高齢ドライバー問題は、日本の高度経済成長が生んだ!?

4

2018年07月31日 17:02  ニューズウィーク日本版

  • チェックする
  • つぶやく
  • 日記を書く

ニューズウィーク日本版

<認知機能が低下しても高齢者が運転をやめようとしないのはなぜか。その前提には車社会が本格化し始めた70年代の変化があった。そして少子高齢化が進む今、ただ高齢ドライバーを排除すればいいのではない>


流れにうまく合流できずに起こる「出合頭事故」から、定期的に報道される「高速道路の逆走」まで、高齢ドライバーによる交通事故があとを絶たない。


そのため2017年3月には改正道路交通法が施行され、認知症などに対する対策が強化された。例えば75歳以上のドライバーに課せられてきた高齢者教習に、「臨時認知機能検査」と「臨時高齢者講習」が新設されたのも、そんな状況を鑑みてのことだ。


当然の流れとして、高齢者に対する運転免許の自主返納の働き掛けも進んでいるが、その一方には現実的な問題もある。自動車がなければ、生活が成り立たない地域もあるということだ。


しかも、それは過疎地だけの問題ではない。高度成長期のマイカーブーム時代に、「郊外の集合住宅に住み、週末には車で大型スーパーへ行って食料をまとめ買いする」というようなライフスタイルを続けてきた世代が高齢者になりつつあるというのである。


そしてさらなる問題は、認知機能の低下は年齢を重ねるに従って誰にでも表れるものだと知りつつ、運転をやめようとしない高齢ドライバーが少なくないこと。現実問題として、機能の低下を意識しつつも、それを経験による知恵で補いながら運転を続けている人も多いのだ。


自動運転技術が急速に進歩しているとはいえ、実用性を考えるとまだまだ不安要素も多い。つまり考えるべきこと、克服されなくてはならない問題は依然として山積しているのである。そこで、そういった問題について最新の知見を集めたのが『高齢ドライバー』(所 正文、小長谷陽子、伊藤安海著、文春新書)である。


社会的問題としての高齢ドライバーについては、産業・交通心理学の所正文氏に、高齢者の認知機能問題については認知症専門医の小長谷陽子氏に、高齢ドライバーの身体的問題とそれを補う自動運転技術の現状は交通科学・医工学の伊藤安海氏に、それぞれ執筆を依頼した。(「はじめに」4ページより)


この記述からも分かるとおり、高齢者による事故の具体例をセンセーショナルに紹介しているわけではない。あくまで重点が置かれているのは、各分野の専門家による学術的なデータや見解だ。


高齢者の運転免許保有率は、近年大きく上昇し、二〇一〇年には七十歳代前半の保有率は五三・三%まで上昇した。男性の場合、八四・九%に達した。さらに戦後ベビーブームに生まれたいわゆる団塊世代(一九四七〜四九生まれ)と呼ばれる人たちが、七十歳以上の高齢ドライバーに義務づけられる「高齢者講習」の受講対象者になってきた。団塊世代の人たちは、その前後の世代と比べて大きな人口ブロックを形成するため、わが国交通社会は、一気に膨大な数の高齢ドライバーを抱えることになる。「平均寿命が延びれば、健康である限り車の運転を続けていこう」と考える人が今後ますます増え、高齢ドライバーによる交通事故が大変懸念される。(21~22ページより)


70歳を超えて自動車を運転する人は、1980年代までは限られたごく一部の男性だったものの、90年代後半には大半の男性に変わったのだそうだ。個人的には80年代のドライバー人口の少なさを意外にも感じたが、それはともかく21世紀の四半世紀が経過する頃には、ほぼ全ての男女が高齢ドライバーになりうる。すなわち、今後10年以内に男女問わず大半の高齢者が車を運転する時代になるということだ。


このことについて執筆者のひとりである所は、自動車の運転が大半の高齢者の日常生活に組み込まれることは画期的な社会変革であることを認めている。また、それに伴う新たな問題が必然的に発生していくことが予想されるため、我々は21世紀の重要な社会問題のひとつとして、このことに取り組んでいかなければならないとも主張している。


また、その大前提として注目しておくべきは、車社会が本格化しはじめた1970年代の変化。あの時代には高度経済成長の波に乗り、自動車が地方都市の道路へ急激に進出していった。地方都市の交通では、経済効率の高い自動車だけが生き残り、60年代まで人々の重要な移動手段であった路面電車や自転車が一気に駆逐されてしまったのである。


そのため日本の地方都市は、自動車交通を根幹に据えた形へと再構築を迫られ、量販店、病院、公共施設は、広い駐車場を確保するため郊外へ移転することとなった。その結果、全国の地方都市中心部が空洞化し、街中の人通りが激減。かくしてシャッター街が増加していったということだ。


そして郊外には、自動車でしかアクセスできないニュータウンが次々と出現して活性化していくことになる。このような動きのなか、高齢者が郊外へ移転したスーパーや病院に出向くようになったため、唯一の移動手段としてのマイカーは必要不可欠なものとなる。また先にも触れたとおり、これは都市郊外の人々にも同じことが言える。


 一九八〇年代以降、マイカーによる移動を大前提として、日本の地方都市が新たな街づくりを進めてきた政策の限界が、超高齢化社会を迎えた現在、まさに露呈したと言わざるを得ない。日本の多くの高齢者が、これまでの生活を維持していくためには、少々の健康上の問題が生じても、運転免許を持つことに執着せざるを得ない理由の一つがここにある。(64ページより)


運転免許を手放せば、日常生活が著しく不便になり、サポートシステムがほとんど整備されていない地域が、日本の地方社会には多い現実にも目を向けなければならない。加えて、運転することは、高齢者にとって「自立の象徴」でもあるため、運転が可能である以上、運転免許を手放すことを受け容れられない高齢ドライバーが圧倒的に多い。そのため、この問題は、大きな社会問題の一つになっているわけである。(73ページより)


それだけではない。一足先に車社会を実現してきた欧州先進諸国とは異なり、日本の地方都市交通では圧倒的に自動車が優遇されている。歩道が設置されていない狭い道路にも、かなりのスピードを出した自動車が侵入できるのだ。そのため道路内では「自動車―バイク―自転車―歩行者」という階層的序列ができあがり、その結果、歩行中の高齢者が交通弱者としてしわ寄せを受けることにもなる。


そのため日本全国で、免許自主返納へ向けてのさまざまな取り組みが行われている。また返納後についても、買い物や通院の際に利用できる「タクシー定期券」制度の導入を筆頭に、あらゆる取り組みが進められている。


そんななかで興味深いのは、所による「今後への提言」だ。高齢ドライバー激増時代を目前に控えた今、欧州の交通社会の状況も踏まえつつ、次の4点を提言しているのである。


 第一は、わが国に根強くはびこる自動車優先主義を改めることである。歩行者、自転車、公共交通機関、そして自動車は、交通参加者として対等であるという考え方を交通政策の根幹に据える必要がある。(中略) 第二は、運転断念を強いられた人たちへのさまざまなケアである。ドライバー本人に対して、老いを受け入れる方向で優しく助言指導できる専門家を育成していく必要がある。(中略)運転は、高齢者にとって自己の尊厳に関わることであり、自立の象徴でもある。メンタルケアを丁寧に行う必要がある。(中略) 第三は、自動運転システムへの期待である。予想を上回るスピードで技術開発が進んでおり大いに希望が持てる。安全性、セキュリティー面での技術が、一定水準を超えるまでは市場導入は認めないことは言うまでもないが、その後も、七十歳(あるいは六十五歳)以上のドライバーに対して、優先的に自動運転車を低価格で販売すること、自動運転によるマイカー走行は、地方エリアに限定し、公共交通機関が充実している都市部では認めないことを要望したい。理由は、それによって、地方創生に結び付くからである。 第四は、研究方法の見直しである。「社会問題としての高齢ドライバー」といった超高齢化社会における大きな社会的課題に取り組むためには、アクションリサーチをこの分野の中核的方法論に据える必要がある。これは、直面する問題の解決へ向けて、研究者と実務家が一体となって取り組む実践活動を意味する。(後略)(113〜117ページより)


なお、高齢ドライバー問題というと、どうしても高齢者の無謀な運転や事故に焦点が当たりがちだ。もちろんそれも重要な問題ではあるのだが、一方、とても重要なポイントではないかと感じたのが、本書の第2部「認知機能と身体能力からみる高齢ドライバー」内の第2章「身体的問題と自動運転技術」での伊藤による表記だ。


ドライバーが高齢化することにより生じる問題はマイカーの運転だけであろうか? 実は、現在の我が国には、バスやタクシー、トラックなどの商用ドライバーの高齢化と人手不足というもう一つの大きな問題が存在するのである。こちらの問題解決にこそ、自動運転技術は積極的に活用されるべきではないだろうか。そもそも、自動運転は人の移動のためだけに研究されているわけではない。物流も自動運転における大切な分野のひとつなのである。(224ページより)


アマゾンなどインターネット通販の利用率が爆発的に増加したため、宅配ドライバーの労働環境が悪化していることは数年前からメディアでも頻繁に報じられている。急激に増大する荷物量に対して運転手が足りな過ぎるという話はしばしばクローズアップされてきたが、実はそこにドライバーの高齢化も絡んでおり物流そのものが危機に瀕しているわけだ。


そうなると必然的に自動運転に対する期待感が高まるが、それ以上の視点を持つことの重要性を伊藤は強調している。政府が「一億総活躍社会」を目指すのであれば、自動運転によって高齢ドライバーを排除するのではなく、自動運転や運転支援技術を活用し、高齢ドライバーをより安全に、より有効に活用することが望ましいというのである。


そして、そのために必要なのは、従来の縦割り行政の弊害を解決し、健康や生きがいといった視点を、経済性、安全性、環境への配慮といった課題と合わせて議論する環境づくり。いわば、世界一の超高齢化社会を好機と捉え、高齢ドライバー問題をチャンスに変えること、それができれば、少子高齢化によるさまざまな問題を強みに変えていけるという発想である。


『高齢ドライバー』


所 正文、小長谷陽子、伊藤安海 著


文春新書


[筆者]


印南敦史


1962年生まれ。東京都出身。作家、書評家。広告代理店勤務時代にライターとして活動開始。現在は他に「ライフハッカー[日本版]」「東洋経済オンライン」「WEBRONZA」「サライ.jp」「WANI BOOKOUT」などで連載を持つほか、「ダ・ヴィンチ」などにも寄稿。新刊『読んでも読んでも忘れてしまう人のための読書術』(星海社新書)をはじめ、ベストセラーとなった『遅読家のための読書術――情報洪水でも疲れない「フロー・リーディング」の習慣』(ダイヤモンド社)、『世界一やさしい読書習慣定着メソッド』(大和書房)、『人と会っても疲れない コミュ障のための聴き方・話し方』(日本実業出版社)など著作多数。




印南敦史(作家、書評家)


このニュースに関するつぶやき

  • 高速「度」逆走by妄想道爆走
    • イイネ!10
    • コメント 0件

つぶやき一覧へ(3件)

前日のランキングへ

ニュース設定