誘われて少年院を見学したのが始まりです。虐待経験や障害のある少年たちと向き合う中で、息子の死にとらわれていた気持ちが変化し、自分ができることに気づけたように思います」

 山口被害者支援センター直接支援員で、2006年に起きた『山口高専生殺害事件』で娘さんを失った犯罪被害者遺族でもある、中谷加代子さん(57)が話す。

「出会ってまだ2年なのに、杏ちゃんは本音で話せる相談相手です。ずっと聞き役だった夫が、“俺の出番はないな”と肩の荷を下ろすほど、家族以上に家族のような存在ですね。杏ちゃんとはお酒も飲むし、温泉に行ったこともあります。楽しければ、大いに笑う姿に、犯罪被害者である前に、ひとりの人間として、あるがままに生きていいと、気づけたように思います

 2013年、『悲しみを生きる力に』(岩波ジュニア新書)を出版。以来、著書のタイトルをテーマに、講演活動を行う。

 全国から講演依頼が途切れないのは、犯罪被害者遺族として同じ立場の人に寄り添うだけでなく、社会全体に支援を呼びかけているからだろう。

「犯罪被害者遺族は、世間やマスコミが求める“遺族らしい姿”に縛られ、苦しくなってしまいがちです。ただでさえつらいのだから、悲しいときは泣いていい、うれしいときは遠慮なく笑っていいと思うんです。そうやって、遺族が素直に気持ちを発信できる社会にしたいし、それを受け入れられる社会になればと、活動を続けています」

 講演などで人々と直接向き合うだけでなく、「こう見えても、被害者遺族の中でSNSを活用してるほうなんです」と、ツイッターやFacebookでも、メッセージを発信。一般の人にもネットワークを広げて、社会全体に思いを届ける。

ありふれた毎日こそが、かけがえない

 入江さんの朝は、ピーターラビットのコップに新しい水を入れ、写真立てに供えることから始まる。

 そこには7人の笑顔が並ぶ。

 泰子さん一家4人、父親、82歳で他界した母親、そして、2010年、60歳という若さで亡くなった、夫・博行さんの写真だ。

「夫が亡くなったのは事件から丸10年が過ぎたころです。“ようやく、いつもの生活に戻れたね”と話していた矢先に、突然、大動脈解離で倒れました。手術室に入るときの“行ってくるよ”が、最後の言葉だったので、今も“ただいま”と帰ってくるような気がしています」

 事件以来、ずっと支えてくれた夫の死は、妹一家のときと違い、犯人への怒りがないぶん、悲しみも深かった。

 だが、7年が過ぎた今、語られるのは、夫との楽しい思い出だ。

「夫がイギリスから帰国すると、近所の公園で犬を連れて散歩するのが日課でした。いつも話すのは私。夫はもっぱら聞き役でしたね。そうそう、私たちの出会いも、公園だったんです。犬を散歩中に、動物が大好きな夫が話しかけてくれて」

 入江さんは、「ただごと」の日々を大切にしている。

 穏やかで、ありふれた毎日が、どれだけかけがえのないものかを知っているからだ。

「あの事件で、私たちは嵐の中に放り込まれました。非日常では、悲しみすら現実感が薄かった。でも、今、夫が逝って、心から悲しい。それは日常を取り戻せたから、感じられることなんです。妹一家は、ただごとの毎日を大切に、生活していました。私も、その意思を引き継げたらと思っています」

 世田谷事件が起きた年末は、全国各地を講演で飛び回る。

 多忙な日常を送りながらも、地に足をつけて暮らす。

「朝はみそ汁を必ず作ります。都心に暮らしているのでスーパーが近くにないけれど、八百屋さんがあるので、新鮮な野菜を入れて。

 社会人になって忙しく働く息子に、“今日は夕飯いる? じゃあ、作っとくね!”なんて、声をかけて送り出しています」

 17年たった今も、事件現場は、取り壊されることなく、当時のまま残されている。

 犯人逮捕をあきらめていない、警察の象徴のように。

「建物は老朽化しても、事件は風化させたくない。思いは警察と同じです。犯人への怒りも、当時のままです」

 入江さんは、そう言い切る。

 毎年、年末には、世田谷事件追悼の集い『ミシュカの森』を開催し、たくさんの参加者とともに故人を偲ぶ。

 私たちも忘れずにいたい。

 幸福に暮らしていた、4人の大切な命が奪われたことを。事件から17年、悲しみを生きる力に変え、懸命に生き直した家族がいることを。

取材・文/中山み登り 撮影/森田晃博

中山み登り(なかやまみどり)◎ルポライター。東京生まれ。晩婚化、働く母親の現状など、現代人が抱える問題を精力的に取材している。主な著書に『自立した子に育てる』『仕事も家庭もうまくいくシンプルな習慣』(ともにPHP研究所)など。中学生の娘を育てるシングルマザー。

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