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イチローは松井秀喜を凌ぐ、稀代のホームランバッターだったのではないか?

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2019年04月22日 16:00  AERA dot.

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写真右越え本塁打を放つイチロー(1996年) (c)朝日新聞社
右越え本塁打を放つイチロー(1996年) (c)朝日新聞社
「最後にこのユニホームを着て、この日を迎えられたことを大変幸せに思います。後悔などあろうはずがありません」

 2019年3月21日、東京ドームで行われたアスレチックス戦の後に、マリナーズのイチロー選手が現役引退を表明した。後悔などあろうはずがない、という言葉に全力を出し切った彼なりの潔さを感じた。イチローの偉大な功績は今まで至るところで語られてきた。日米通算で4367安打を放ち、04年には262安打のメジャーリーグシーズン最多安打記録を達成した、イチローが日米の野球史上、類いまれなるヒットメーカーであった点に異論をはさむ人はいないだろう。

【写真】数々のホームラン伝説を作った松井秀喜

 イチローの野球人生を振り返ってみたとき、私が一方で思うのが、「イチローは希代のホームランバッターではないか」という点である。イチローの飛距離は凄いということは、彼が日本球界にいた頃から、スポーツジャーナリストらの噂で耳にはしていた。
試合前の、オリックス・ブルーウェーブ(現オリックス・バファローズ)の本拠地であるグリーンスタジアム神戸(現・ほっともっとフィールド神戸)での打撃練習では、イチローは軽々とスタンド上段まで打球を運ぶホームランバッターだという記事も読んだ。

 にわかには信じられなかったが、ヒットメーカー・イチローのイメージを覆す新たな一面を発見した思いだった。考えてみれば、確かにイチローは本塁打王のタイトルを争った年がある。1995年のパ・リーグの本塁打王はダイエー(現ソフトバンク)の小久保裕紀の28本だったが、このとき最後まで本塁打王を争った選手の一人に25本を打ったイチローがいた。この年イチローは、首位打者、打点王、盗塁王なども獲得してMVPに選ばれている。もしイチローが本塁打王になれば、打撃タイトル総なめだった。

 2011年に私は打撃投手の本を書くために、イチローの打撃投手に取材する機会があった。そのとき私はイチローが並々ならぬ長打力を持った打者であることをじかに知らされた。プロ野球には1球団に10人前後の打撃投手がいるが、だいたい打者の担当は決まっている。彼らは元プロ野球投手であったが、引退後制球の良さを買われて打撃投手として球団に残ったケースが多い。

 彼らは毎日、担当の選手に投げるから、いいときも悪いときも、コーチ以上に打者の状態を知っている。監督、コーチは打者の背後の打撃ケージ越しに見る。しかし打撃投手は打者と正対するから正面から見ている。そのため打者も自分の調子の良しあしを打撃投手に聞くことも多い。

 1994年、イチローがシーズン最多安打(当時)を達成した年にオリックスで彼の専属打撃投手を務めたのが、「イチローの恋人」と呼ばれた奥村幸治(現NPO法人ベースボールスピリッツ理事長)である。彼の球歴は通常の打撃投手と変わっており、プロ野球選手の経験はない。高校時代は速球投手として鳴らしたが、背が170センチほどしかなかったため、ドラフト指名を見送られた。プロの世界を経験してみたいとオリックスの打撃投手として93年に入団した。

入団時、奥村は20歳、イチローは19歳。寮の隣部屋同士だった。年も近いので二人はごく自然に親しくなった。寮では「広島の前田智徳選手のようになりたい」と話していた。

 この年(1993年)イチローは1軍昇格を果たすが、コーチ陣との意見の食い違いもあって2軍に戻ることもあるような不本意な日々だった。2軍でもイチローの練習量は群を抜いており、チームの練習後も一人残ってマシン相手に黙々といつまでも打ち続けた。

 奥村は述懐する。

「その姿は殺気立っていました」

 その努力は翌年開花する。94年に仰木彬が監督となると、彼はイチローの卓越した打撃センスに注目して、1軍のレギュラーに抜擢し、登録名も「鈴木一朗」から「イチロー」に変え、打率も4割をうかがう成績で、9月20日には前人未到のシーズン200安打を達成した。奥村はこの年は毎日イチローの打撃投手を務めた。

「すでに振り子打法も身についていましたから、打球の速さもはんぱじゃなかった。しかもすっごい飛ぶんですね。グリーンスタジアム神戸でどんだけ場外ホームランを打たれたことか。ホームランだけ打てと言われたら松井秀喜選手より打てますよ」

 イチローの打撃練習も他人とは違っていた。通常は打撃投手は打ちやすいようにスピードを殺して投げる。だがイチローは実戦形式で奥村に全力投球を求めた。生きたボールを打つことで、より試合に近い形式の練習をしたかったのである。

 奥村から見たイチローの特徴は、バットがムチのようにしなって出ることだった。外角の球でもフォームを崩しながら打っても、打球はすごい勢いで飛んできた。その打球の速度は外国人選手を超えていた。

「イチローは体格に恵まれていないから、1軍で活躍するために強い打球を打とうとして振り子打法を考えたと思います。自分の体重をボールに乗せる。そのため人よりもボール1個前でミートすることになる。遅いボールが来ると、我慢できなくてひっかけてしまうこともあるから、前の足を泳がないようにしていました」

 イチローがシーズン200安打を達成した日、奥村はケーキをプレゼントした。イチローは「ロッカーで奥村さんにもらったケーキがいちばん嬉しかった」と言ってくれた。
奥村はその後、少年野球チームの宝塚ボーイズの監督を務め、田中将大ら多くの選手を育てている。

 奥村の後、イチローに投げたオリックスの打撃投手たちも、取材でイチローは本塁打王になれるパワーを持っていると答えてくれた。イチローの打撃は力が無駄に分散されず、インパクトのときにすべての力がバットに乗り移るので、打球が面白いように速く、遠くまで飛ぶ。

「本塁打を打つ気になったらいくらでも打てると思います。本塁打に徹すれば松井秀喜より打てると思います」

 彼らに共通する見解だ。メジャーリーグに移籍してからも、イチローに投げた日本人打撃投手がいる。中日ドラゴンズの打撃投手だった坂田和隆である。彼は2008年からイチローのオフシーズンの打撃投手を務めた。冬場、イチローは日本の球場で練習するが、1時間ほどの打撃練習で、50本から60本の柵越えを放ったと語ってくれた。この本塁打数は尋常な数ではない。

 イチローの偉大な成績は、一流の打撃投手との二人三脚の中で生まれて行ったのである。

 改めてイチローが本塁打王争いをしていた1995年当時のビデオを見ると、彼の本塁打は、弾丸ライナーで観客席の中段まで届くものもあれば、高々と舞ってゆっくりと右翼席上段に落ちるアーチもある。しかもグリーンスタジアム神戸は、両翼99.1メートル、センター122メートルと、当時の福岡ドーム並みの広さを持つ。そこで軽々と中段から上段席まで届く打球は、並の長距離打者では打てるものではない。

 ホームランバッター・イチローを実感した瞬間だった。

 イチローは松井秀喜をも凌ぐ本塁打を量産する力がありながら、なぜヒットにこだわったのだろうか。彼は2007年のメジャーリーグオールスターゲームのとき、報道陣に「打率が2割2分でいいなら、40本の本塁打を打てると言っておきましょう」という趣旨を冗談交じりに語ったという。そこから「王の恋人」と呼ばれた山口富夫打撃投手の言葉を思い出した。王貞治はミートする力が抜群にすばらしかった。ある日、山口は「王さん、ヒットだけ狙ったら軽く4割打てますね」と言うと、王はきっぱりと否定した。

「俺のヒットをお客さんが見に来ていると思うか」

 打率と本塁打は打撃技術の違いもあって、両立は難しい。イチローも本質的には王の言葉と変わらない。本塁打をヒットに置き換えると、そのままイチローの思いにつながるだろう。 

 それは凄まじいほどのプロ意識とはいえまいか。

 打者である以上、打撃の華である本塁打への誘惑は誰もが捨てがたい。だがあえてその誘惑を振り切り、イチローは黙々とヒットを積み上げることで、ついには本塁打以上の魅力を伝えることになった。それは数字に表れないイチローの功績であるといえる。まさにイチローが持ちえるプライドの表れであり、孤高の美学であった。(ノンフィクション作家 澤宮 優)※文中敬称略

■澤宮優(さわみや・ゆう)2004年『巨人軍最強の捕手』でミズノスポーツライター賞優秀賞受賞。著書に『打撃投手 天才バッターの恋人と呼ばれた男たち』(講談社)『スッポンの河さん』(集英社文庫)、『イップス』(KADOKAWA)など。

このニュースに関するつぶやき

  • イチロー信者のキモさ全開の記事だな。松井にも失礼だし、王はホームランだけ狙いながら毎年三割越える成績を残して首位打者も再三取ってる。一流の長距離打者の凄さがわかってないね。
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  • やっぱ一流選手は考え方が違う。一般人にはとうてい考えつかないや。
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