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【小説】「本当に妊娠できるんですよね?」34歳専業主婦が信じた「許されない道」

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2019年01月02日 10:12  弁護士ドットコム

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弁護士ドットコムニュースでは、話題のニュースや、実際にあった相談例をもとに法律解説をお届けしていますが、今回、小説という新たな形式での記事を作りました。様々な裁判例などを参考にしていますが、フィクションですので、実在の人物や団体とは関係ありません。


【関連記事:37歳彼氏「ごめん。オレ、本当は50歳」 年収&年齢を大幅サバ読み、絶対に許さない!】


テーマとしたのは、精子提供者との禁断の関係です。不妊に悩む専業主婦・京子(34)の苦悩と喜び、その先にあるものは何なのか。ぜひご一読ください。筆者は司法試験合格者の加藤渡(ペンネーム)さんです。


*******************************


「この中に、精子が入っています」


男が差し出した注射器は透明なジップロックの袋に包まれていた。軽そうに見えたが、受け取ろうとして伸ばした右手の指先が一瞬固まったのは、生理的嫌悪を感じたからだろう。夫以外の男の性的な物―それも、最も性的な物のひとつ―に触れることへの。この無機質な容器の中には目の前にいる男の…と想像したら、胸の奥で吐き気がした。男が終始無表情を貫いていることがせめてもの救いだと思った。男が人間的な何かを表に出したとしたら、気持ち悪さに耐え兼ねて席を立ってしまっていたかもしれない。話し始めたときには愛想の無い奴だと思ったことを棚に上げて、そんな風に思う。


「帰ったらすぐに注入してください。前にもお伝えしましたが、シリンジ法の成功率は高くありません。その点はご承知おき下さい」


「シリンジ法」


「電話でお話しましたよね。シリンジ法と、タイミング法があるということ」


曖昧に頷いたが記憶はおぼろげだった。でもそれも仕方ない、と弁解するような気持ちが湧く。1週間前、男に電話したときのことを思い出そうとすると、あの夜の混乱が襲ってくる。悲しみ、恐怖、怒り、虚しさ。あの夜、夫に対して抱いた感情は、そのどれでもあってどれでもない。ただ、殴られた頬と壁にぶつけた頭の痛みだけがくっきりとした鮮明さで今も残っている。


 


 


結婚して8年になる夫との間には子どもができなかった。いくつもの病院をまわった結果、夫の側に不妊の原因があるという事実が明らかになったはずだったが、夫はそれを事実として認めようとしなかった。あらゆる面で優秀なエリートで、プライドも高い夫にとって、自分の生殖機能に問題があるという事実は到底受け入れ難いものだったのだろう。夫の気持ちは理解できたが、だからといって子どもを諦めることは絶対にできなかった。不妊治療を受けるよう夫に何度も促した。そのたびに不機嫌になりろくに口もきかなくなる夫に対して、手を変え品を変え、何度も何度も、説得を試みた。そんなことを続けているうちに夫の中にも自分の中にも、何かが少しずつ溜まっていったのだろう。そしてあの夜、決壊した。


「協力してくれないんだったら離婚する」


夫にそう告げた次の瞬間、顔全体に衝撃が走って頭の中と目の前が真っ白になり、体の重心が崩れた。床に手を突いた時に初めて、あぁ私は殴られたのだ、と理解できた。左頬を押さえながら顔を上げると、夫の肩がわなわなと細かく動いているのが見えた。怒りに震えているのかと思ったがそれは間違いだった。夫は、笑っていた。


「離婚?」


 笑いながら、ぞっとするほど冷めた目で、こちらを見下ろしていた。


「できると思ってるのか?俺と別れてお前に何が残る?お前は何を持ってる?」


「何を、って」


「お前なんか何もできないくせしてよくそんなえらそうなことが言えるな?仕事もなくて学歴もなくて親もいなくて。離婚したら路頭に迷うのはお前の方だろう?」


言い返さなかったのは、そんな言葉を投げつけられていることに憤りを感じる前に、その通りだと思ったからだった。この人の言う通りだ。私には何もない。離婚して困るのは私の方だ。


暴力と暴言を受けながら、怒りよりも悲しみよりも自身の無力さを痛感する自分が情けなかった。



離婚なんてできるはずない。でも、子どもは欲しい。だったら、どうすれば。


その後も夫は何かを言い募っていたが、耳に入らなかった。ただ、どうすればよいのだろうという思案がひとりでに回っているようだった。熱を持った皮膚とは対照的に頭の中は妙に冴え冴えとしていた。


そしてその夜、精子提供サイトにアクセスをして、提供者の男とコンタクトをとった。


 


 


「シリンジ法は注射器で精子を注入する方法です。もちろんその方法で妊娠される方もいらっしゃいますが、やはり直接体内に入れるタイミング法に比べたら成功率は格段に下がりますので、そこはご了承ください」


「直接、体内に?」


注射器で入れることを直接と呼ばないのなら、一体何をもって直接というのだろう、と訝ったのも束の間、男の言わんとしていることを理解して呼吸が浅くなった。


「はい、タイミング法では、性交渉を持つことになります」


「それは、私達が…」


「もちろんそういった方法に抵抗感を持たれるのは当然ですし、持つべきだとも思います。ただ、現実の選択肢としてタイミング法というものがあって、そちらの方が成功率が高いという認識はお持ちください」


あくまで事務的な態度を通す男を凝視したが、そこからは何の感情も読み取れなかった。その能面のような顔を見ていたら、わけのわからないもどかしさが湧いてきて、考える前に言葉が口を突いて出た。


「あなたは嫌じゃないわけ。そんな、見ず知らずの相手と」


言ってから心の中で舌打ちする。そんなこと、言う必要も意味もないどころか不適切だ。なぜ口走ってしまったのだろう。自分でも理由はよくわからなかった。


男は驚いたように目を大きく見開いた。その無防備といってもいいくらいの表情に、あぁそういえばこの男は自分より2、3歳年下だったという情報をふと思い出す。


「嫌なんてことはないですよ。僕なんかが、嫌だなんて」


落ち着かない様子で言った男が、唐突に黙り込んだ。男の狼狽が空気中を伝ってきて気づまりな沈黙が流れた。ややあって、気を取り直したように男が再び話し始めた。


「妊娠されなかった場合にはまたご連絡を頂ければ今日と同じように注射器をお渡し致しますので」


機械的な口調を取り戻した男に頷きを返しながら、一瞬だけ剥き出しになった能面の内側が妙に印象深く残っていた。


 


 


帰りの電車の中は空いていて座席の一番端に座ることができ、ほっと息をついた。喫茶店を出たときから、夢の中にいるような、景色の全てが少しずつぼやけているような、そんな感覚がまとわりついていた。途中の駅で小さな子を抱いた若い母親が乗ってきて、向かいの座席の反対の端に腰を下ろした。その途端、座席に膝立ちになって窓の外を眺める子の靴を、母親が慣れた手つきで脱がせる。


気がつけば、その様子をじっと見ていた。今までだったらできなかった。絶対にできなかった。嫉妬にかられて、憎しみすら抱いてしまいそうな自分を目の当たりにするのが嫌で、直視できなかったはずだった。でも、今回は違った。


今、鞄の中に入っている精子で、もしかしたら数年後には私もこの母親のような生活を送っているのかもしれない。待ち望んだ子との幸せな日々を送っているのかもしれない―ただし、その子は夫の子ではないけれど。


母親が視線に気づいたのか顔を上げ、目を合わせてはにかんだように会釈した。咄嗟に目を逸らす。耐えられなかった。その笑顔は眩しすぎた。


私のしていることは、悪なのだろうか。この人が、多くの人が、当たり前に手に入れているものを望むための、唯一の方法は、悪なのだろうか。


そんなことをぐるぐると、霞がかかったような頭で考えながら、電車に揺られていた。


 


 


朝、仕事に出る夫を見送ってからトイレに行って用を足すと、トイレットペーパーに鮮やかな赤色が滲んだ。漏れ出た自分のため息が狭いトイレの中で大きく響き、さらに気が滅入る。妊娠検査薬も陽性ではなかったから覚悟はしていたものの、またか、という思いがこみ上げてくる。


「本当に妊娠できるんですよね」


約束した店に男が入ってくるや否や、疑念をぶつけずにはいられなかった。男が悪いわけではないということはわかっていたが、我慢することができなかった。何度この喫茶店に足を運んだのだろう。何度、罪悪感に苛まれながら注射器を受け取り、注射器を膣に差し込み、夫の機嫌を損ねないよう顔色を窺い、定期的に性交渉を持ち、妊娠検査薬を買い尿をかけ、何度失意に打ちのめされただろう。


「繰り返し言っていますが、シリンジ法はそもそも自然の状態とは離れた方法なので、」


「わかってます!わかってるけど、でも」


目の奥が熱くなって強く瞼を閉じた。行き場を失った涙が目尻で滞っているのがわかった。


「あなたと会った後、家のトイレで注射器を入れる私の気持ちがわかる? 3週間後に妊娠検査薬を買ってトイレで確認する私の気持ちがわかる?」


反論するかと思ったのに、男は何も言わなかった。身じろぎすらせずにこちらを見ているその冷静さに苛立ちが募り、ため息をついた。


「なんか私、あなたの性癖に付き合わされてるみたいに思える」


呟いた瞬間、男が苦しそうに顔を歪めた。刹那的ではあったものの、会話の途中でなかったら体のどこかに激痛が走ったのではないかと思ってしまうくらいの苦悶の表情に、はっと我に返った。


「ごめんなさい。あなたは悪くないのに八つ当たりして…本当にごめんなさい」


疲れ果てていた。もう、疲れた。もう全部、やめたい。そう思った。



夫とは確かに愛し合って結婚したはずだったけれど、もしかしたら私は夫の持っている安定した生活が欲しかっただけなのかもしれない。両親が早くに亡くなってからずっと、普通の幸せに憧れていた。普通の母親になりたかった。父と母と子がいる普通の家庭の一員になりたかった。ただひたすらに、それが欲しかった。それが正解だと思っていた。でも、もう、よくわからなくなっていた。夫を裏切り、誰にも言えない秘密を抱えることに疲れていた。ただ、はっきりとわかるのは、自分があまりにも無力だということだけだった。


テーブルの上に、触れられそうな沈黙が落ちてきた。それを先に破ったのは男の方だった。


「僕の実家って徳島の山奥の、ものすごい田舎の村にあって。いかにもって感じの。周りには田んぼしかなくて、隣の家までも歩いて行ったら10分くらいかかるような」


突然何の話?という思いは顔に出てしまっていただろうが、男は意に介した様子もなく斜め上の吊り照明に目線を合わせて淡々と話し続けた。


「僕の家は、その村に唯一の、助産院でした。助産師の母がひとりでやってる小さな助産院だったので、子供の頃から家の手伝いは色々させられてて。母は、そこに来る女の人達からすごく頼りにされていて。田舎によくいるような、太っていて化粧っ気なんて全然ない、何ていうんですかね、肝っ玉母さん?みたいな。イメージわきます?」


頷いた。話の展開は読めなかったが、不思議なほど引き込まれていた。


「色んな女の人がいました。避妊に失敗した人、育児に追い詰められている人。中には子どもができない、って相談に来る人もいた。悩みの内容はそれぞれ違うのに、僕にはなぜか、皆どこか同じ目をしているように感じました」


「同じ目?」


「何もできない自分が悪いんだって思い込んで、自分を責めている目」


 息をのんだ。自分の思考をトレースされたかと思った。


「僕は、本当は、産婦人科医になりたかったんです。でも、国公立の医学部は落ちてしまって、結局、そういうのとは全く関係ない学部に行きました。普通に就職して働きながらもずっと、どこか引っかかっていて。劣等感や不能感がずっと、澱みたいに残っていた。もちろん僕には、子どもができないって苦しんでいる女の人の気持ちはわかりません。でも、わからないなりに、何かできることがあったらいいなって思ったんです。だから精子提供を始めようと思った。でも、それをすることで、自分が医者になれなかったという劣等感、自分は無力だという不能感を埋めようとしている部分はたぶん、いや絶対あります。だから、あなたがさっき言った、性癖っていう言葉もあながち間違ってはいないのかもしれない。そうなのかもしれない。でも、それでも、誰かが僕の、」


そこで男は言葉を切って、躊躇ったように下を向いて早口で言った。


「僕の精子で、幸せになってくれたらいいなっていう気持ちには、たぶん嘘はないんです。歪んでいるかもしれないけど、偽ってはいないです。自分ではそう思うんです…って、すいませんなんか、長々と自分のこと」


最後の言葉を口にするときだけ恥ずかしそうにちらっと目を合わせ、 またすぐに俯いた男の頬がほんのり赤くなっているのに気付いた瞬間、蛇口の栓を捻ったように押しとどめていた涙が溢れ頬をつたった。ぎょっとした顔をして慌てたようにズボンのポケットに手を突っ込む男に手の平を向け、大丈夫だと示す。


どうしてこんなにも、人は不完全なのだろう。そして、その不完全さという当たり前のことを、なぜ受け入れることができず、もっともっとと望んでしまうのだろう。求めて傷ついて、それでもなお、望まずにはいられない。


そのことを、目の前の男は知っている気がした。この男となら、何かを分け合える気がした。たとえそれが幻想だとしても。


男が堪え切れなかったように咳払いをした。瞼を閉じる。数秒かけて唾を飲み込んでから、男の方を向いて言った。


「タイミング法をとらせてくれませんか」



―7年後―



喫茶店に入ると男は既に席に着き文庫本を読んでいたが、テーブルに近づくと顔を上げ恥ずかしそうに笑った。顔を少し傾けて笑顔を返しながら奥のソファ席に座る。


「ごめんね、待った?」


「ううん。待ってない」


文庫本をしまいながら男がはにかんだように言った。


夫と出会う前、例えば20代前半の頃に仮にこの男と出会っていたとしても、私は絶対に好きになっていなかっただろう。不意に、そんな確信に近い思いを抱いた。その頃の私はきっと見向きもしなかったに違いない。異性として惹かれるのはいつも、自分が持ち得なかった揺るぎない自信に満ち溢れている男達だった。


コーヒーを注文した後、ふと思いついて鞄の中からスマホを取り出し、男の方に向けた。


「見て、翔太の入学式の写真」


「あぁ、先週だったね」


スマホを受け取った男がそれを左手に持ち替えて、右手の親指と人差し指で画面を拡大した。はにかんだ口元はそのままに、目に柔らかい色が差した。じんわりとした温かさが体の中に広がっていくのを感じた。


「その写真の翔太ね、あなたにすごく似てると思う」


「どうだろうな。似てるかな?」


「思わない?」


「自分に似てるかどうかって難しくないかな」


「そう?」


「でも、純粋に嬉しいよ。まぁあまりにもそっくりだったら困ったことになるからあれだけど」


そう言って遠慮がちな笑みを浮かべる男を見ていたら胸の端がチリチリと痛んだ。


「翔太に、会いたいって思う?」


「えっ」


「ずっと考えてたの。あなたは本当は翔太に会いたがってるんじゃないかって。でも私に遠慮してそれを口に出さずにいるだけじゃないかって」


言いながら、自分の言葉が孕む傲慢さを自覚する。それでも、ここで引き下がってはいけない気がした。男は少しの間考えて、それから静かに言った。


「でも僕は、京子さんの幸せな生活を壊したくないし、その可能性が高くなるようなこともしたくない」


思わず唇の内側を噛む。男がそう言うだろうということはわかっていたはずだったのに。自分は傲慢なだけでなく狡いのだ。


「幸せって、」


「幸せって?」


無意識に口の端から零れ落ちた言葉は、男が繰り返した時に初めて自分の発言として認識した。私は何を言おうとしたんだろう。一瞬、やっぱり何でもない気にしないでと流そうかという考えが浮かんだが、いや向き合わなければならないと自分を叱咤する。


「ううん。幸せって、何なのかなって思って」


首を傾げて続きを促す男に軽く頷いて言葉を紡いだ。


「私は、今、確かに幸せを感じてるの。自分は幸せだって思う。でも、夫との関係は冷え切っていて、翔太は夫の子じゃない。夫はそれを知らないけど私は知っている。そんな私は傍から見たら、幸せなのか不幸せなのか、どっちなんだろうって。正しくないってことは、わかってるんだけど」


「僕が言うことじゃないかもしれないけど…たとえ京子さんの、僕らのしたことが…していることが正しくなかったとしても、間違っているとしても、少なくとも、一番苦しんで、一番悩んだのは、他の誰でもない、京子さんだから」


ひとつひとつの言葉を区切るようにしてゆっくりと話す男の声を聞いていたら喉の奥がひりついた。その痛みにも似た感覚は、徐々にこめかみ辺りまで上がってきた。


「別れようかな」


何かが降りてきたように頭に浮かんだその考えを口にしたら、もうそれ以外の選択は考えられないような気がした。


「私、ずっと、離婚なんてできないと思ってた。私には何にもないから自分ひとりでは生きていけないと思っていたし、普通の家庭生活を壊すことが怖かった。でも、今は違う。たぶん、違うと思うの。あなたに会って、正しいとか間違っているとか幸せとか不幸せとかっていう枠組みを超えたものが、わからないけど何かそういうものが、あるのかもしれないって思えるようになったの。それを教えてくれたあなたと生きていきたいと思う。翔太の父親であるあなたと、生きていきたい」


長い間、男は黙ったまま何も言わなかった。時折なされる瞬きだけが、男が意識を保っていることを辛うじて示していた。そして、もうこの話はなかったことにした方がよいのではと思い始めた頃に男が口を開いた。


「結婚することになったんだ」


「結婚?」


「今日報告しようと思って来た。まさか京子さんがそんなことを言うなんて思ってもみなかったから」


信じられないという口調でたどたどしく言う男に対して、それ以上言葉を連ねることはできなかった。裏切られた、という気持ちを抱けば抱くほどそれが自分に跳ね返ってくるということくらいはわかっていた。男がしたことが仮に裏切りなのだとしたら、自分がし続けてきたこともそうであるはずだった。でも、男と過ごした時間をそんな風に評価したくはなかった。だから、全身全霊の力を振り絞って涙を堪え、口角を上げた。


「おめでとう。あなたが私に教えてくれたこと、ずっと忘れない」


 


 


そこからどうやって帰ったか、記憶はないのに気がついたら家の前に立っていた。玄関の手前の階段を上がるときにバランスを崩して少しよろめいた。おろしたての靴のヒールの先がつぶれていた。鍵穴に差し込もうとした鍵が指先から滑り落ちコンクリートの床にぶつかって高く鈍い音を立てた。身を屈めて拾おうとした瞬間、靴の中で長時間圧迫されていた爪先に痛みを覚えた。震える指で何とか鍵を拾い上げ、体ごともたれかかるようにしてドアを開けて家の中に入ると、仕事中のはずの夫が帰宅していることに気づいた。


「どうしたの?」


リビングのソファに座った夫はほんのわずかに息をついただけで、それがなければ自分を認識していないのではと思えるほどだった。ぴくりとも動かず、まるで目の前に置かれた夫にしか見えないモニターを凝視しているかのように、宙の一点を静かに、とても静かに見つめていた。レースカーテンを越えて差し込んでくる春のやわらかい光を一身に受けた夫は、知らない人のように見えた。


「どうしたの」


不穏さを察知して近づくと、夫の視線が微かにダイニングテーブルに移った。つられてそちらを見た刹那、背筋が凍り付いた。


テーブルの上には探偵社の名が印字されたA4サイズの茶封筒が置かれていた。分厚く膨らんだその封筒の中身は、開けてみなくてもわかった。


「荷物をまとめて出ていけ」


帰ってくるまでに何度も何度も練習したのではないかと思わせる、その言葉を発するためだけに開かれたような唇で夫は言い、ゆっくりと部屋を去っていった。


リビングにとり残され、途方に暮れた。動けなかった。これからどうなるのか。何もかもわからなかったが、ただひとつ、ひとりきりで生きていくのだという決意にも似た認識だけが鮮烈さを持って存在していた。(終)



<あとがき>


この話は、いくつかの法律問題を孕んでいます。主人公は不貞行為を行っているので、これが不法行為に当たり、かつ、離婚事由に当たることは言うまでもありませんが、仮にシリンジ法でのみ精子提供がなされていた場合は離婚事由に当たるのかといった問題や、嫡出否認や親子関係不存在確認が認められるのかという問題があります。


これらの問題に対処しようとするとき、事実を法律に当てはめ、社会通念に照らすことは必要不可欠です。けれど、当事者に多数派の価値観を押し付けることは絶対にしてはいけない―特に、多くの人に情報を発信する立場のメディアは、それを絶対にしてはいけない―という思いを籠めて書かせて頂きました。


主人公の行ったことは、その事実を見れば、単に違法であるだけでなく非常に悪質だと評価することができます。けれど、そこには彼女の事情と感情がありました。


正しさや幸せは人それぞれのものであって決めつけることはできないはずなのに、社会には正しい「正しさ」が存在し、それに息苦しさを感じている人が少なからずいるように思います。その「正しさ」との乖離に悩む人がいなくなるような社会にしていきたいと願っています。


(弁護士ドットコムニュース)


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