なぜギャルは内臓料理にハマったのか?【ファッションフードの平成史】

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2019年01月29日 11:00  citrus

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バブル経済の頂点は1990年だった。その年から株価、不動産価格ともに下降傾向に転じ、91年、ついに崩壊がはじまった。「失われた20年」が足音を立てて近づいていた。

 

だれもが不況を感じはじめていた92年、突如として起こり、「ポストバブルの主役」「東京ディナーの新定番」などと世間を騒がせまくって、93年夏には終わった瞬発的なもつ鍋ブームは、バブルの生んだ最後の徒花だった。

 

 

■日本人は飽きっぽい

 

規模の大きさも、その後の影響力からいっても、ティラミスブームとは比べようもないが、個人的にはもつ鍋ブームの方が圧倒的なインパクトを感じた。

 

というのも当時、私は毎日のように夜食を求めて深夜の渋谷をほっつき歩いていたのだが、行く先々に新しいもつ鍋屋が出現していたのだ。「もつ鍋あります」と染め抜いた幟がヒラヒラはためいていた光景はいまも忘れない。なかでも公園通り付近は「渋谷もつ鍋ストリート」と呼ばれ、幟が林立していた。

 


渋谷公園通り

ちょっと前まで一軒もなかったもつ鍋屋が急に増え、幟が街の景観を支配したと思ったら、あっという間に消えた。あまりに刹那的な流行と、日本人の飽きっぽさに驚き呆れた。そして、幟の文言から、『ファッションフード、あります。』というタイトルを思いついたのだった。

 

 

■ボディコンギャルが店に殺到

 

戦後、タダ同然で手に入る内臓の煮込みは全国のヤミ市で作られ、日本各地でソウルフードとして定着した。ブームになったもつ鍋は、博多が発祥地。牛もつの上にニラとキャベツを山盛りにし、ニンニクと唐辛子を大量投入した醤油ベースのスープで煮ながら食べる。〆はチャンポン麺が定番。

 

このスタイルは博多でも新しかった。しかし、バブル全盛期の2、3年間で福岡市内に専門店が100軒以上できるほど人気を呼び、まず関西、そして東京に飛び火した。もつ、といえば屋台や居酒屋でホッピー片手に食べられる、安くて旨い労働者の味方、のはずだった。

 

ところが新手のもつ鍋屋には、男性客以上に、若いOL(いまじゃ死語に近いけど)とボディコンギャルが詰めかけた。これがブームの最大要因だ。OLと男性上司のジェネレーションギャップが埋められるもつ鍋は、会社の宴会用に重宝されたこともひとつ。

 

 

■店員のエプロンはイッセイ・ミヤケ

 

東京のもつ鍋屋は、もつの泥臭いイメージからかけ離れたおしゃれ感をウリにした。東京最初の専門店で、ブームの仕掛け役となった銀座の「もつ鍋元気」。店内のインテリアは、ニラと唐辛子をイメージした緑と赤のツートンカラーだった。

 


六本木に移転後の「もつ鍋元気」。すでに閉店

黒テーブルの上には煙の出ない特製電磁コンロがずらりと並び、BGMはジャズ。店員はそろいのポロシャツにイッセイ・ミヤケのエプロン、トイレには使い捨ての歯ブラシが常備されていた。アメニティ・グッズを置いた飲食店のはしりだ。「もつ鍋元気」は開店当初から女性客をターゲットに据え、モツのヘルシーさを解説した冊子を入口に山積みにした。狙いは当たって、バブル時代をフレンチ、カフェバー、エスニック、イタ飯……と渡り歩いた若い女性たちが、新しいファッションフードとして飛びついた。

 

追随する店が次々できたのが92年。六本木だけでも10軒以上がオープンし、すし屋や美容院、イタ飯屋から急ごしらえで模様替えしたため、内装に名残をとどめる店も少なくなかった。渋谷もつ鍋ストリートは、どの店も「もつギャル」が長蛇の列を作った。「もつ鍋元気」は11月中旬に年末までの予約が埋まり、それでも1日300件以上の予約電話が鳴り続けるという伝説の繁盛ぶりを見せた。

 

 

■儲かったのは「幟の製造業者だけ」か

 

あっというまに、ブームは家庭料理にも波及した。そのまま火にかけられるアルミ鍋入りやレトルトパックのもつ鍋がスーパやコンビニに並び、飛ぶように売れた。

 

あまりの人気で、すぐに材料が足りなくなった。もつは鮮度が命なのに輸入の冷凍品が出回ったり、ニラの値段が6倍に高騰したりした。

 

92年のもつ輸入量は、前年度比で83%増である。ところが、93年の春を迎えた頃、ピタリと客足が止まり、夏になると、あれほどもてはやしたメディアが「もつ鍋もこれまで」と冷や水を浴びせかけたのである。秋には、ほとんどの店が他業態に鞍替えするか、閉店していた。

 

まったく、あの狂騒はなんだったんだと思う。結局、儲かったのは幟の製造業者だけだったような気もする。実際、バブル崩壊まで「捨て看(幟などの簡易看板のこと)業を2年やればビルが建つ」ほどの活況だったそうだ。

 

 

■バブル最後の、最高にバブリーな出来事

 

当時、もつ鍋のブームは、不況にマッチした「安い・旨い」感が理由といわれた。しかし、お腹いっぱい食べてビールを2、3杯飲めば5000円で少しお釣りが来るぐらいの勘定は、けっして安くなかった。また、材料も味も適当な“便乗もつ鍋屋”が増え、もつ鍋全体の質が下がってしまった。結果、鍋料理の閑散期である春夏を越せず、移り気な客たちに見捨てられた。

 

哀れなもつ鍋だったが、「ゲテもの」に対するハードルを一気に下げ、内臓料理をファッションフードの一画に加えたことは大きい。しかも、低脂肪・高タンパク・低カロリーのヘルシーフードという付加価値つきだ。その後、トリッパ(牛の胃袋)やジビエ(野生鳥獣類)、以前は格下だった内臓肉のハラミが女性客の人気メニューに加わった。

 

外食のデフレ化が続く今日では、ホルモン系の店は昭和時代に先祖返りして、大衆食のレトロ感をウリにしているように見える。

 

90年代前半は、女の子がおしゃれをしてもつを食べに行けるぐらい、まだまだみんな明るい雰囲気だったのである。バブル崩壊後の、最高にバブリーな出来事であった。

 

【関連書籍】

『ファッションフード、あります。』(筑摩書房)


 

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