学術言語としての日本語

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2018年08月23日 11:52  ニューズウィーク日本版

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ニューズウィーク日本版

<学術書が売れない状況は悪化傾向にあるが、その要因は出版事情の厳しさだけではない。もう一つの大きな問題は、日本語での学術書が占める地位が変わってきていることだが、そうであれば日本語の学術書はもう必要ではないのだろうか>


出版事情厳しき折にお引き受けいただきありがたい、というのは、学術書における担当編集者や出版社への謝辞の定番的な表現である。この表現はかなり古くからあり、厳しくない時代が直近だといつにあったのか、そもそもそんな時代はなかったのではないかという疑問は禁じ得ない。しかし、学術書を出しても売れず、出版助成を得ない限りは製作費用も回収できない状況が、改善されるどころか悪化傾向にあることは確かなのであろう。


背景にはさまざまな要因が存在するようだが、大きく分けると二つの問題に帰着するように思われる。


第一には、本を読む人や支払う金額が減っていることである。少子高齢化を伴った人口減少と、電子媒体の急激な発展や普及の挟み撃ちに遭って、印刷された本が流通する日本語の出版市場は縮小している。出版科学研究所のデータによれば、ピーク時の一九九六年に一兆一〇〇〇億円ほどあった書籍の推定販売額は、二〇一七年には七一五二億円になったという(同研究所の二〇一八年一月二五日発表。時事通信電子版記事による)。電子書籍の市場拡大は紙書籍の市場縮小に及ばず、雑誌の凋落が出版社をさらに苦しめている。


学術書の場合、このような金額に表れる一般書とは定価設定や売れ方が全く異なっており、書籍の市場縮小から直接的に打撃を受けているとはいえないかもしれない。しかし、岩波書店、講談社、中央公論新社など、一般書を扱う出版社から学術書が刊行されることも少なくない日本の出版事情を考えると、間接的な影響はやはり無視できない。


第二の、そして本稿でとくに考えてみたい要因としては、日本語での学術書が占める地位が変わってきていることである。もともと、書籍という形態で研究業績を公表する傾向は、人文社会系において強く、自然科学系において乏しかった。本になるような大きな研究成果が、いきなり書き下ろされることは珍しい。論文としていくつかの部分や原型が公表され、それに対する評価などを踏まえて書籍へとまとめていくのが通例である。原型となる論文を、自然科学系では英語で書くのに対して、人文社会系では日本語で書くことが多かったために、そのまま日本語の学術書にするという流れがあったのだと考えられる。


ところが現在、人文社会系におけるこのような流れは急激に変化している。大きな理由は、日本の学術の国際化という掛け声の下、研究業績を英語で公表すべきであるという主張が強まっていることである。関連して、英語で先鋭的な研究成果をどれだけ公表できるかが研究者の評価を決めるのであって、総説的な要素をそれに付け加えた日本語書籍を出版する意義は乏しいという意見も力を得ている。もちろん、日本語の学術書が無駄だという強い議論は稀だが、時間や労力に限界を抱える個々の研究者が、それを割いて取り組むべきこととしての優先順位は残念ながら低く抑えざるを得ない、という雰囲気は確実に強まっているように思われる(この問題を扱った注目すべき見解として、曽我謙悟「『現代日本の官僚制』のあとがきのあとがき」『UP』第五三五号、二〇一七年)。


このような変化の程度は、人文社会系内部においても「まだら」であって、分野ごとに相当の違いがある。たとえば、経済学は自然科学系に近く、論文を英語で書くことが研究者(とくに若手)の圧倒的な関心事である。政治学はテーマや研究者の世代によってバラつきが大きいが、現代政治分析に取り組む若手は経済学と似た発想が強い。社会学も内部にバラつきが見られるようだ。法学や歴史学は、とくに日本を対象にしている場合には、まずもって日本語で論文を書き、決定版的な日本語の著書をまとめることを目標にする研究者が多いのではないだろうか。


だが、近年の科学技術政策の展開は、このような分野ごとの違いを認めてくれるほど丁寧なものではなく、自然科学系と似た評価基準への収斂傾向は今後とも強まる一方であろう。遠くない将来に、人文社会系でも日本語での研究論文が少なくなり、それを出発点とする学術書の減少も生じる可能性が高い。


出版事情が厳しく、学術書に対する研究者の位置づけも変わってきているならば、日本語の学術書はもはやあまり必要ではない、少なくとも徐々に衰退させても構わない、という結論が最も合理的であるように思われる。


しかし、一見したところ妥当なこの答えは、日本社会にとって深刻な打撃を与えるかもしれない。


ここまで述べてきたような理由で日本語での学術書が出版されなくなると、人文社会系における学術言語としての日本語の地位を低下させる恐れが強い。大学の学部学生に向けたテキストなどは、高校段階との接続教育や初学者への入門クラス用には日本語が残るかもしれない。だが、全体的には現在よりも大幅に出版点数が減り、とくに中程度の難しさのテキストは打撃を受けるだろう。そこに盛り込まれた先端的な内容に、当該分野の魅力を感じる熱心な学生は意外に多いが、その道筋は狭まる。


それと並行して、新書などの形式で専門外の読者に体系的な学識を伝える試みも、次第に弱まっていくと考えられる。新書は現在では多様なタイプの著作を含んでおり、雑誌に近い内容をパッケージのみ新書にしているような例もないわけではない。だが、もともとは比較的大きなテーマ、専門外の人が関心を抱くテーマについて、専門的学識に立脚した体系的知見を与えるための媒体である。


そのような著作を成り立たせるには、書き手は自分の狭義の専門分野だけではなく、その両隣、あるいはさらに遠い分野まで十分に目配りせねばならない。その際に、日本語で書かれた学術書の知見は、書き手にとって信頼できる導きの糸となる。仮に日本語の学術書がないとすれば、十分なサポートを得ないままに不案内な分野について書くか、あるいは広がりのあるテーマについて書くことを諦めるかの選択を迫られる。これが質の低下につながることは明らかであろう。


もちろん、問題は新書というパッケージだけに起きるのではない。オンラインの解説記事や、あるいは本誌のような雑誌に掲載される一般読者を視野に入れた論文などでも、似たようなことが起きる。専門家が専門家以外の人に伝わるように書くために必要な作業は、いずれも共通しているからである。


そして、このような「専門家向け」と「一般向け」の両方の要素を持つ成果、あるいは両者をつなぐ成果こそが、日本の知的空間を維持してきたことは間違いない。日本社会においても、古典的著作の読書を基盤とする教養は既に死に絶え、一億総中流意識も過去の存在になりつつある。だが、現在起こっている事柄に対する認識や理解の基底部分を作りだしてきた共有知識が辛うじて残っているとすれば、それはこのような著作に支えられているのではないだろうか。


現在の先進諸国で目につくのは、存在しない根拠、あるいは極めて薄弱な根拠に基づいて繰り広げられる政治的対立である。そこには様々な背景的事情があるのは確かだが、少なくとも一因として、専門家向けの学術的成果が一般の人々に共有されづらくなっている知的状況があることは否定できない。トランプ大統領の虚言や暴言を非難し、それを信じてしまう支持者を嘲笑することは簡単である。だがそれは、専門家向けにひたすら純化することで最も先鋭的な発展を遂げてきたアメリカ社会科学の敗北であり、自らの学術的成果を専門外の人々に届ける努力を怠ってきた専門家に浴びせられた冷や水であることを無視すべきではない。


人文社会系の諸学、とりわけ政治学や経済学などの社会科学は、単に社会現象を対象とする科学であるというだけではない。科学の一分野であると同時に、社会との接点を持つがゆえに「社会科学」なのだ、という意識は、やはり必要だと思われる。学術言語としての日本語、より単純には日本語での研究成果公表をどう処遇するかは、科学の世界における自然淘汰に委ねておけば良い、という問題ではないのである。


【参考記事】京都市の大胆な実験


待鳥聡史(Satoshi Machidori)


1971年生まれ。京都大学大学院法学研究科博士課程退学。博士(法学)。大阪大学大学院法学研究科助教授、京都大学大学院法学研究科助教授を経て、現職。専門は比較政治・アメリカ政治。著書に『財政再建と民主主義』(有斐閣)、『首相政治の制度分析』(千倉書房、サントリー学芸賞)など。


当記事は「アステイオン88」からの転載記事です。



『アステイオン88』


 特集「リベラルな国際秩序の終わり?」


 公益財団法人サントリー文化財団


 アステイオン編集委員会 編


 CCCメディアハウス




待鳥聡史(京都大学大学院法学研究科教授)※アステイオン88より転載


このニュースに関するつぶやき

  • 出版社の怠慢でしょ?難しい学術書に分かりやすい解説を付けて売ることをしない。そうすると日本人はバカになるからな。
    • イイネ!24
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