『スパイダーバース』は写実の呪縛からCGアニメを開放するーー革新性手法に込められたメッセージを読み解く

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2019年04月02日 12:01  リアルサウンド

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 アニメーションは「絵」の連続体である。「絵」という言葉からどんなイメージを連想するだろうか。おそらく100人いれば100通りの絵を思い浮かべるに違いない。ルネサンス期の絵画を想像する人もいれば、浮世絵やピカソのキュビズムを連想する人もいるかもしれない。絵画の歴史は膨大であり、多彩なスタイルが存在する。


参考:スパイダーバース場面写真


 では絵の連続体であるアニメーションと聞いてどんなイメージを思い浮かべるだろうか。おそらくだが「絵」を想像するほどイメージにばらつきはないのではないか。目の大きな日本のアニメか、ピクサーのようなCGアニメーションを思い浮かべる人が多いかもしれない。アニメーションと聞いて思い浮かべるイメージは絵画の多彩さに遠く及ばない。(もちろん、インディーズアニメーションにまで視野を広げると多彩なイメージにたどり着くのだけど)


 これはとてももったいないことだと思う。絵の歴史は映像よりも遥かに古く、それを用いる表現手法であるアニメーションが、わずかな種類のイメージに可能性を制限されてしまっているのではないか。アニメーションというジャンルはもっと多彩になれるはずだ。


 『スパイダーマン:スパイダーバース』は、そんな現在のアニメーション業界に風穴を開ける作品だ。フォトリアルなCG作品が席巻するアメリカのアニメーション市場に、全く異なるビジュアルを引っさげて挑戦し、アニメーションの「画風」の可能性を一気に押し拡げた。


 そのビジュアルスタイルは、たんに奇抜であるだけではなく、物語のテーマとも絶妙にリンクしており、ひいてはマーベル作品の生みの親、スタン・リーが大切にしてきた想いにも繋がっている。「スパイダーマンは誰でもなれる」とストーリーで語るだけでなく、それを技術レベルでも実現していることが本作を特別な傑作にした要因だ。


・写実の呪縛からCGアニメを開放した
 西洋絵画が写実主義を脱して、多彩な画風を獲得することになったのは近代になってからのことだ。クールベに代表される写実主義の時代の後、印象派が生まれ、セザンヌ、ゴッホ、ゴーギャンのような後期印象派が生まれた。


 後期印象派は、正確に現実に近づけようと努力しつづけていた絵画を解き放った。セザンヌは遠近法を無視した絵を描き、ゴッホの色使いは、現実を超越し、自らの精神性を反映させた。セザンヌに多大な影響を受けたピカソが後にキュビズムを展開し、絵画のスタイルはさらに多彩となっていき、かつては暗黙の了解だった現実に近づけることは、現代絵画において絶対の要請ではなくなり、より広範な自由を獲得した。


 CGアニメーションは、基本的に実写映像と同じ1秒間に24のフレームで動作する。極めて現実の人間に近い動きをトレースできるようになったその技術は、動きだけでなく皮膚や毛の質感にいたるまで、多くのアニメーション作品を現実に近づけさせた。気がつけば、アメリカで制作される多くの大ヒットアニメーションは、フォトリアルな作品ばかりになっていった。


 しかし、アニメーションは「絵」である。かつて絵画がその制約を破ったように、本来ならば写実的でなくても良いはずなのだ。『スパイダーバース』は、絵の持つ多彩な魅力に改めて取り組んだ作品と言える。


 筆者は、製作総指揮のフィル・ロードとクリストファー・ミラーのその点についてインタビューで質問する機会があった(参照: https://cinema.ne.jp/recommend/spiderman2019030806/ )。2人は「全てのアニメーションが同じビジュアルである必要はないはずだ」と語っていた。まず彼らが考えたのは、原作コミックの絵の魅力の再発見だった。


 随所に見られるドットやスクリーントーンのような跡、輪郭線や印刷ズレまで再現するなど実に手間をかけて、コミックの絵の魅力を再発見しようとしている。ピンポインでイラストレーション風のカットが挿入されたりもするし、爆発などのエフェクトもコミック調に演出されている。


 これだけでも、従来のCGアニメーションとは異なる方向性を示しているが、本作がさらにすごいのは、ビジュアルスタイルの全く異なる複数のキャラクターを同じ画面に並列させていることだ。


 モノクロのスパイダーノワール、日本のアニメルックのペニー・パーカー、カートゥーンチックなスパイダーハムと多彩なスタイルのキャラクターを併存させている点は、制作の手間を考えても大変なことであるが、なにより一つの作品の画風は統一されているべきだ、という暗黙の了解を打ち破ったという点は特筆に値する。


 これは生身の役者が演じる前提の実写映画には決してできないことだ。あるいはフォトリアルな作風でも違和感を生じたに違いない。フィルとクリスは前述のインタビューで「アニメーションには無限の可能性がある」と語っていたが、1本の作品で、その可能性を限りなく詰め込んで提示してみせた。


・手法にメッセージが宿っている
 例えば、ゴッホの激しい色使いそのものが彼の情念の現れであったように、本作もその手法や技術そのものにメッセージが宿っている。


 本作の主人公マイルスは、プエルトリコ人とアフロ・アメリカ人のミックスであるなど、人種的な多様性を称揚する他のハリウッド映画と同様、本作もダイバーシティの価値を謳う作品だが、本作はアニメーションならではの手法でそのメッセージを描いてみせた。


 再びインタビューから抜粋するが、フィルとクリスの2人は多様性を技術レベルで実現したのかとの問いに、以下のように答えてくれた。


「媒体そのものがメッセージであり、メッセージは媒体だと思っています。この映画には、いろんなスタイルのビジュアルが入り混じっていて、それ自体が物語とテーマをサポートしているんです。誰もがスパイダーマンのマスクを被ることができる、そこにはジェンダーも人種も文化の違いも関係ない。この映画はそういうことを伝えていますが、いろいろなビジュアルスタイルが1つの映画で共存できるという事自体が、多様性のメッセージになっているんです」


 本作は、スパイダーマンたちが異なるユニバースからやって来たという設定だが、そのビジュアルの違いだけで、確かに彼らが全く法則の異なる世界の住人だということがよくわかる。そんな持った彼らが団結して戦うという点が感動的かつユニークな点だが、その多様なスパイダーマン像を示したことが、スタン・リーが込めた「スパイダーマンは誰でもなれる」という本シリーズの核となるメッセージをそのまま後押ししている。


 あのキャラクターたちを併存させるために、通常のアニメーション作品では考えられないほどの労力を費やして作られていることもあるが、言葉だけでなく、ビジュアルそのもので語っているからこそ、より深い感動があるのだろう。選択された表現手法と作品全体のテーマが見事に噛み合っているのだからこそ、本作は傑作なのだ。


 後期印象派の後、キュビズムやシュルレアリスムを経て、多彩な絵画が生まれたように、本作を境に多様なビジュアルのアニメーションが世界中で生まれるかもしれない。そうなった時、すでに高い評価を得ている本作の評価はさらに高まり、歴史の新しい扉を開いた作品として記録されるだろう。 (文=杉本穂高)


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