TBS松原耕二が書いた、翁長知事への「別れの言葉」

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2018年09月06日 18:02  ニューズウィーク日本版

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<8月8日、沖縄県の翁長雄志知事が67歳で急逝した。16年に翁長知事への踏み込んだインタビューを元に著書『反骨〜翁長家三代と沖縄のいま』(朝日新聞出版)を上梓したTBSキャスター・記者の松原耕二氏が、翁長知事への追悼の言葉をつづった>


翁長知事と最後に言葉を交わしたのは、慰霊の日の2日前だった。


当初、そんなつもりはなかった。すい臓ガンの手術を受けたのだ、それどころではないだろう。1年前には慰霊の日のやはり2日前にインタビューしたものの、今年は取材の申し込みすらしないでおくつもりだった。ところが退院した日のすっかり痩せた姿を見てからというもの、少しずつ気持ちが変わっていった。会っておかないと後悔するような気がしたのだ。取材という形であろうと、なかろうと、いやそんなことよりも、個人的に挨拶だけでもしておきたいという思いに駆られた。



別れの言葉


取材で滞在したときが議会の開会中だったこともあって、時間をつくってもらうことは叶わなかったけれど、それでもあきらめきれない。昼休みのあと午後の議会が始まるタイミングに、議場の入り口で待つことにした。


知事控室から翁長知事が姿を見せる。足取りは弱々しい。わずかにうつむく姿は、自分の足が一歩一歩、前に運ばれていることを確認しているようにも見えた。


翁長知事は私を目にするや、少しだけ表情を緩めた。


「今回は時間が取れず、申し訳ない」


かすれた声を絞り出すように発して、ゆっくりと右手を伸ばす。


「とんでもないです」


私も右手を出して握手した。おそらく握ろうとしてくれたのだろう。しかしその手には驚くほど力がなかった。



翁長知事に会うたび感じるのは、身体から発するエネルギーの強さだ。怒りなのか、苛立ちなのか、これまで生きてきた時間そのものが源にあるのだろう。ところがそのエネルギーがまるで伝わってこない。それどころか目の前にいるはずの翁長知事が急速に遠ざかっていくような錯覚にとらわれた。命の火が弱くなっているのは明らかだった。


翁長知事の小さくなった背中を見送りながら、私は心のなかでささやいた。


「ありがとうございました」


なぜとっさにそう言ったのかわからない。


しかしそれが私にとっての別れの言葉だった。


本音を言わない


翁長知事はどんな人物だったか。政治家としての軌跡についてはすでに多くの方が記しているため、私は自分の耳で聞いた翁長氏の言葉をたどることで、彼の芯にあったものを見つめたいと思う。


「私はいびつな人間になってますから」


4年前、知事に当選した日の深夜、翁長氏は私にそう漏らした。祭りのあとの静けさに包まれた選挙対策本部でのことだった。私が当選後の気持ちを尋ねると、翁長氏はさばさばした表情で「感慨もなければ、高揚感もない」と言い切った。3時間ほど前には支持者たちとカチャーシーを踊って喜びを爆発させたではないか、その時ですら冷静だったのかと問うと、彼は肯いて言ったのだ。自分はいびつな人間になっているからと。



それは父と兄が政治家という一家で育ち「子どものころから選挙の熱気も、終わったあとのさびしさも十分すぎるほど味わってきたからだ」と翁長氏は言う。そして「父と兄は選挙で8勝7敗、自分は9連勝だけどね」と付け加え、「翁長家としては17勝7敗か」と笑った。



小学校6年生のときに「那覇市長になる」と宣言して、クラスメイトを驚かせて以来、翁長氏は政治家として生きると定めてきた。その結果「政治っていうものは私のすべてなんです」と言うまでの心境になったのだ。



「政治家としては超プロですよ」


稲嶺恵一元知事は翁長氏を評して言う。


「子どものころから鍛えられて、意識して物事を見て、判断して、しゃべってたんだと。だから口数は多いけど、余計なことは一切言いません」


「本音も?」と私は尋ねた。


「もちろん」



稲嶺氏と翁長氏は同じ門中だ。門中とは同じ祖先を持つ一族のことで、その結びつきは本土よりはるかに強い。しかも稲嶺氏を知事にかついだのも、自民党沖縄県連幹事長時代の翁長氏だった。つまり公私共々、深い関係にある。その稲嶺氏が、翁長氏は余計なことは一切言わないから、本当は何を考えているかわからないと言うのだ。


「小学校のときから政治家を目指していた人は違うんじゃないですか。軸を信念として持っている。それは読み取れないですよ」


「それは近くにいらっしゃっても分からない?」と私は尋ねた。


「わからないです。全然わからない」と稲嶺氏は首を横に振った。


自分は何者なのか。どう自己規定するかで、人の生き方は大きく変わっていく。


稲嶺氏は沖縄県知事を2期つとめたとはいえ、本籍は「経済界」であり、仲井眞弘多前知事も通産省官僚と経済界という流れの先に政治が付け加わった。大田昌秀元知事にも「研究者」という本業があった。しかし翁長氏に帰る場所はない。政治家であるという強烈な自己規定が、彼の人生の軸を形作ってきたのだ。


自民党を離れて


沖縄で政治家として生きるということは、沖縄の歴史を背負い込むことでもある。父親が保守の政治家だったことも影響したのだろう、翁長氏も保守という立場をとった。「異民族支配のなかで、革新は人権の戦いをし、保守は生活の戦いをしていた」と翁長氏が言う沖縄の政治のなかで、彼は生活の戦いに身を投じる。中央政府を担う自民党に連なる政治家になったのだ。



そう思い定めると翁長氏は与えられた役割に徹する。自民党の県連幹事長として、革新の大田知事を議会で攻め立てる激しさは語り草になっているほどだ。さらに大田知事の3期目をはばんだ知事選での立ち居振る舞いは、すさまじい。国に先駆けて自民党と公明党が選挙協力する体制をつくったほか、国と対立しているから不況になったというイメージを広めるため「県政不況」というレッテルを貼ることで、大田知事を落選に追い込むのだ。それは大田氏が晩年まで苦々しい思い抜きには翁長氏について語れなかったほど、容赦ないものだった。



ところが那覇市長になるや、その振る舞いは一変する。


翁長氏は市を運営するにあたって「ノーサイド」とばかり、保守系だけでなく、革新系の幹部も重用する。革新に対して容赦ない攻撃をしていた時代からしたら、別人のようにすら見える。さらに冷戦を終わらせたソ連のゴルバチョフ書記長を沖縄に招へいして、イデオロギーの違いをどう乗り越えるのかを議論し、基地問題でアメリカ政府に直訴するためワシントンに行く稲嶺知事に志願して同行する。そればかりではない。自民党議員時代は辺野古移設を容認していた彼が、普天間基地の機能の一部を硫黄島に移せないかと画策するのだ。



どちらが本当の翁長氏なのか。


翁長氏はそのときの心境をこう語った。


「自民党も離党し、県連の(幹部としての)使命も終えた。私のバックボーンは市民だと思いました」


自民党の幹部というくびきから解放され、市長という仕事は保守、革新など関係なく市民全体の奉仕者だという思いを抱いたのだと本人は語る。さらに子どものころ「なんで自分が持ってきたわけでもない基地を挟んで、あいつは保守だ、革新だと罵りあうんだ」と感じていた疑問が、その思いのベースにあったという。その通りなのだろう。



しかし同時にあるのは、その時々で自分は誰を代表しているのか、その支持者たちに対して忠実なまでにその役割を果たそうとする職業政治家としての意識ではなかったか。その意味で自民党県連時代の翁長氏も、市長時代の翁長氏も、本人のなかでは一本の軸に貫かれた振る舞いだったのだろう。そうした翁長氏の姿勢はその後、よりはっきりしてくる。


県民のお父さん


当時の鳩山由紀夫首相の「最低でも県外」という発言が、沖縄を揺り動かす。この発言によって、多くの県民と同じように翁長氏もそれまでの「苦渋の選択」から解放される。革新だけでなく、保守の政治家たちも一斉に、辺野古移設反対に回ったのだ。こうした事態はそれまでないことだった。その流れのなかで沖縄に41ある全市町村が「普天間基地の県内移設断念」などを求めた建白書を政府に提出するのだが、安倍総理に代表して手渡したのは他でもない、那覇市長の翁長氏だった。



しかし仲井眞知事は態度をひるがえす。首相官邸で安倍総理らと会談し、多額の振興予算を確保できたとして記者団にこう述べた。


「これはいい正月になるなあというのが、私の実感です」


この言葉について翁長氏は、こう語った。


「沖縄ではですね、いい正月を迎えられるというのはですね、言葉遣いとしては2通りあるんですよ。例えば孫が生まれたとかでいい正月が迎えられる。ところがもうひとつの意味では、他人の犠牲の上に立ったもので自分が何かやったときに、たいへん屈辱的なものの場合にですね、一部の人がいい正月を迎えられるっていうときにも使うんですよ」


翁長氏は怒りというより、失望の色を顔に浮かべていた。


「いい正月という言葉には、お前ひとりだけいい正月を迎えられるとはどういうことなんだよと、そういうのがあるんですよ。これは県民の心のひだですから。これは仲井眞さんが、ご理解いただけなかったかというかまでは言えませんが、いずれにせよ、ああいう発言をしたってこと、そのものが沖縄の人もプライドをひどく傷つけられ、何百年という歴史を振り返っても、いたく心を傷つけられてね」



翁長氏は続けた。


「ある意味、知事というのは県民のお父さんですからね。なんかお父さんに見放されたようにね、そういった部分で(県民は)寂しさを感じたと思いますね」


態度をひるがえした仲井眞氏と、移設反対の立場を続けた翁長氏。仲井眞氏の県知事選で2度、選挙対策委員長を翁長氏がつとめるなど、ふたりの関係は良好だったはずだ。それにもかかわらず、最後の選択でふたりを分けたものは何だったのだろうか。



それはふたりの自己規定の違い、つまり政治家だったかどうかだと、私は思う。


民主党政権から自民党政権に戻ったのだから、もう辺野古移設を止めることはできない。それならば「苦渋の選択」をしていた前の立場に戻るのが現実的だ、たくさんの振興策をもらえるならば、それこそが沖縄のためだ。通産省の官僚から経済界に身を置いた仲井眞氏がそう考えたとしても、何ら不思議ではない。



ところが「沖縄県知事は県民の父親でなければならない」という心境の翁長氏は、県民の心のひだを無視することはできなかった。保守と革新がそろって反対に回ったのだ。県外移設を願った当時の県民たちの熱い思いに背を向けるという選択肢は、彼の中にはなかったのだ。たとえかつての仲間たちである自民党の国会議員と知事が、次々と政府に屈服するかのように態度を変えたとしても。


「オール沖縄」というDNA


翁長氏が反対の立場を崩さなかったのは、そのほうが県知事になれると思ったからだ。そんな冷ややかな声も、自民党県連サイドから聞こえてくる。翁長氏は「私にお鉢が回ってきたんであれば、すべてを投げ打ってがんばっていこうと思った」と私に語ったが、もし知事になれるという打算があったとしても、それがどうしたというのだろう。県民に寄り添うという信念、「政治家は使い捨てられる」という諦念にも似た思い、そして打算も含めて翁長氏は全身政治家だったのだ。県民の中に飛び込んだ翁長氏には、その場所以外に帰るところはなかったのだ。


しかし、と今思う。翁長氏が辺野古移設を本当に阻止できると信じていたかどうかは、私にはわからない。彼がこう言ったのが耳に残っている。「自分は自民党にいたから、その権力と向き合うことがどれだけ難しいか、一番よくわかっている」と。



知事選の最中に行ったインタビューでも、翁長氏はすでにこんな言葉を発していた。


「オール沖縄というのはDNAとしては必ず残りますから。敵対心でやってきた人たちがね、この選挙を通じてご一緒しましたから。これが必ず、DNAとして残っていって、10年後、20年後の政治家がね、それを受けとめてね。また戦後のぼくらとは違う、ドル時代を知らない人たちが仕切る世代になっていきますので、ぼくら上の世代が残した価値観と融合して新しい沖縄を作っていってほしい」



そして今考えると、遺言ともとれる言葉を残していた。知事選に勝ったとき奥さんは何ておっしゃいましたか、という私の質問に翁長氏はこう答えた。


「大変理解をしてくれていて、それこそぼくが政治をやる中で死んでいっても泣かないじゃないかな。要するに政治をやる中で、何かわかんないですが、身体を悪くしても、お父さん、思い通りにやったね、と言ってくれるんじゃないかと」


「本望だと?」と私が言うと、翁長氏は肯いた。「それくらいすべて政治に打ち込んでまいりました」



ここまで書いて、私は自分が心のなかで翁長氏に告げた別れの言葉、その意味に思い至った。


翁長氏はインタビューの最中でも、容赦なかった。


「あなたたち本土の人には理解できないだろうけど」


「あなたたち本土の人は無関心ですよ」


「本土の人は反省してもらいたい」


折りに触れて交わしたやりとりのなかで、こうした言葉を何度、突きつけられただろう。私はそのたび、たじろぎ、言葉を失った。記者として沖縄を取材するなかで、どこか自分は安全な中立の場所に身を置いて話を聞いていると思っていたのだろう。「あなたたち本土の人は」という言葉を初めて面と向かって繰り返し投げかけられたことで、私自身が激しく揺り動かされた。そして自分のなかにある本土性、これまで見て見ぬふりをしてきたものについて見つめないではいられなくなった。それは沖縄を考えるうえで、今も私に緊張感を与え、律し続けているように思う。



2ヶ月ほど前、翁長氏に最後に会ったときにお礼の言葉が浮かんだのは、そうした気持ちからではなかったか。


「ありがとうございました」


その思いは、これからも私の中で消えることはないはずだ。


(参考記事)TBS松原耕二が沖縄で聞いた、世代間で異なる「本音」


松原 耕二(Koji Matsubara)


1960年山口県生まれ 早稲田大学政経学部卒、1984年TBS入社、現在BS-TBS「週刊報道LIFE」キャスター編集長。ドキュメンタリー『フェンス〜分断された島・沖縄』で放送文化基金優秀賞。著書に『反骨〜翁長家三代と沖縄のいま』のほか小説なども執筆。


当記事は沖縄を論考するサイト「オキロン」からの転載記事です。




松原耕二(TBSキャスター)※沖縄を論考するサイト「オキロン」より転載


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