『ガーデンアパート』が鳴らす現代への警鐘 若者たちが一夜の冒険の先に見出すものとは

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2019年06月06日 16:01  リアルサウンド

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 「愛は映画みたいなもので、政治みたいなもので、料理みたいなもので、庭みたいなものだ」という、作り手が奏でるポエムを主人公が語ることによって幕が開ける77分間の淡々とした物語は、ひと組のカップルとひとりの女性と謎めいた男、そして無軌道な若者たちの姿とともに駆け抜ける一夜の冒険だ。手を伸ばせば届く距離にありそうでいて、けれど儚げで触れがたいタイプのアート作品とは異なり、容易に触れられそうなのに、実は物理的にすごく遠くにあるように思える極めて特殊なアトモスフィアを放っていく。その絶妙な距離感にどう向き合うか。少なくとも、最初の段階でどの程度この映画と距離を置いておくかによって、最後にたどり着く場所は異なるに違いない。


参考:場面写真はこちらから


 もっとも、この『ガーデンアパート』がエクスペンタルムービー(実験映画)であるか否かという点については、議論の必要もなくYesであろう。UMMMI.こと石原海は東京藝大やイメージフォーラムフェスティバルを経て本作で長編デビューを果たす、コンテンポラリーアーティストであり映像作家。そのバックグラウンドには否応なしに敷居の高さを感じ、観る前から果てしない距離感を感じてしまう。ましてや、かれこれ100年近い歴史を有する実験映画というジャンルは、あらゆる表現技法や思想が許容される昨今において徐々にその様式が変化しつつあって、観念的な筋にトリッキーなビジュアルを重ね合わせたような作品がごまんと存在するほどだ。


 もっぱらこうした現代的な実験映画においては、「いかに革新的な作品であるか」という表層的な評価基準よりも、より主観的で内面的に「その映画が主張し定義する価値観に共鳴することができるか」というのが評価の基準になってしまいがちだ。しかし、そういった点で本作は、その先入観をまんまと覆す。少しばかり影を背負った画面の中に実験的な表現を随所に織り交ぜながらも、それらを司る物語性は極めてシンプルで実直なメロドラマの様相を守り続け、決して観念的でもなければ偏向もしない。“愛とは何か”という答えのない探求をつづけながら、答えのない問いには答えなどないのだと言う答えを見出すに留まるのだ。


 同棲中の主人公カップル、ひかりと太郎。ひかりが太郎の子供を妊娠するのだが、定職に就いていない2人は金銭的なトラブルを抱え、太郎は叔母の京子を頼る。彼女は若くして夫を亡くし、アルコール中毒に陥っており、家には何人もの若者を住まわせながら日々パーティのような破天荒な暮らしをつづけていた。そんな京子のもとをひかりが訪ね、そこで京子のお気に入りである世界という名の青年と出会い、抜け出すひかり。世界がいなくなったことで京子は狂い始め、また太郎もひかりが帰ってこないことに感情を爆発させていく。


 物語を織り成す4人のメインキャラクターが本来持ちうるそれぞれの人生が、ふたつから3つになり、そしてまた4つへと戻っていく。繋がって離れてをたった一晩の間で繰り広げるうちに見えてくるのは、正反対のように思える京子という女性の存在とひかりという女性の存在が同じ線の上にあるということや、京子と太郎の類似性。そして人生を共有していたひかりと太郎、京子と世界の間に芽生えるほつれに他ならない。この77分の冒険を経てすべてが元通りになるわけでも、崩壊するわけでもない。ただ登場人物たちの間にどことない空虚感が、おそらくそれまで影を潜めていたものが形をもって表出するようになってくるのだ。それによって、彼らが彼らなりの答えを見出す、また観客が観客なりの答えを見出す時間が与えられる。


 この圧倒的な空虚感にはどこかで出会ったことがある。そう思って本作のチラシ資料の裏側を見てみれば、そこにはライナー・ヴェルナー・ファスビンダーの名前が書かれているではないか。そうか、この物語は『ヴェロニカ・フォスのあこがれ』ではないか。過去と向き合いながらも孤独と向き合うことのできない中年女性の姿と、それを操る人物と翻弄されていく人々。それぞれの人生が結び付けられて離れ、あまりにも大きな空虚が横たわる。まさか21世紀の日本で誕生した実験映画が、70年代のニュー・ジャーマン・シネマとつながることになるとは。おそらくそれは、愛や自尊心、過去との向き合い方や未来の築き方といった人間のファンダメンタルな部分がすべて、都合の良い解釈によって不透明にされている現代への警鐘といえるかもしれない。 (文=久保田和馬)


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