『くるみ割り人形と秘密の王国』は実写版『ファンタジア』? ディズニーらしい想像力が冴え渡る

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2018年12月14日 12:02  リアルサウンド

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 数年前にエル・ファニングが主演を務め、ロシアの巨匠アンドレイ・コンチャロフスキー監督がメガホンをとった実写版『くるみ割り人形』は、超大作として制作されるも興行的にも評価的にも不振に終わり、日本ではDVDスルー。また79年にサンリオが制作した人形アニメ『くるみ割り人形』は、一部では絶大に支持される作品ではあったが、2014年にリマスターと再レコーディングを施し劇場公開されたバージョンは、“カワイイカルチャー”を売りにしたイロモノ感が強く出てしまい、映画ファンから気にも留められない作品となってしまった。


 そのような流れを汲むと『くるみ割り人形』は、どうも映画との相性が悪い物語なのかもしれないと思わずにはいられない。クリスマスの夜にくるみ割り人形をプレゼントされた少女が、ネズミの王に呪いをかけられたというくるみ割り人形に力を貸す。そしてネズミを倒して人間の姿に戻ったくるみ割り人形は、少女を妃として迎え入れる。E.T.A.ホフマンの原作での物語は大まかにいうとそのような流れになっているのだが、それを翻案したアレクサンドル・デュマと、クラシック・バレエの第一人者マリウス・プティパを経た筋書きが、よく知られている“クララ”という少女の物語である。


 おそらく、その“よく知られている”『くるみ割り人形』をイメージしながら、現在公開中のディズニーによる実写版『くるみ割り人形と秘密の王国』を鑑賞すると、何とも言えない違和感に苛まれ、拍子抜けしてしまうことだろう。映画との相性の良し悪しで言えば、またしても後者であると感じるに違いない。しかし大前提として、今回の実写版は『鏡の国のアリス』を主なモチーフにしてファンタジー性とスケール感を生み出した『アリス・イン・ワンダーランド』と同じように、ディズニーらしい想像力が爆発したオリジナルストーリーだと理解しておけば、いくらか合点がいくのではないだろうか。


 たとえばクリスマスの夜にドロッセルマイヤーから“くるみ割り人形”をプレゼントされるのが主人公のクララではなく、その弟のフリッツであるということと、実質的にその“くるみ割り人形”がクララを誘うのではなく、小さな卵型のケースの鍵を得るために秘密の王国に迷い込んでいくということ。また“くるみ割り人形”にされた王子ではなく、“くるみ割り人形”が人間になったフィリップがクララを導くということ。そして何より、クララが迷いこむ先がネズミが支配する国ではなく、“お菓子の国”と“花の国”と“雪の国”、そして“第4の国”と呼称されるようになった“遊びの国”がある世界で、ネズミは単なる登場キャラクターの一端に過ぎないこと。まったく装いを新たにした世界を舞台にし、“遊びの国”を統治するマザー・ジンジャーが調和を乱して世界を支配しようとしていることに立ち向かっていくという、とてもスケールの大きい物語が、この『くるみ割り人形と秘密の王国』なのだ。


 近年『シンデレラ』と『美女と野獣』と、いずれもディズニーアニメーションが下敷きにある人気作が元の世界観に忠実に実写化されることが続いていただけに、過去にディズニーがアニメーション化したことのない物語を、それもこのような形で実写化するというのは少々不思議な感じがしてしまう。しかし物語の序盤、モーガン・フリーマン演じるドロッセルマイヤーの邸宅で、クリスマスプレゼントをもらうために子どもたちやクララが邸宅の中を駆け回るシーンを観ると、あるディズニーアニメーションを想起させられ、その疑問は払拭されることだろう。


 それは1940年に制作された名作中の名作『ファンタジア』。クラシック音楽をもとにした複数のアニメーションで構築されたこの映画は、『白雪姫』と『ピノキオ』に続くディズニーの3作目の長編作品だ。娯楽性の強いアニメーションが生み出すことができる最大限の芸術性と、そして映画の技術革新が進められていく中での音響との向き合い方にひとつの答えを出した本作は、映画としても、そしてアニメーションとしても革新的な一本であったといえよう。


 その中の一編に、まさにチャイコフスキー作曲の「くるみ割り人形」をモチーフにした作品があった。前述のクリスマスプレゼントのシーンでの、ガゼボから伸びる無数の紐は、同作の中で登場する蜘蛛の巣の糸を想起させるものがある。さらにミスティ・コープランドが登場して繰り広げるバレエシーンでのオーケストラのシルエット。これはまさに『ファンタジア』そのものと言ってもいい。それを踏まえると、ひとつの音楽(ないしは物語)をモチーフとして据えて新しい物語を構築する点、またストーリーの合理性よりもビジュアルの美しさに重きを置いて作り込まれている点において、『くるみ割り人形と秘密の王国』が目指したものは、プリンセスストーリーの実写ではなく、“実写版『ファンタジア』”であるということだろう。


 つまりはホフマンの原作、そして有名なバレエ演目それぞれの要素を加味しながら、チャイコフスキーの音楽というひとつの可視化されていない作品を、独自の解釈によって映像化したということでもある。そして、『ファンタジア』がアニメーションという手法の可能性を無限大に広げたのと同様に、本作は旧来のフィルム撮影によって作り出されるビビッドな映像と、現代の映画技術であるVFXを共存させていく。ある意味で、オリジナリティの枯渇と映像の飛躍的な進歩という2つのターニングポイントに置かれている実写映画界の未来を提示しているという見方もできるわけだ。


 もっとも、映像に重きが置かれているだけあって、そのストーリー性に関しては、良く言えばかなりシンプルな(悪く言えば陳腐な)ものになっていることは否めない。それでも、母親の死を受け入れられずにいるクララが、母親が遺したものと出会い、父親との関係を修復させるという基本的なプロットは、いかにもラッセ・ハルストレム作品らしいウェルメイドなものであり、そこに一抹の不快感も生じない。むしろ、異なるテイストの作風を生み出してきたジョー・ジョンストンと共同監督という、90年代の頭で考えると実に豪華な取り合わせが、近年不完全燃焼の続いていたハルストレムの本来の姿を取り戻す火付け役になってくれたのではなかろうか。


 初期の代表作である『やかまし村の子どもたち』を皮切りに、『マイ・ライフ・アズ・ア・ドッグ』や『サイダーハウス・ルール』など少年期・思春期の登場人物の繊細な心情や孤独感を描くことに長けているハルストレム。本作のクララの、未知の世界に戸惑いながら自分自身のアイデンティティを確立していく姿には、ハルストレムの映画に求めるべき人間ドラマが毅然と描写されているといえよう。それは『くるみ割り人形』という物語の持つ普遍的なテーマと、それによる脚色性の豊かさの利点ももちろんあるが、やはりクララを演じたマッケンジー・フォイの存在によるところがかなり大きい。


 序盤の彼女が見せる険しい表情や困り顔、口数少なく感情を押し殺すその姿。そこから徐々に目が輝いていく過程を観るだけで、観客は安心感さえ覚える。彼女の表面に現れている感情は、目が眩むほどの色彩の中でも一寸たりとも怯むことはないのだ。『トワイライト・サーガ/ブレイキング・ドーン Part1』でのスクリーンデビューから『インターステラー』を経て(しかもそれから本作まで実写劇場用映画に一本も出ていないようだ)、子役から一気に成長を遂げたマッケンジーの放つ圧倒的なプリンセス感は、『シンデレラ』のリリー・ジェームズはもちろん、『美女と野獣』のエマ・ワトソンさえも凌駕する途方もないスター性を感じずにはいられないほどだ。(文=久保田和馬)


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