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マイケル来日パーティー 「うちの6歳の娘も出席した」キャピトル東急スイートルームの真実

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2019年04月26日 13:00  AERA dot.

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写真マイケルとEPIC・ソニー(当時)田中さんとのツーショット(田中章さん提供)
マイケルとEPIC・ソニー(当時)田中さんとのツーショット(田中章さん提供)
 マイケル・ジャクソンが亡くなってもうすぐ、ちょうど10年になる。2009年6月25日、極度の不眠のために医師による麻酔薬の過剰/複合摂取がされて心肺停止。病院に運ばれるも、米・西海岸時間の14時26分に死亡が確認された。享年50。死の18日後には、英・ロンドンで50回に及ぶコンサートが予定されていた。

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 マイケルにはその死後も世間を騒がせるニュースやゴシップがあふれ、天国でさえ彼はおちおち寝ていられないかもしれない。つい最近も、マイケルの少年虐待疑惑のドキュメンタリー映画『リーヴィング・ネヴァーランド』が米・ケーブルTVのHBOで放映され、物議をかもしている。

 今、新しい時代を迎えようとしているこの日本で、昭和57年(1982年)12月5日に発売されて大ヒットしたアルバム『スリラー』でトップ・スターになったマイケル・ジャクソンという一人の偉大なアーティストの人間像が語られることは、ファンを対象にしたメディア以外では滅多に目にすることもなくなった。平成生まれの人たちにとってのマイケルは、“#MeToo運動の流れの中で告発された、小児性愛癖のとんでもない男”かもしれない。

 一体、マイケル・ジャクソンとはどんな人だったのだろうか? その死から10年、今一度探ってみたい。

「マイケルはステージで見せる自信に満ち溢れたスター像とは違い、普段はとても穏やかな人でした。スターにありがちな尊大さなんて全く見せません」

 そう語るのは、マイケルの日本での発売元であるレコード会社「EPIC・ソニー(現ソニー・ミュージックエンタテインメント)」で、海外との契約やマーケティングに関する交渉などを行う日本側の「国際部」に所属していた田中章さん。田中さんは国内外でマイケルに何度も会っている。

「1987年に来日した際、レコード会社主催の歓迎レセプションを開くことになりました。当時のEPIC・ソニーとCBS・ソニーでは、海外からアーティストが来日すると銀座のソニービルの地下にあったフレンチ・レストラン『マキシム・ド・パリ』でオフィシャル・ディナーを開くのが常だったんですが、マイケルはそうした儀礼的な席は好まないだろうと判断し、宿泊していた赤坂・キャピトル東急ホテルのスイートルームを借りて開くことにしました。僕の提案で、子供好きのマイケルだから社員も子どもたちを連れて出席してマイケルを迎えようとなり、うちの当時6歳だった娘にもミッキーマウスのTシャツを着せて一緒に出席しました。マイケルはこうした席だと恥ずかしがり屋で積極的に話をすることは少ないんですが、それでも『ありがとう』とその度に言って、疲れた顔を見せず記念撮影に応じてくれました」

 なるほど、「マイケルは子どもが好き」という噂は、87年当時すでによく知られていたことが分かる。このときの来日公演は「日本テレビ」の主催だったが、その交渉をした伝説のTVマン白井荘也さんが書いた「マイケル・ジャクソン来日秘話」(DU BOOKS/2017年)を読むと、日本テレビが主催したパーティーにも、ミュージカル「アニー」に当時出演していた子どもたちが参加して「トゥモロウ」を歌ってマイケルを迎えたとある。マイケルは「ニコニコと入場」したそうだ。ちなみに初代アニー役は現在の衆議院議員・山尾しおりさん。マイケルの隣に立つ彼女の姿は同書に収められている。

 しかし、マイケルは本当に子どもが好きで、自ら周囲に子どもたちをはべらせたい人だったんだろうか? これらパーティーでは噂から周囲が気遣って子どもたちを呼んでいて、決してマイケル側から「パーティーに子どもを呼んで下さい」と頼んだわけではない。

「マイケルは子どもだけが好きというより、どちらかというと大人を信用できなかったといった方がいいんではないでしょうか。自分と同じような年齢の、もしくはもっと上の大人たちは皆お金目当てであったり、誰かの差し金であったり、何か仕事を頼みたいとか利害関係で近づいてくるに決まっていると、マイケルは常に警戒心を抱いていたと思います。来日したのは『スリラー』が大ヒットして、続くアルバム『バッド』が発表された頃です。最も難しい時期と言えるでしょう。『スリラー』の爆発的ヒットであらゆる人が手のひら返し、誰も信じられない!と思っていたのは想像するに容易です」

 そう語るのは、当時「EPIC・ソニー」でマイケルを担当するA&Rだった清水彰彦さん。見知らぬ大人などとは会いたくない、話をしたくない、心を開かない、それが当時のマイケルだったんじゃないか?という。

「そのためにマイケル側のスタッフは、フランク・ディレオというマネージャーだけでした。ビジネスはフランクが担当し、ボディガードが1人と、弁護士は別にもう一人いましたが、音楽面のクリエイティヴなことはマイケルが全部やるんです。バンドにはグレッグ・フィリンゲインズというキーボード奏者がいて、彼がバンマス(バンドマスター)で細かいところはやるけど、普通は複数人いるアシスタント・ディレクターみたいな人や取り巻き的な人は誰もいない。ステージでのアレンジの変更や何時までにリハしてとか、そういうことを全部マイケル本人が決めるんです。スタジアム規模のツアーでそんなことしてる人、他に誰もいません。

 変な話、衣装とか普段着とか洗濯してくれる人、いるの?とかも心配でした。そりゃもちろん日本側スタッフに頼んでくれれば何でもしますよ。でもマイケルが頼んでくれないと、何もこちらからは手出しできませんからね。当時、スポーツ新聞やワイドショー用に『今日のマイケル』みたいなネタをレコード会社から送っていたんですが、その写真なんか見ると、同じような服を毎日着ていて、エリがクタッとなっていたりする。もしかして昨日と同じ服?マイケル大丈夫かな?と心配していました」(清水さん)

 部屋のバスルームで一人コシコシとパンツや靴下を洗うマイケル……というのも、ありえない話ではないと清水さん。実際多くのアーティストは、自分でそうやって部屋で洗濯をすることも多いんだそうだが、よもやマイケルもそうだったのか?

 日本テレビの白井荘也さんの本にも、87年のマイケル来日公演は元々、幼少期からの友人であるオズモンド・ブラザーズ(注:70年代に人気を博したファミリー・コーラス・グループ)のジミー・オズモンドに、マイケル本人が「日本で誰か信用できる人はいないか?」と尋ねたことから始まったとある。

 マイケルに尋ねられたジミー・オズモンドは、自分が17歳から出演していた日本のTV番組「日曜お笑い劇場」のディレクターだった白井さんを、「この人なら」とマイケルに紹介した。コンサート・プロモーター探しなど、普通アーティスト自身がやることではないが、マイケルはそこまで自分でやっていたのだ。

 マイケルは誰も信用できずに、何もかも自分でコントールしたくなるコントロール・フリークになっていたともいえる。しかし、その反面でまた違うマイケルの顔が見える。

「でもジミーは当時すでにかなりやり手のビジネスマンでもあり、ディズニー・オン・アイスの興行権なども持っていたと聞きます。マイケルはそうした面も鑑みて、ジミーを信用していたんだと思いますよ」と清水さん。

 また田中さんは、「マネージャーのフランクは元々アメリカのEPIC・レコードのプロモーション部門のヘッドだった人です。その仕事ぶりをマイケルが見込んでマネージャーに雇いました。日本はマネージメント会社がアーティストを雇いますが、アメリカは逆。アーティストがマネージャーを雇います。フランクはいかつい外見ですが、元々レコード会社の人間だっただけあり、物わかりのいい、こちらのやりたいことに応えてくれる人でしたよ」という。

 ナイーヴな子ども好きのマイケル像から一転、生き馬の目を抜く厳しい米・ショービズの世界で信用できる人物を自ら選定して起用する、ビジネスマンとしての冷静な視線を持つマイケル像が見えてくる。

「日本では田中章さんをアキ、と呼んでマイケルは一番信用していましたよね。同じアキでも、清水彰彦の僕はアキ2でした。田中さんは同じ会社にいた僕から見ても損得関係なく動く信頼できる人ですからね」(清水さん)という。ビジネス面だけじゃなく、マイケルは人の本質も容易に見抜いて、付き合う人を選んでいたんだろう。私から見ても、田中さんを信頼するマイケルは分かってる人だなぁと思う。

 となると、マイケルの子ども好きは単なる噂だったのか? 
「マイケルがまだネヴァーランドに引っ越す前、エンシノに住んでいた頃に訪ねたことがあります。そこは事務所にもなっていましたが、家の中に『お菓子の家』がありましたね。いや、お菓子で出来てるんじゃなくて、あらゆるお菓子が用意されてるんですよ、いつ子どもたちが遊びに来てもいいようにって」(田中さん)

「ほら、やっぱりね」なんてほくそ笑む人もいるかもしれないけど、ごく普通な自分と、世界で3億5千万枚以上ものレコードやCDを売り上げることができる男の考えることは、まるで違うんだと自覚せねばならない。

 東京大学の安富歩教授は「マイケル・ジャクソンの思想」(アルテスパブリッシング/2016年)という本の中で、マイケルが1993年のグラミー賞で演説した「子どもたちは最も深い智恵に到達していて、そこから創造性を得る方法を教えてくれる」を何度も引用する。マイケルが子どもたちを愛したのは、そういう深い思索のところに所以があるというのだ。だいたい考えてもみてほしい。もし本当にマイケルが子ども達を性愛の対象として見ていたのなら、絶対にそれを隠し、家に用意したお菓子の家を外から来る人が安易に見られるようにしておかないのではないか? 最少の人件費で冷静にビジネスを遂行し、3億5千万枚を売り上げられる男なのだ、それぐらい考えられるだろう。


 実際のところ、マイケルは恵まれない子どもたちへ何よりも大切な教育支援に本当に熱心で、87年に来日した折には多額の寄付を各所にしていた。

「マイケルは来日前に日本ユネスコ協会に連絡して協力を申し出てステージ衣装などをオークションに出し、さらにマイケルの肖像入りゴールドメダルの製造を許可して両方の売り上げを加え3,000万円あまりを全て日本ユネスコ協会に寄付したそうです。日本ユネスコ協会はその資金を元に『ユネスコ世界寺子屋運動』という、世界の子どもたちに学ぶ機会を与えるための基金を作って今に続き、世界で124万人に学ぶ機会を提供しています。

 当時日本ユネスコの事務局長だった方が「何故ユネスコに寄付してくださるのですか」と問うと、マイケルは「僕自身、子どもの頃に音楽の仕事があり学校に行けなかった。だから教育を受ける機会の無い子供たちのことがとても気になります。どうか、彼らの為に役立てて下さい。そしてユネスコの支援活動は一過性のgiftではありません、共に歩んで行くCo−oprative Actionで、それに僕は共感しています」と答えたそうです。

「それでは!」と、寺子屋運動に「マイケル・ファンドと名付けさせてください」とユネスコ側が申し出ると、マイケルは断ったとか。売名行為と取られるのを嫌がったんですが、上から目線で恵んでやるのではなく、共に歩もうとする姿勢がマイケルらしいですね。

 またこれとは別に、女優の宮城まり子さんが代表を務める児童養護施設「ねむの木学園」への寄付もしています。こちらはマイケルから私に寄付をすべき日本の団体を選んで欲しいと頼まれ、紹介したものです。「ねむの木学園」ではその後、天皇皇后両陛下がご訪問された折にマイケルの歌を子どもたちが歌ったりして、マイケルへの感謝を表しています。これらのことは公表を控えて欲しいというのがマイケルの意向だったので、僕も今まで人に話したことが殆どなかったため、報道されることもありませんでした」(田中さん)

 日頃喧伝されるマイケル像とは違う姿をすぐ側で見ていた田中さん、清水さん。2人の証言は後編「マイケル・ジャクソン バブルスと日本で過ごした最愛の日々」へ続く。(文/和田静香)

■和田静香(わだ・しずか)/1965年、千葉県生まれ。音楽評論家・作詞家の湯川れい子のアシスタントを経てフリーの音楽ライターに。趣味の大相撲観戦が高じて最近は相撲についても書く。著書に『スー女のみかた 相撲ってなんて面白い!』『東京ロック・バー物語』など。自身が主催する「21世紀の相撲絵師たち展」を5月3日〜12日(7,8日は休み)、「フリースペース緑壱」(東京・両国)で開催。

このニュースに関するつぶやき

  • マイケルクエストでも見るかな!
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  • マイケルもホイットニーもRケリーも周りの搾取が酷すぎた。普通の人ならおかしくなるよ。
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