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ミシガン生まれの「ごく普通の男の子」がプログラミングにハマるまで

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2019年06月10日 07:02  @IT

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@IT

写真Michael Schumacher(マイケル・シューマッハ) 「Lakeside Software」の創業者兼最高経営責任者(CEO)
Michael Schumacher(マイケル・シューマッハ) 「Lakeside Software」の創業者兼最高経営責任者(CEO)

 世界で活躍するエンジニアの先輩たちにお話を伺う「GoGlobal!」シリーズ。今回は、米国発のソフトウェア企業で、企業システムの中でユーザーのエクスペリエンスとシステムをモニタリングする「SysTrack」製品で知られる「Lakeside Software」の創業者兼最高経営責任者、Michael Schumacher(マイケル・シューマッハ)氏にご登場いただく。複数の国や地域に進出しながらも「一度作った拠点からは、決して撤退しない」という珍しい主義を掲げる同社。「自分はエンジニア」と語るシューマッハ氏が創業に至ったきっかけは何だったのだろうか?



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●ミシガン生まれの「ごく普通の男の子」がプログラミングにハマるまで



阿部川“Go”久広(以降、阿部川) シューマッハさんは、米国生まれですよね。お誕生日はいつですか?



シューマッハ氏 私は1962年の2月14日、バレンタインデーにデトロイトで生まれ、ミシガンで学校に通いました。冬のミシガンは、朝目覚めるととても寒くて、子どものころは「どうしてこんなところに住んでいるのだろう」と思ったものですが(笑)、夏は素晴らしいんですよ。



阿部川 どんな子どもでしたか?



シューマッハ氏 当時としては典型的な子どもでしたね。友達と釣りに出かけたり、野球をしたり、ほぼ全部のスポーツをやったんじゃないかな。



 コンピュータに興味を持ったのはミシガン大学のエンジニアリング学科に進んだ後です。1年生の前期に数学を履修したのですが、あまり面白さは感じませんでした。ちょうど同時に履修したのが、コンピュータエンジニアリングの科目でした。



●今と違いすぎ! 1980年代のコンピュータエンジニアリングの授業で、教授が残した「予言」



阿部川  1980年代初めのコンピュータエンジニアリングの授業は、どんな内容だったのですか。



シューマッハ氏 最初に履修したのはパンチカードの授業でした。紙のカードをフィーダーに入れて、キーボードでパンチして穴を開けながらカードを一枚一枚作り、それをディスプレイに表示させて、コンピュータにやらせたい作業が間違いなくパンチされているか確認する、あれです。



 一枚でもいいから、当時の記念としてパンチカードを持っていればよかったと思います(笑)。もし子どもたちに見せてあげられれば、昔コンピュータを扱うことがどんなに難しかったか、心の底から理解できると思うからです。



阿部川 まだまだ黎明(れいめい)期だったとはいえ、コンピュータサイエンスの魅力に目覚めたんですね。



シューマッハ氏 その通りです。その授業が大好きで、自分が本当にやりたいことがコンピュータエンジニアリングだと分かりました。「FORTRAN IV」が特に好きで、一所懸命プログラミングした後に表示された「One or more error add near Main(メインプロプラムに1個以上のエラーが含まれています)」という素っ気ないエラーメッセージを今でも覚えています(笑)。



阿部川 当時の技術から今のコンピュータを見て、どう感じますか。



シューマッハ氏 コンピュータのシステムはサイクルを描いて進化してきていると思います。中央集約していたものが分散し、そしてまた統合されるというように。



 一方、当時から今の状態を言い当てていた人はいました。ある日、データベースを専門に教えていた教授がこう言ったんです。



 「君たち、今はストレージの容量が少なくて、とても不便だろう。でも将来、ストレージはとても安く、便利になって、不要なファイルをわざわざ捨てる必要もなくなる」



 学生は皆あきれながら聞いていましたが、実際はどうでしょうか。現代は彼が言った状況に近いところまで来ていますよね。例えば、1台のスマートフォンが持っている容量は、当時の大学のストレージ容量をはるかに超えています。



●「コンピュータを使う」こと自体が、とても大変だった時代



阿部川 大学ではエンジニアリングに集中したんですか?



シューマッハ氏 物理学や化学など、エンジニアリングに関わる教科は全て履修しましたが、メインはコンピュータエンジニアリングでしたね。コンパイラ構成、OSデザイン、データベースデザインなども学びました。他に、財務会計や経済学といったビジネス科目も取りました。損益計算書くらい読めるようにならなきゃと思いましたから。今でも「自分はエンジニアだ」と思っていますが、こうしたクラスから得た知識もまた、成功するために必要だったと思います。



阿部川 卒業後して最初の仕事は、やはりエンジニアでしたか?



シューマッハ氏 在学中から大学のコンピュータセンターでソフトウェアエンジニアの仕事をしていました。私と同じ授業を取っている学生が「プログラムが動かないんだけど」とやってくるので、彼らにアドバイスしながら直してあげるわけです。他にも、研究機関でテープ、Jazといったストレージと格闘したり、メインフレームのサポートデスクなどを担当したりしていました。



 大学の仕事は時給が良かったし、「好きなときに経費を気にせずコンピュータを使える」というメリットもありました。当時は1台のコンピュータを何人かでシェアして使うのが普通で、使いたいと思っても、行列ができていてなかなか使えないということがしょっちゅうありました。



●「エンジニア」以外のキャリアからスタートして得たスキル



 シューマッハ氏は大学を卒業後、大学院に進んで情報科目や電源、温度調整といった制御のエンジニアリングを学び、数学の修士を取得した。大学院を出た後は、非営利のFA(ファクトリーオートメーション)技術に関するシンクタンクの仕事に就く。「ISO 7階層参照モデル」などを業界標準として浸透させるために世界各国を飛び回っていたという。



 このとき、シューマッハ氏はビジネスの多様なスキルを習得したという。例えば、会議で配布される膨大な量の報告書や調査書を熟読することで、参加者の考えが読み解けること。他にも当時の業界リーダーにビジネスでの交渉や説得の方法、ビジネスプランの作り方などさまざまなノウハウを学んだ。



 シューマッハ氏はその後、パラデータというソフトウェア製品開発企業に転職。そこでネットワーク製品の開発に携わる。パラデータがテレビットという企業にネットワーク製品部門を売却したため、同氏もテレビットの一員としてシリコンバレーに引っ越し、ネットワークエンジニアと新製品の開発という「二足のわらじ」を履いていた。



阿部川 その後、キュービックスという企業に転職されましたね。



シューマッハ氏 そうです。60人程度の中堅ハードウェア企業で、テレビットの顧客企業でした。私は2人のオーナーと懇意にしており、彼らが革新的なソフトウェア製品の設計からプログラミングまでやりたいということで、私が全ての仕事を仕切りました。



 私はそこで、ソフトウェアのマネジメントツールやファームウェアの診断用ソフトウェア、ハードウェアの問題を解決するためのソフトウェアなど「面白そうだ」と思ったあらゆる分野の製品を作りました。



●独立、そして起業へ――たった一人で作った最初の製品とは



阿部川 そこまで聞くと、エンジニアとしては非常に充実した日々に聞こえます。そこからなぜ起業を選んだのですか。



シューマッハ氏 確かに私はキュービックスでとても楽しく仕事をしました。ただ、やはり私はソフトウェアエンジニアなんです。キュービックスは基本的にハードウェア企業ですから、そろそろ自分の好きなことをしたいと考えました。当時、私の家から湖が見渡せたので、Lakeside Softwareという名前で、たった一人で、自分の会社を設立しました。35歳でした。



阿部川 当時、製品の構想はもうあったのですか?



シューマッハ氏 当時、私の友人はCitrix Systemsのディーラーが多かったのですが「1台のサーバをどれくらいのユーザーが共有しているのかが分からない」という悩みを抱えていました。それは当時「Citrix WinFrame」や「Citrix MetaFrame」(現Virtual Apps)を利用しているみんなの困りごとでもありました。



 私はそれが分かるツールを開発し「どのリソースをどれだけ使っているのか」「何がボトルネックになっているか」などが分かるようにしました。プログラミングは全て私一人で実施しました。朝起きるとすぐにプログラムを作成し、ちょっとジョギングして、またプログラムに戻るといった、とても自由なやり方でソフトウェアを作りました(笑)。



 起業から1年後の1998年、開発したソフトウェアはCitrix Systems主催のカンファレンスと「COMDEX Spring」でベストソフトウェア賞を受賞した。その日を境にオフィスの電話は鳴りっぱなしになったという。



シューマッハ氏 多くのユーザーが、サーバの容量に関する問題を抱えていたのですね。こうなると従業員を増やさないと業務が回らなくなりました。そのため、楽しかった一人のオフィスはここで終わり(笑)、湖の対岸にオフィスを借りて業務を始めました。



 たった一人で始めたLakeside Softwareは早速注目を集め、やがて世界へと拡大していく。「一度作った拠点からは、決して撤退しない」という珍しい主義は、このグローバル展開の中で生まれる。その理由とは何だったのか? 後編に続く。


このニュースに関するつぶやき

  • 昔はメモリ容量が少なく、高価だったのでプログラムは洗練されて短歌か詩のようだった。
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  • 後編が早く読みたいですねexclamation
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