『蜘蛛の巣を払う女』にみる、『ミレニアム』映画シリーズの真価

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2019年01月22日 12:02  リアルサウンド

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 アメリカで制作された『ミレニアム』映画シリーズ第2作にして、監督、出演者ともに刷新された『蜘蛛の巣を払う女』。原作に思い入れのあるファンも多く、また前作で主演を務めたルーニー・マーラが注目を浴びるなど、話題となっていたシリーズだけに、今回の出来栄えについては、観客の側で様々な反応を生んでいるようだ。


参考:シルヴィア・フークスがクレア・フォイとの共演語る 『蜘蛛の巣を払う女』特別映像


 果たして本作『蜘蛛の巣を払う女』はどうだったのか? 作品の背景や、本作ならではの特徴を分析しながら、『ミレニアム』映画シリーズ全体についても考えていきたい。


 ベストセラーとなったミステリー小説シリーズ『ミレニアム』の第1部を映画化した『ドラゴン・タトゥーの女』(2011年)は、同じようにベストセラーになったミステリー小説を原作とした映画『ダ・ヴィンチ・コード』(2006年)の世界的な大ヒットという成功例があるので、制作側の期待が集まっていたはずである。監督にデヴィッド・フィンチャー、主演の一人に、他方でジェームズ・ボンドを現役で演じているダニエル・クレイグを迎えるなど、力の入れ具合が伝わってくる企画だった。しかし興行収入は思ったほどには伸びず、作られるはずの続編企画は一時頓挫することになった。


 『ドラゴン・タトゥーの女』は、フィンチャー監督らしい尖った映像と、皮肉のきいた演出が見どころだが、原作小説自体は基本的には娯楽的なミステリーとしてクラシカルな楽しみ方を想定している部分があったため、ここでのフィンチャー演出は過剰でアンバランスなものになった印象がある。フィンチャー監督は、その後の作品『ゴーン・ガール』 (2014年) ではその問題を修正し、より抑えた制作費でヒットを達成している。


 とはいえ、『ドラゴン・タトゥーの女』には、いままでにない新しい試みも存在し、多くの観客の心をつかんだ部分もある。最も支持されたのは、ルーニー・マーラが演じた“リスベット・サランデル”というキャラクターの新鮮さだ。ゴシック・パンク風の、黒いレザー・スーツに奇抜なモヒカンヘア、顔にいくつも刺さったピアス、そして背中に彫られたドラゴン・タトゥーなど、我が道を行くファッションが特徴で、その優秀な頭脳とハッカーとしての能力、父親に虐待を受けたという自身のトラウマ(精神的外傷)によって、女性を虐げる男性に凄まじい制裁を加えていくシーンのインパクトは凄まじかった。またルーニー・マーラのはかなげに見える顔のつくりとのギャップによって、さらに危うい魅力が高められてもいた。


 人気の高いリスベットの物語を再度映画化するために、予算を推定で約半分ほどに削って、キャストを一新し、監督を『ドント・ブリーズ』(2016年)で注目を集めた新鋭・フェデ・アルバレス監督に託すことで、より地に足の着いた映画企画として刷新されたのが、本作『蜘蛛の巣を払う女』である。原作でいうと、第2作、第3作を飛び越えた、第4作目の映画化だ。この原作は、オリジナルの原作者の急死にともなって交代された、新しい原作者による続編でもある。


 ここで活かされるのは、犯罪組織との敵対関係を描くことで生まれる、アクション作品としての魅力だ。この新しいテイストが支持されれば、さらなる続編はもちろん、『007』シリーズのように、今後は映画独自の展開も可能となってくる。よって、『ドラゴン・タトゥーの女』同様、最終的な興行の結果によって、その後の制作が検討されることになるだろう。


 新しくリスベットを演じるのはクレア・フォイ。衣装は幾分おとなしくなり、背中のドラゴン・タトゥーも地味に感じられる。フォイ自身も柔和な印象で、エキセントリックな演技も今回はそれほど見られないため、事前に『ドラゴン・タトゥーの女』を見ている観客にとって、衝撃も鮮烈さも薄いことは確かだ。しかし、そのぶん多くの観客にとって感情移入がしやすくなり、アクション場面も撮影しやすくなっている。また、本作ではセーフハウスでのリスベットのプライベートな様子や、逃亡生活が描写されるため、奇抜な格好をさせると緊迫感が削がれてしまうという事情もあったのだろう。


 そのインパクトを補完しようとするように、本作で初めて登場するのが、リスベットと16年前に別れた双子の姉妹、カミラ(シルヴィア・フークス)である。本作の冒頭で幻想的に表現されていたように、少女時代のリスベットは犯罪組織のトップだった父親から逃れ、カミラは父親のもとに残った。そして父親の死後はカミラが犯罪組織を受け継ぐことになる。


 16年後に再会した二人は、世界中の核兵器発射を制御するシステムに侵入することができるという危険なコンピューター・プログラムを奪い合い、まるでチェスで一手一手を進めていくように、互いの戦力や能力を最大限に使いながら、熾烈な頭脳戦を繰り広げていく。


 スケールが大きく深刻な話だが、二人の確執というのはとどのつまり、田舎の家を出て都会に旅立った者と、家業を継いで実家に暮らしている者とのいがみ合いという、わりと身近によくある構図だともいえる。本作ではこの二人をそれぞれのイメージカラーである、黒と赤の色で対比させ、真っ白い一面の雪景色のなかに配置させる。この対照的な二つの存在を象徴的に美しく描くことが、本作のねらいであろう。


 とはいえ、じつは二人は根本的なところでよく似ている。それは、いまだに父親の影響から逃れられていないという点である。犯罪組織を受け継いで、物理的な意味でも父親の存在を内面化しているカミラはもとより、リスベットもまた、夜な夜な父親のような男に制裁を与え続け、父親を否定し続けなければいられない存在になってしまっているのだ。それほど彼女たちは、巨大な負の亡霊に支配されている。


 もともとの原作者スティーグ・ラーソンの親友は、『ミレニアム』シリーズには、ラーソンが15歳の頃に体験した痛ましい事件が小説に反映していると述べている。それは、ある女性が男の集団に襲われているのを目撃しながら、その場から逃げてしまったという出来事だという。そのときの罪悪感が「リスベット」を作り上げたのだと。


 これを信じるなら、リスベットという存在は、原作者のトラウマそのものであり、その鏡像となっているカミラもまた、トラウマそのものである。ということは、『ミレニアム』というシリーズは、彼女たちが自身の傷と折り合いをつけ、その痛みから救われるための作品だといえよう。それを書いたとき、『ミレニアム』という小説は終結を迎えるのだろう。そして映画もまた、それを描くまでは続ける必要があるのではないだろうか。映画作品としての最終作が撮られるとするなら、そのときに本作の真価が、違う意味を持って立ち上がってくるかもしれない。(小野寺系)


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