人を縛り強要する「物語のマイナスの側面」とは? 星野智幸『焔』があぶり出す日本の病巣(1)

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2018年01月31日 17:03  新刊JP

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『焔』(新潮社刊)の著者、星野智幸さん
ある種のフィクションは、その内容や質にかかわらず現実社会を映し出す。風刺や未来への警鐘として、または励ましとしてなど、どのような意味合いとして受け取るかは読み手に委ねられるが、いずれにしても読後に自分の暮らす社会や自分の生きる世界を思い出さずにはいられない。そんな物語があるのだ。

小説家・星野智幸さんの最新作『焔(ほのお)』(新潮社刊)はまさしくそんな作品集。星野さんはどのような意思を持って、どこか陰鬱でまぎれもなく不寛容な日本社会を新作の舞台に選んだのか。そしてこの舞台は「未来の日本」なのか、それとも作家から見た「今の日本」なのか。

社会と創作を巡るそんな疑問を星野さんご本人にぶつけたインタビュー、その前編をお届けする。(インタビュー・記事/山田洋介)

■「物語の“解放の側面”をアピールしたい」

――今回の作品集『焔(ほのお)』では、日本に軍ができ、気候変動からか酷暑ならぬ「極暑」が続き、人々はそれぞれの主義主張によって分断しているという、おそらくは未来の日本と思われる場所が舞台になっています。実に生きづらい社会を書かれたなという印象です。

星野:そうですね。生きづらい社会を生きづらく書きました。

――短編集のようですが、各短編の間に焔を囲む人々についての別の語りが入っています。この構成ははじめから考えていたことなのでしょうか。

星野:いえ、今回の本に入っている作品で一番古いのは2010年のものです。さすがにその時からこの構成を考えていたわけではなくて、基本的にはそれぞれ個々の短編として書きました。

当初は普通に短編集にしようと思っていたのですが、読み返したらどの短編も非常に世界観が共通していたといいますか、あるテーマが浮かび上がる感覚がありました。そこで、単なる短編集ではなく全体で一つの世界像を描いている作品として考えて、各作品の間をつなぐ語りを入れた。だから、何と呼んでいいか自分でもわからないんです。いわゆる短編集とは違いますし、かといって連作短編というわけでもないですし。呼び名は募集中です(笑)。

――カラスに偏執する男がいつしかカラスそのものになって卵を産み落とす「クエルボ」や、無数の眼が部屋の中を飛び交う「眼魚」など、星野さんの小説に共通する想像力の跳躍は今回の作品でも健在です。自由な想像力を保つ秘訣はどんなところにあるのでしょうか。

星野:どうなんですかね……。ただ小説を書く時は絶対にそこに歯止めはかけないということは自分で決めていますね。想像力にブレーキをかけてしまうと自分が小説を書く意味がなくなってしまうので。

ただ小説を書き始めた頃は、自由な発想で書いているつもりでも実際は不自由だった気がします。自由って難しくて、自由にやろうとすればするほど体に埋め込まれた定型だとか思い込みが自然に出てきて、支配されてしまいやすい。それらをくぐり抜けて書けるようになったのはある程度キャリアを積んで以降だったように思います。

「クエルボ」は登場人物がカラスになってしまう話でしたが、実はデビュー前に同じようなことをシャケでやったことがあるんですよ。新人賞に応募する小説で、自分がある日シャケになってイクラを産んでしまうっていう話だったんですけど、これは大失敗でした。



――昨年デビュー20周年を迎えた星野さんですが、デビュー当時と比べて想像力の幅や質が変わってきた感覚はありますか?

星野:想像力の質は基本的に変わっていないと思います。自分でいうのも変ですが、想像するものにある種のアナーキーさがあるところは昔からそうでしたね。

ただ、想像力の対象になる材料は変わりました。昔は材料そのものがあまりに空想的だったりしたのですが、今はその頃よりも少し現実的かつ地に足のついた材料をネタに、想像力でどこまで飛んでいくかという感じで書いています。

――自由な発想によるファンタジックな部分と実社会への批判のようなものが同居しているのが星野さんの小説の大きな特徴ですが、それは今回も存分に発揮されていますね。

星野:僕の作品から社会性がなくなることは当面ないでしょうね。どんな作品でもその要素は入ってくると思います。

一方で『夜は終わらない』という長編小説を書いた頃から、ある種の変身譚というか、登場人物が別の何かに成り代わる話が多くなっています。そういう想像の広げ方が今は楽しいのですが、それは人間から離れたいという気分ですとか、人間じゃないものになりたい、人間をやめたいという願望がベースにあるのかもしれません。

つまり、今の人間のあり方が人間であるとすれば、自分はそういう選択をとりたくないという気分で、それはそれで実社会とも繋がっている。じゃあ、今のあり方ではない人間とはどのようなものなのかということを書きながら探っていて、登場人物が人間ではないものになっていくというのはその過程なんだと思います。

――ただ、今回の作品では「人間から離れたい」という願望とは別の方向の結末になっていますね。人間は人間のままですが、皆が混じり合って「個」がなくなっていくような。

星野:そうですね、今の「個」とも「集団」とも少し異なる「個」のあり方を探ったと言いましょうか。そういう「個」を持っているからこそ、多様な人と混じっていける。動物になることを経て、そこに到達できるかどうかが、今回の小説を書いている間、自分に問われていたとも思います。最後の「世界大角力共和国杯」と、焔を囲む人々についてのラストの語りで、そこに辿りつけたかなという実感はあります。

――この終わり方は「希望」なのでしょうか。

星野:自分にとってはそうです。「小説の役割」と言ってしまうと義務感が強すぎて相応しくないかもしれませんが、ここ数年ずっと「今の小説が目指せることは何なのか」ということが見えなくなっていました。

ただ、去年か一昨年あたりから、現代ではなくて少し先の未来、10年、20年先の未来についてこういう世界やこういう価値観がありえて、こんな社会像を目指すことができるんだ、という積極的なあり方や価値を提示していくというのが、これから書くべき小説だと思うようになったんですよね。

それを具体的にどう書くかという方法はなかなか掴めなかったのですが、今回の小説を書いていくなかでだんだんはっきりしていった感があります。ラストの部分はその一つの着地点として、未来において目指すべき価値を示せたかなとは思っています。



――物語が持つ二面性についても考えさせられる作品集でした。物語には語る人間やそれを読んだり聞いたりする人間を自由にするものもありますが、一方でたとえば民族や出自といった個人や集団の「歴史」は、時に人の思考や行動を縛ったり、人を分断させる物語にもなりえます。そして、今の社会では後者の「物語」の方が優勢なようです。

星野:どんな物語でも、良い悪いは別にして、その必然として二面性を持っているものです。人を解放して新しいアイデンティティを与えることができるのも物語ですし、何かを強要して人のできあがったアイデンティティを歪めようとするのも物語です。だからこそ、人を解放するプラスの力を利用しながらマイナスの力を打ち消すのが小説なんだといつも心がけています。

おっしゃる通り、最近は物語のマイナスの側面を使って社会を統治しようとしたり、人を結束させようということが、あちこちで猛然と行われていますよね。そういう状況ですから、より意識的に物語の「解放の側面」を駆使したいですし、社会をそちらの方向に持っていければいいなと思います。

【「事実ではなく“対立の構造”が独り歩きする」 星野智幸『焔』があぶり出す日本の病巣(2)を読む】

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