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トルシエが怒って教えたフラット3。中田浩二はスプーンの動きを反復

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2019年06月17日 06:21  webスポルティーバ

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世界2位の快挙から20年……
今だから語る「黄金世代」の実態
第9回:中田浩二(1)

「国際大会の初戦に負けて、これはやれるな、イケるなって、あそこまでポジティブになれたことはなかったですね」

 1999年のFIFAワールドユース(現在のU-20W杯)・ナイジェリア大会の初戦、カメルーンに1−2で逆転負けを喫した試合を振り返って、中田浩二はそう語った。

 中田はその後、00年シドニー五輪、02年W杯日韓大会、04年アジアカップ、06年W杯ドイツ大会を経験している。どの大会も初戦の結果が、その後の戦いに大きく影響した。とりわけドイツW杯では、初戦のオーストラリア戦に逆転負けを喫したことが影響し、1勝もできずにグループリーグで敗退した。

 だが、この時のカメルーン戦では、負けてもなおポジティブでいられた。それはどういう理由からだったのだろう。

「負けたけど、引きずるような負け方じゃなかったんです。戦術的にやられたというよりも、(身体能力の高い)アフリカ人がゴリゴリ来るところで個人がミスしてやられただけ。たしかに普通は初戦に負けるとバタバタしてしまうんですけど、みんな自信を持っていたし、妙な落ち着きがあった。負けたけど、ある程度主導権を握って戦うことができたので、この先も行けるんじゃないかって思えたんです」

 それが確信になり、自信になったのがつづくアメリカ戦だった。グループリーグを突破するために絶対に負けられない試合に3−1で勝ち、チーム全体として戦える手応えを感じたという。

「カメルーンに負けたけど、手応えをつかめそうなところでアメリカに勝ったのはすごく自信になりました」

 さらに次のイングランド戦には2−0で完封勝ちした。最終ラインに入った中田にとっては、これも確かな手応えとなるゲームになった。

 中田は帝京高校時代にボランチに転向し、才能を開花させた選手だった。

 だが、フィリップ・トルシエが日本代表監督になってから、中田はボランチではなく、フラット3の戦術において重要なキーを握る最終ラインの一角(左センターバック)に指名された。

「センターバックをやることに抵抗はなかったですね。前年のアジアユースは試合に出られなかったですし、ボランチにはイナ(稲本潤一)、ヤット(遠藤保仁)、酒井(友之)がいた。みんなに負けていると思わなかったけど、ボランチで試合に出るのは大変でした。そのときは試合に出たいという気持ちしかなかったし、試合に出られればどこのポジションでもいいと思っていました」

 ボランチの選手がセンターバックに入るのは、今はそれほど珍しくはない。06年から日本代表を率いたイビチャ・オシム監督が”ポリバレント(多様性)”という言葉を広め、阿部勇樹がセンターバックを務めたり、ザッケローニ監督時代には今野泰幸が代表でセンターバックとしてプレーした。しかし、当時のコンバートは少し異例だった。

 中田は、どういう意識でセンターバックをやろうとしたのか。

「センターバックだけど、僕の意識の中ではボランチの延長線上でした。当時のセンターバックはマンツーマンタイプが多く、がっつりFWをマークして離さない守備が主流だったし、僕はツジ(辻本茂輝)みたいに人に強いタイプではなかった。バランスを見ながらチャレンジとカバーを繰り返すタイプだったんです。ディフェンダーとしての知識も経験もなかったので、左のセンターバックに入っても、やっていることはボランチとそんなに変わらなかったですね」

 とはいえ、センターバックとしての基本的な動きや間の取り方など独特のものを得るためには「学び」が必要だった。リベロの手島和希、そして右センターバックの辻本茂輝と3人で”フラット3”を形成する中で、トルシエからいちばん指導を受け、叱咤されていたのが中田だった。

「よく怒られていましたね(苦笑)。トルシエ監督によく言われていたのは、ラインを揃えて上下すること、相手が前を向いたときは3メートル空けること。動きは直線的ではなく、『スプーン』と言って、弧を描いて動くとか。ほんと細かく言われました。しかも練習が独特。ボールを転がしてやるというよりも、トルシエ監督がボールを持って動くシャドートレーニングがほとんどで、それを反復して体で覚えていく感じだったんです。僕はセンターバックの経験がなかったので、動きを覚えるのに必死でした」

 中田は、”フラット3”を組む手島と辻本と、呼吸を合わせるためによく話をしたという。このタイミングで上げると決めたら一生懸命に上がり、常に横を見ながらバランスを取っていた。ただ、”フラット3”は3人でできる戦術ではない。前線の選手がプレスに行き、チーム全体が連動しないとラインを上げることができない。

「ナイジェリアの本大会前は実戦が1試合しかなく、しかも前線との共通理解もそこまでできていなかった。でも、トルシエ監督には『ラインを上げろ』って言われる。そこでけっこう相手にやられたんで、不安はかなりありましたね。正直、こういうディフェンスが通用するのかなぁって半信半疑でした」

 不安が大きかった”フラット3”。だが、大会に入ると形になってきた。中田もボランチのときに見せていた彼らしいプレーを見せ、それがチームにとって大きな武器にもなった。

「ボランチよりもひとつ後ろのポジションにいることで、余裕を持ってボールを持てるようになりました。そこから縦につけるボールや、(相手の)裏にボールを出すことができた。そこは自信を持ってやれていましたね」

“フラット3”の守備が試合を追うごとに安定し、日本はグループリーグを突破した。

 ベスト16(決勝トーナメント1回戦)の対戦相手はポルトガルだった。

 ポルトガルはこの大会ではブラジル、アルゼンチン、スペインと並ぶ強豪で、対戦が決まったとき、日本は苦戦必至と言われた。それでもこの試合、日本は苦戦しながらも勝利をするのだが、中田は、このポルトガル戦が決勝に勝ち進むうえでのターニングポイントになったという。

「ポルトガルは日本をなめていましたね。それでかなりメンバーを落としてきてくれたので、つけ入るスキがあったし、逆に僕らは自信を持ってやれました。でも、ポルトガルは点を入れられるといきなり選手を2人代えて本気になったし、その後GKが負傷退場して10人になっても、勢いがすごかった。PK戦までもつれてしまって苦しんだけど、勝てたことでチームにグっと勢いがついた。ポルトガル戦の勝利は間違いなく大きかったです」

 ポルトガル戦に勝って得たのは、準々決勝を戦えるチャンスだけではなかった。中田は、チームがよりひとつになったのを感じたという。

「ポルトガル戦までは、試合に出て勝つことを目標にしたり、優勝を狙っていたり、みんなの考えがちょっとバラバラだったんです。でも、ポルトガル戦に勝ったことでギュっとまとまって、みんなでひとつの目標を見るようになった。みんな、語らずとも同じ画を描けた感じになって、視界が一気に開けたという感覚がありましたね」

 中田は、それ以降、そういう感覚を味わったことがなかったという。

「同じような経験は……うーん、なかなかないですね。ただ、04年アジアカップで優勝したときは、苦しんだ分、チームがひとつにまとまった。雰囲気的には似てるかなぁと思いますけど、ここまでの一体感はなかったと思います」

 準々決勝のメキシコ戦は攻守ががっちりと噛み合い、この大会のベストゲームと言える完勝(2−0)だった。過去破れなかったベスト8の壁を乗り越え、チームは完全に勢いに乗った。つづく準決勝のウルグアイ戦も「負ける気がしなかった」と中田は思ったという。

「『上を目指そう』ってチームがひとつになっていたし、『歴史を変えよう』って、みんながその気になっていました。そういうムード作りをしてくれたのは、サブ組です。みんなが同じ方向を向いてやれるように、彼らがサポートしてくれたんです」

 ピッチ外で戦った選手たちの献身的な姿勢に、中田は胸を打たれたという。

(つづく)

中田浩二
なかた・こうじ/1979年7月9日生まれ、滋賀県出身。2014年シーズン限りで現役を引退し、2015年より鹿島アントラーズのクラブ・リレーションズ・オフィサー(C.R.O)に就任。帝京高→鹿島アントラーズ→マルセイユ(フランス)→バーゼル(スイス)→鹿島アントラーズ

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