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“オワコン”間近のテレビが生き残る方法は「美味しいラーメン屋さんになること」

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2019年03月15日 08:00  週刊女性PRIME

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週刊女性PRIME

写真視聴率三冠王など、しのぎを削ってきた日テレとフジにも明暗が
視聴率三冠王など、しのぎを削ってきた日テレとフジにも明暗が

「平成が幕を開けた当初、テレビは流行の発信装置として機能していました」

 そう語るのは、フジテレビでディレクターなどを務め、現在は筑紫女学園大学で教鞭をとる教授の吉野嘉高さん。

夢をみるものから、現実を共感できるものへ

 トレンディードラマの流れをくむ『東京ラブストーリー』(1991年)をはじめとした平成初期のドラマ群は、数々の流行やヒットソングを生み出し、視聴率が25%を超えることも珍しくなかった。バラエティー番組も同様で、『マジカル頭脳パワー!!』('90年)をはじめ、20%以上の視聴率を叩き出す番組が乱立していた。

 '89年から'93年までは、フジテレビが視聴率のうえでも圧倒的な力を見せつけ、まさに「楽しくなければテレビじゃない」というスローガンと、視聴者の求めるテレビ番組が合致していた時代だった。

 ところが、'86年から続いたバブル経済が'91年から崩壊。さらに、'95年には阪神・淡路大震災、地下鉄サリン事件が相次いで発生したことから、社会不安が日本中を覆うようになると、風向きは変わった。日本テレビの元ディレクターで佛教大学教授の大場吾郎さんは、

「社会の雰囲気が変化するなかで、楽しく明るいだけの番組に視聴者が共感しづらくなった」

 と指摘する。

 そんなフジテレビから王座を奪い、'94年から2003年まで10年連続で年間平均視聴率1位に君臨したのは、日テレだった。

「なかでも『進め!電波少年』内で'96年から始まった猿岩石のヒッチハイク企画は、テレビ史に残る象徴的な出来事」

 とは、前出の吉野さん。

「それまでは、たけしさんやさんまさんといったスターがテレビをつくるものでしたが、日テレはテレビがスターをつくり出すという画期的な企画を始めました。当時、無名に近い猿岩石が悪戦苦闘する姿に共感が広がった。人間性がさらけ出されたリアリティーで笑わせる時代になったということです」(吉野さん)

 夢を見るものから、現実を共感できるものへ──。視聴者のニーズが変われば、番組づくりもおのずと変わる。日本テレビでは'92年から合理的かつ現実的な番組制作を目指し、1分1秒の視聴率の動き、CMに入るタイミングを研究していたという。

「当時の日テレは、データを重視して、独自のロジックをつくり出そうとしていました。視聴者の行動や生理を細かく分析して、それを番組づくりに生かす取り組みがなされていました。実は、それまでテレビがあまりやっていなかったことだったんです」(大場さん)

 '96年には『発掘!あるある大事典』、'97年には『伊東家の食卓』がスタート。この時期から情報バラエティーと呼ばれるジャンルが増え始め人気を集めるようになり、リアリティー重視、視聴者のマーケティングを意識した番組づくりの傾向は、一定の効果が見られるように。

 そんな中、フジテレビは'97年に本社をお台場へ移転。同年に始まった『踊る大捜査線』の大ヒットもあり、視聴率こそ日テレに後れを取るものの、民放1位の売り上げを誇り続けた。しかし、「フジテレビは、この時代に強烈な成功体験に引きずられて失速したのでは」と、吉野さんは指摘する。

「移転前の河田町時代は、編成、制作、報道などが同じフロアにあり、丁々発止、自由闊達な雰囲気でした。まるで毎日がお祭りです(笑)。だからこそ、フジテレビらしさがあった。ところが移転後は、各部署は分化され、エリート意識だけが強くなった印象です」(吉野さん)

 営業収入がいいことに加え、『あいのり』('99年)、『トリビアの泉』('02年)などのヒットもあったことが、結果として慢心につながったのではないかと推測する。

 '08年のリーマン・ショックがテレビに与えた影響は大きかった。各局とも広告収入が急減、制作費を含めて番組づくりを見直す契機となった。

ネットとの融和性を重視するように

「広告以外の収入を意識するようになり、テレビ番組をコンテンツとして活用していく時代に切り替わりました。放送してただ終わりではなく、映画化やDVD化などを意識して番組をつくる。一方、番組は特別な存在ではなく、数あるコンテンツのひとつに組み込まれていくようになりました」(大場さん)

「冒険的な番組よりも手堅い番組が増えた。豪快にバットをスイングするのではなく、とにかく出塁するというようなテレビづくりが一般的になった。裏を返せば、当たり障りのない番組が増えていったともいえます」(吉野さん)

 そして'11年、決定的な出来事が起こる。東日本大震災によって、SNSをはじめとしたインターネットの即時性や有効性が大々的にフィーチャーされたのだ。

「いよいよネットを無視することができなくなりました。メディアとしての王座の地位は低下し、いかにネットと融和性の高いコンテンツをつくるかを重視するように。

 また、ツイッターの書き込みが番組上で紹介されたり、ユーチューブの動画を転用する番組が増え始めました」(大場さん)

「『逃げるは恥だが役に立つ』('16年)は最たる例ですが、ドラマもツイッター上の口コミを意識してつくられるように。テレビとネットの主従関係が逆転しました」(吉野さん)

テレビに未来はあるのか?

 事実、このころになると図表が示すとおり、若者を中心にテレビの視聴時間は激減している。60代以上の1日平均4時間に対して、10代〜20代はいずれも2時間未満。“お茶の間”という言葉は死語と化し、かわりに“テレビ離れ”という言葉が台頭した。

 テレビ離れに拍車をかけたのがスマートフォンだ。総務省の通信利用動向調査では、'10年に9・7%の保有率だったが、わずか10年足らずで75・1%('17年)にまで急伸している。

「誰でも撮影、録音できることで、パワハラやモラハラは可視化された。その結果、刑事事件とまではいえないモラルの問題がテレビで扱われることが増えてきました」(吉野さん)

 “コンプライアンス”という言葉が注目を集めるようになり、テレビ局は自主規制を意識しながら番組制作をする時代に突入する。平成のはじめ、流行の発信装置だったテレビは、約30年で役目を終えたことを指す“オワコン”と揶揄されるまでに激変してしまったのだ……。

 はたして、テレビに未来はあるのか?

「ハズキルーペが大きな話題になったように、早く広く伝わるテレビの広告媒体としての力は、まだ高く評価されています。ネット広告ではまねできない効果を、テレビ局や広告代理店がより真剣に考えれば、新しい道が開けるのではないでしょうか」(大場さん)

 一方、コンテンツづくりに関しては「美味いラーメン屋さんを目指すべき」と、吉野さんは語る。

「平成の間に、視聴者は選べる立場になった。ケーブルテレビ、動画配信サービス、ネットテレビ、アプリ……その中にテレビがあります。

 インスタグラムなどのインスタントなものや、海外の豪華ドラマなどに対し、テレビに求められているのは、手ごろだけどおいしいラーメン屋さんのような存在。そうなれたら、差別化できて生き残れます」(吉野さん)

 大事なことは“美味い”というクオリティーを担保できるかどうか。“見せる”ものから“魅せる”ものになれば、間もなく迎える新しい時代、テレビの未来は明るいかもしれない。

《PROFILE》
大場吾郎さん
佛教大学社会学部教授。日本テレビ放送網株式会社入社後、ディレクターなどを務め2001年退社。著書に『テレビ番組海外展開60年史 文化交流とコンテンツビジネスの狭間で』など

吉野嘉高さん
筑紫女学園大学現代社会学部教授。1986年フジテレビジョン入社。情報番組のディレクターや社会部記者などを務め、2009年同社を退職。著書に『フジテレビはなぜ凋落したのか』

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