ホーム > mixiニュース > コラム > 震災を経験した子どもたちの今

被災した子どもたちの今 故郷の復興に向けて街づくりに尽力

40

2019年03月11日 11:30  AERA dot.

  • チェックする
  • つぶやく
  • 日記を書く

AERA dot.

写真【宮城県石巻市】阿部 任さん(24)/仙台の高校に通っていたが、試験休みで実家に戻っていた際に被災。背後のドームが職場でもある石ノ森萬画館。一緒に助けられた祖母は88歳になったいまも石巻で元気に暮らす(撮影/写真部・松永卓也)
【宮城県石巻市】阿部 任さん(24)/仙台の高校に通っていたが、試験休みで実家に戻っていた際に被災。背後のドームが職場でもある石ノ森萬画館。一緒に助けられた祖母は88歳になったいまも石巻で元気に暮らす(撮影/写真部・松永卓也)
 東日本大震災の発生から、ちょうど8年。多感な子ども時代に震災を経験した子どもたちは、被災体験を胸に成長し、いま社会のために動き出している。

【阿部さんと祖母の救助を伝える新聞記事はこちら】

*  *  *
 2011年3月20日、夕方。東日本大震災の発生から217時間が過ぎたころ、宮城県石巻市でひとりの少年が救助された。阿部任(じん)さん、当時16歳。津波で流され全壊した家屋のなかで、祖母とふたり9日間を耐え抜いた。人命救助の分岐点とされる発災72時間を大きく過ぎての救出劇。「奇跡の生還」に全国が沸いた。

 一方、阿部さんは戸惑っていた。祖母が先に助け出され、自身の救助を待つ間にも人が集まってくる。

「ずっとがれきに閉じ込められていて、あんな大災害だったことすら知らなかった。なぜ注目されるんだと困惑しました」

 病院に搬送される姿をとらえようとマスコミが殺到し、入院先の病室にまで報道陣がやってきた。注目を浴びるのも特別扱いされるのもいやだった。救ってくれたのは高校の友人たち。再開した学校に登校すると、さっそく友人に「怒られた」。

「お前のことを取材陣に聞かれて答えていたら、配給物資をもらい損ねた」

 特別扱いするのではなく、なかったことにするのでもない。自然にいじってくれたことがなによりうれしかった。

 高校卒業後は山形の芸術系大学に進学。高校時代シャットアウトしていた取材を時折受けるようになったが、それ以外で震災を思い出す機会は少なかった。石巻に戻ることも考えていなかった。転機は就職活動。自分のこれまでを振り返ると、震災の経験が頭から離れなくなった。

「本当に偶然だけど、あれだけ大きな経験をした。一度石巻に帰って、あの経験を改めて見つめなおしたいと思ったんです」

 17年春、震災前から石巻の市街地活性化に取り組んでいたタウンマネジメント会社「街づくりまんぼう」に就職した。石ノ森章太郎の世界を体験できる施設「石ノ森萬画館」の運営など、ユニークな取り組みで知られる。萬画館には、小学生のころ毎週のように遊びに来ていた。

「ここなら、できることがあるんじゃないか」

 今はグッズショップを担当。レジに立ちながら新商品の企画にも携わる。石巻に人を呼べるような企画を考えたいという。

 そして、語り部活動も始めた。県外から来る大学生や、小・中学生など若い世代を相手に被災経験を話す。聞き手のなかには震災の記憶がない人もいる。伝えるって難しい。そう痛感するが、日々模索しながら活動を続けている。伝えたいのは、ポジティブに生きること。

「震災の悲惨さや防災なら、詳しい人がたくさんいます。だから僕は、被災しても明るく生きていることを伝えたいんです」

 石巻に戻ってきて、街のために働くたくさんの人に出会った。

「今まで知る機会もなかったけれど、これだけの人が石巻のことを考えている。すごいことだと思います」

 自分もそのひとりとして、街の活性化のために力を尽くす。

 阿部さんのように10代で震災を経験した若者は、岩手・宮城・福島の3県だけで約56万7千人(10年の住民基本台帳人口要覧から)。8年が経ち、その多くが成人を迎えた。避難生活でやむを得ず、あるいは就職や進学で街を離れた者も多い。一方で、あの日の被災体験を胸に故郷の復興に奔走する若者たちがいる。震災後の街づくりを担うのは、若い世代だ。

 毎年5月5日になると、宮城県東松島市の大曲浜にたくさんの青い鯉のぼりがはためく。鯉のぼりの下では勇壮な太鼓の演奏があり、出店も並んで活気にあふれる。いまや東松島を代表する行事になったこの催しは、11年から毎年続く。

 震災当時高校2年生だった伊藤健人さんが、遺体安置所で5歳の弟・律(りつ)君を見つけたのは発災3〜4日後のこと。眠っているかのようなきれいな顔だった。ひと回り年の離れた弟で、憎たらしいと感じたこともないくらいかわいがっていた。

「亡きがらをみても現実とは思えなかった。隣で父ともうひとりの弟が泣いているのを見て、ようやく本当なんだと理解しました」

 それから少しして、伊藤さんは全壊した自宅から鯉のぼりを見つけた。律君は青い鯉のぼりが大好きだった。こどもの日が近づくと、鯉のぼりを飾るのが家族の恒例行事。

「黒がお父さん、赤がお母さん、青が僕」

 律君はそう言って、青い鯉のぼりを嬉しそうに指さしていた。伊藤さんは泥だらけになった鯉のぼりを洗い、自宅前に飾った。

「天国の律が寂しくないように。そして自分が前へ進むための道しるべとして」

 そんな願いを込めた。

 伊藤さんは震災で、律君のほか母と祖父母を亡くしている。律君と再会し、鯉のぼりを掲げたあとも3人は見つからなかった。そんなつらい状況でも、日々は目まぐるしく過ぎていく。3月も終わろうとするころ、律君に火葬の番がきた。

「律の顔が腐敗して、茶色く膨れていくのを見るのが忍びなかった。ようやく安心できました」

 母と祖父母はまだ行方不明だったが、律君を火葬したことで少し心に余裕ができた。奇しくもその夜、避難先には被災後初めて電気が通った。伊藤さんは、憧れていたプロの和太鼓集団にメールを送った。

「復興コンサートを開いて、自分と一緒に太鼓を打ってほしい」

 伊藤さん自身、何年も太鼓を習っていた。一緒に演奏できたらきっと律君に聞こえるし、自分にとっても力になる。返事をくれた音楽プロデューサーの千葉秀さんと会い、思いを伝えた。千葉さんは快諾し、青い鯉のぼりを空に掲げてその下で演奏することを提案してくれた。律君や、震災で亡くなった子どもたちみんなに鎮魂の思いを届ける。心に湧き上がるものがあった。

 伊藤さんと千葉さんを共同代表に「青い鯉のぼりプロジェクト」が発足。全国から青い鯉のぼりを募った。多くの人が目を留め、共感した。集まったのは二百数十匹。5月5日、伊藤さんの自宅前に掲げ、思い切り太鼓を打った。そのころには母と祖父母の遺体も見つかっていた。

「家族で過ごした時間を思い出した。希望も感じました」

 それから8年。復興工事に伴い、開催場所を移したが、プロジェクトは今も続く。途中息切れすることもあった。進学で東松島を離れ、取り組んでいたバンド活動も多忙に。それでも、代表として自分が引っ張らなくてはと余裕がなくなった。メンバーの声に助けられた。

「“みんな同じ思いを持っている同一線上のひとりだよ”と言ってくれた。楽になりました」

 自分も青い鯉のぼりから力をもらった。そんな原点を思い出した。

 鯉のぼりは年々増え、去年はおよそ1800匹に。大曲浜の人が多く住む集団移転地でも全戸に配った。ほとんどの家が軒先に飾ってくれる。当初は大曲浜に近づくのがつらいと言っていた人もイベントを手伝う。今年も鯉のぼりを空に掲げ、天国まで聞こえるように太鼓を打つ。

 伊藤さんはいま、東松島市の市職員としても働く。復興に向けて急ピッチで街の姿が変わるなかで、街をつくる側にいたいと考えたからだ。今は税務課で土地の評価などを担当する。法律でルールが決められているが、ルールの狭間で苦しむ人もいる。

「市民の方々の思いをくみ取りながら、街づくりを通して自分も未来に進んでいきたいです」

(編集部・川口穣)

※AERA 2019年3月11日号より抜粋

このニュースに関するつぶやき

  • 阿部さんの件はよく覚えてる。自分が先に外に出れたのに救助隊に「ばあちゃんが中にいるから先に助けて」って。おばあさまも元気でいらっしゃるのね(T-T)
    • イイネ!1
    • コメント 0件
  • 18歳の時に福島で被災。死ぬかと思ったけどなんとか生きてた。そして家庭を持った今、毎年この日の特集を必ず見て備えを見直すようにしてる
    • イイネ!20
    • コメント 0件

つぶやき一覧へ(16件)

あなたにおすすめ

前日のランキングへ

ニュース設定