W杯フランス代表が受け継ぐリリアン・テュラムのDNA

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2018年07月13日 19:12  ニューズウィーク日本版

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ニューズウィーク日本版

<決勝進出の実力とともに「人種を越えた統合のシンボル」が帰ってきた>


ロシアで開催中のサッカー・ワールドカップ(W杯)の決勝は、フランス対クロアチアに決まった。


この両チームがW杯で戦うのは20年ぶり。前回はフランス大会、パリ郊外のスタッド・ド・フランス競技場での準決勝だった。


あのときは0対0で前半を終わり、ハーフタイムの後にいきなりクロアチアに1点を取られた。だがフランスはすぐに1点を取り返す。その時GKのほぼ正面に躍り出て、シュートを放ったのはリリアン・テュラムだった。彼は、その後もペナルティー・エリアの角のすぐ外からゴールを決めてフランスを勝利に導いた。


2点目のボールがネットを揺らすと、テュラムは座り込んで指で鼻をつつき「どうして俺が」という表情をした。無理もない。彼は142回という男子ナショナルチーム選抜の記録をもっているが、ポジションはDF。この日の2点が彼のキャリアの全得点だったのである。そしてその2発が、テュラムを国民的英雄にした。


その後、テュラムがその名声をどう使ったのかを話したい。


わが名は「ブラック・ブラン・ブール」


20年前、決勝に進んでブラジルも破って初優勝を遂げたフランス・チームは国旗の「bleu-blanc-rouge(青白赤)」をもじって「black-blanc-beur(ブラック・ブラン・ブール)」といわれた。黒、白、そしてブールは「アラブ」をひっくり返した「ブラア」がなまって「ブール」となったもので北アフリカからのアラブ移民のことだ。


たしかに、リリアン・テュラムはフランスの海外領土グアドループ(カリブ海)生まれで、9歳のときに家族と共に本土に渡った黒人、キャプテンは白人で現在監督のディディエ・デシャン、そしてチームの軸はアルジェリア移民2世のジネディーヌ・ジダン。まさにフランスの理想とする人種を越えた統合のシンボルだった。


「当時のブラック・ブラン・ブールというスローガンは、フランス人であるとはどういうことなのか、私たちに問いかけてきました。あのチームは異なる宗教、異なる色、異なるアクセントで構成されたイメージを発信しました。とてもポジティブでした」──ロシア大会たけなわの6月15日、フランスのラジオ・フランスキュルチュールのインタビューでテュラムはこう語った。


ところが次の2002年日韓大会、優勝の最有力候補として臨んだが結果は惨憺たるものに終わった。ジダンは大会前の試合で負傷し、チームも予選3試合で1点もとれず無残に敗退した。


その頃国内では、移民を排斥する極右勢力が伸び、その空気を読んだ当時のサルコジ内相は「郊外の若者は社会のクズだ」と言い放った。


もはや「ブラック・ブラン・ブール」はただの古き良き思い出になってしまった。もう少し後のことだが、サッカー連盟の中で黒人やアラブ系の比率を制限すべきだという声が上がり、マスコミへの内部告発で中止になったこともある。


2005年11月には全国の郊外団地で暴動が起こり、非常事態宣言まで発令された。そのとき、「治安の悪さをいうまえに社会的正義を語らなければならないだろう」と激しく批判したのがテュラムだった。テュラムも貧しい移民の子があつまるパリ郊外の団地で育った。サルコジ内相は、テュラムは当時としては最高の移籍金でユベントスに所属しており「もう郊外に住んでいない。イタリアで高給を貰って安楽に暮らしている」と反論した。


だが2008年、テュラムは「リリアン・テュラム・反人種差別教育財団」を設立した。財団の公式ホームページにはこうある。


「私たちは人種差別主義者として生まれるわけではない、そうなってしまうのです」


「人種差別主義は知的、政治的、経済的につくられるものです。私たちは、歴史が、世代から世代へと黒人、白人、マグレブ人、アジア人などと見るように条件付けてきたことを認識しなければなりません」


「私たちの社会は、肌の色や性別・宗教・性的指向が、知能・話す言語・身体能力・国籍・好き嫌いを決定するのではない、というまったく簡単な考え方をふつうのこととしてもたなければなりません」


「人は最悪のことも最高のことも、何でも学ぶことができます」


偽善者と呼ばれても


テュラムには、「億万長者が教訓を垂れている」「白人に媚びるスーパーアンクルトムだ」という批判もある。本人は強く否定しているが、1998年に優勝した時にロッカールームで「ブラックだけで記念写真を撮ろう」といった偽善者だという噂も消えない。前夫人との離婚ではDVの疑いもかけられ泥試合にもなった。


だが、彼の活動は真摯である。人類学者、弁護士、遺伝学者、博物館学者、社会学者、政治学者、外交官、歴史家、心理学者などを集めた科学委員会をつくり、出版、討論会、展覧会、対話の会などで人種差別に反対する教育活動をつづけている。


テュラムはもっとも突出した例だが、このような活動をする例がフランスのサッカー界では多い。ジダンも麻薬売人が銃撃戦をするほどに荒れてしまったマルセイユの団地にポケットマネーでサッカーチームをつくって社会教育をしている。


先日、準決勝のベルギー戦のあと、シャンゼリゼをはじめフランス中で人種や出自に関係なく人々は歓喜を分かち合った。「ブラック・ブラン・ブール」が復活した。


ちなみに、サンクト・ペテルスブルグでコーナーキックからヘディングを決めたのは黒人DFウムティティだった。


[執筆者]


広岡裕児


1954年、川崎市生まれ。大阪外国語大学フランス語科卒。パリ第三大学(ソルボンヌ・ヌーベル)留学後、フランス在住。フリージャーナリストおよびシンクタンクの一員として、パリ郊外の自治体プロジェクトをはじめ、さまざまな業務・研究報告・通訳・翻訳に携わる。代表作に『EU騒乱―テロと右傾化の次に来るもの』(新潮選書)、『エコノミストには絶対分からないEU危機』(文藝春秋社)、『皇族』(中央公論新社)他。


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広岡裕児(在仏ジャーナリスト)


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