江 弘毅  わたしが“維新とW選挙の検証本”を編集した理由──「おもろい」維新が大阪の街の「おもろい」を壊す

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2019年07月05日 07:10  リテラ

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リテラ

『緊急検証 大阪市がなくなる』吉富有治

 4月に大阪府知事・市長の「クロス選」が行われ維新が圧勝した。これは公職選挙法で「任期の特例規定」が定められている「出直し選」とは違う。「クロス選」の悪質なところは、その法の目をかいくぐるために、府知事と市長を同時に辞任し「入れ替えで」立候補した点にある。そもそも任期を延ばすことを目的化して「出直し選」を行うことを禁じる法に対しての「脱法行為」にほかならないのだ。



 と、書き出しただけで「法に触れなかったら何でもやってええんか」とほとんど気分が悪くなるほど疲れるが、「チョット待てよ」とこれまでの維新議員たちのカネ・酒・女性そして選挙の不正問題、維新の党との分裂騒動、森友学園問題、はたまた丸山穂高や長谷川豊両氏のこのところの醜態を重ね合わせたりする。



 なぜ不正や疑惑のデパートであり、そもそも議員としてその資格を問われるようなレベルの人間ばかりの維新が「どうして強いのか」。



「大阪はバカばかりか」「橋下氏が不在となった後もどうして維新が大阪では強いのか」等々、維新を選んできた大阪人について地元のわれわれが問われることが多い。



それについては「大阪人はアホばかりやから」はもちろん論外だ。かといって「長い間、石原慎太郎が都知事をやって。それで今度は小池百合子ですか?」などと逆質問することも無効だ。



 しかし、よく言われる「大阪は『おもろい』が優先される」こととは少し関係がある気がしている。



 大阪という雑多な街に住み、これまた雑多な考え方や言動をする大阪人はそれでも本来的に「知り合いばかりで、みんな良い人おもろいヤツ」という街場の人づきあい上で理想倫理がある。



 街場や町内会でも、籠池泰典氏みたいな顔見知りが必ずいる。極右でわがまま放題、迷惑をかけるそんな年寄りにも「難儀なおじいやなあ」と言いつつ、「近所の人やから」とその人の面倒をみたりする。



公務員を「ええな、宮勤めで」「あいつら景気関係ないもんなあ」とは言うが、同じ街場の人間であり近所の知り合いにも公務員がいるから、直接叩いたりはしない。



 一方で、橋下氏のようにとにかくインパクトのある発言に対しては「口が悪いけど、一理ある」と反応してしまう。政治理念や思想のあるなし、その当否とかではない。「おもろくない人はあかん」という人に対しての理念があるからだ。



「小中学校にエアコンを設置し、給食を食べさせるようになったのは橋下市長だ」など成果の横取りデマについても、「みんな良い人」という人間観が根底にあるから、「よう頑張ってるやん」となしで信じてしまう。



「ファクトチェック、なんやそれ?」であり、今回とくに悪質だった「あいりんを改善したのは橋下市政。西成区・あいりんに近接する地域を地盤とする柳本一家は70年にわたって歴代で議員をしているのに何もしなかった」とのTwitter上のデマにも簡単に騙されてしまう。



●維新の「おもろさ」と大阪が本来持っている「おもろい」は根本的に違う



 けれども、維新の「おもろさ」は、大阪が本来持っている「おもろさ」とは根本的に違う。



 長年、大阪の街の「おもろい」について雑誌メディアを中心として編集し書いてきた。言うまでもないが「おもろい」というのは、テレビのバラエティ番組でお笑いタレントが人を笑わせる「おもろさ」のことではない。



 具体的には大阪の街場のうまいもん屋や酒場などについてであり、大阪の「現場」で長い間かけて実生活で培われた客との接触の仕方、つまり大阪人が他者と関わる際の作法、ものの感じ方や表現の方法なのであり、それをあれこれと抽出して書いてきた。



 われわれは街場で皿の上の料理やショーウインドウの中の衣料品など商品をカネで買っているのだが、その「交換」の際には必ずコミュニケーションがある。



 大阪の飲食店は「一見さんでも常連客扱い」するし、タクシーに乗れば頼んでないのに天気予報や野球の経過を教えてくれる。つまり交換原理からどうしょうもなくはみ出る「贈与的」なものが、「おもろい」かどうかなのである。



 それはまず第一に「あなたとわたしはディールするだけではなく、同じこの街の仲間なのだ」という意思表示であり、だからこそ同じ街場の小屋や寄席で「人を笑わせる商売をする」落語家や漫才師などの芸人は、「商売」を離れても街の人気者でなければならぬ。



「お笑い百万票」などと言われる大阪は、横山ノックを参議員議員と府知事、西川きよしを参議員議員に選んだ土地柄だ。「できることからコツコツと」と言って国会議員になったきよしは、かろうじて街場の旧い芸人である。



 小屋や寄席でカネを払う側のわれわれは「現場」での話芸に「ええぞ」と喝采し、悪かったら容赦なく「引っ込め」とヤジを飛ばし、「もうアンタの話はええわ」とばかり居眠りをしてしまう。



 横山やすしでも同じ街場の一員。寄席の外でもおもろいことをぶっ放せば「さすが天才や」と肩を叩きにいくが、もし殴られたら蹴り返しもする。



 けれどもここ20年で「街場の芸人」は「テレビのタレント」になった。「大阪の街の小屋」から「東京のテレビ局のスタジオ」へ「場」が変わったのだ。街場の相互的コミュニケーションから一方向なテレビ的それへと転換したのである。



 その変化に少し遅れて登場したのが維新であり、橋下徹氏だった。 



●維新の「勝つまでジャンケン」「親の一人勝ち総取り」は街場の大阪人が一番嫌う



 橋下徹氏が「2万%ない」と言いながら大阪府知事に立候補し、「今までグラサンに茶髪。皆さんと同じなんです」と演説したとき、わたしは「うまいこというなあ」と思ったが「同じて、どういうことや。この人は街場の人やない、やっぱりメディア側や」と思った。



 知事就任そして「維新の会」をつくり本格的な政治家となったその後は、「タレントの皮を被った政治家」よろしくメディアできわどい発言をぶっ放す。それが煽動、虚言、騙し、デマ……。またそのような言動を非難されると巧妙にかわしたり、「おかんにさんざん怒られた」などとあとで撤回する。



 わたしは「おもろい言い方かもしれんけど、シャレにならんわ」とメディアを知り尽くした上での悪質さを確信した。



「視聴率」「見出し」こそがすべてのメディアとの共犯関係で、地下鉄でも水道でも公園でも売れるものは売って利益にしてしまえ、という自らのリバタリアン的政治を推し進めていく。役所や新聞メディアといったわかりやすい共通の敵をつくりだし、順番に「ここがおかしいから潰す」「次はこれだ」と攻撃する。



 橋下氏が大阪府知事に就任してからすでに10年以上たって、維新はそれをDNAとして取り込み、マスメディアからTwitterへと装置を増幅し、それに選挙という政治的手法をリンクさせ、再び大阪に二者択一を迫ってきた。



しかし、一度は否決された「大阪都構想」に対しての「勝つまでジャンケン」「親の一人勝ち総取り」は街場の大阪人が一番嫌うところではないか。



 街ネタを扱い続けているわたしが「出来れば政治とは関わりたくない」と思ってきたのは、かけがえのない街場で「友だちを無くしたくない」と考えてきたからだ。



けれど、維新だけは別だ。維新の政治じたいが「日常の人付き合いをこわす」ものだからだ。



 そんなときに、吉富有治氏に出会った。「維新を支持する人が多いのはなぜか」という問題に、わたしのようにうんざりせずに、国政と府と市で気持ち悪いことになっている自民党や公明党の問題点やTwitterの書き込みの問題点などを含め、時系列を追いながら、地べたを這うような筆致で書き続ける。そんな吉富氏の本を作りたいと思った。それが『緊急検証 大阪市がなくなる』(140B)だ。



 この本が出版されたきっかけはFacebookである。クロス選で吉村洋文府知事、松井一郎市長当選から3日後の4月10日に、何の前触れもなく吉富氏がFacebook上で連載を始めた。もちろん選挙の総括と大阪都構想の今後についてのことである。



 その連載が始まる前、選挙戦が始まるやいなや、吉富氏は今回の維新が仕掛けた選挙についての書き込みを始めていた。大阪府市民への悲痛なまでのメッセージに、わたしは「なるほどそういうことか」と思って興味深く読んでいた。



 連載が始まり「お、これは吉富さんやる気やな」と思ったわたしは、「これ速攻で本にしませんか」とFacebookにメッセージした。即座に「こんなん本になるんでしょうか?」と返ってくる。



「絶対いけますよ」と96ページのボリュームと税別800円の体裁イメージ、タイトルや装丁のアイデアも一緒に送ったところ、「実は次回以降の10回分ぐらいまとめてますよ」と返信があった。書かずにはいられなかったのだろう。



 その2日後にはもう13回分の原稿がMessengerを通じて送られてきた。そのままFacebookのやりとりで、ゴールデンウィーク前に原稿をあげて、松本創氏(『誰が「橋下徹」をつくったか──大阪都構想とメディアの迷走』著者)との対談も巻末に入れる、と勝手に決めて突っ走った。



●大阪人の根を知りつくした維新の悪辣な政治手法にどう対抗していくのか



 メディアやSNSのツボを押さえつつ、自民党よりも自民党的な「どぶ板選挙」をやるのが維新だと吉富氏は言う。維新はメディア使いのうまさと、街場での「顔のつくりかた」のマメさを併せ持つのだ。



  市民にすれば、喩えは悪いかもしれないが、例えば「使わな損やで」とタダの食事券が渡され現場へ行ったところ、店が2軒並んでいる。「どっちで食べようか」と迷う。「あの店、吉本の○×が出てるCMやってる。おもろそうや」とそちらに入る。



 酷いクロス選挙の投票率は、府知事選が49.49%、市長選が52.7%、その2か月後の維新の候補が初当選した堺市長選では40.83%。低い投票率で維新が勝ったのは、この部分も大きいのかもしれない。



 大阪人という「根の部分」を維新は知り抜いている。そこにつけこむ橋下徹氏以来の維新の悪辣さがある。



 その維新的なる政治手法にわれわれはどう対抗していけばいいのか。



明解な答えはないが、とにかく維新的な「分断」のアジェンダに乗せられないこと。都構想に反対だ賛成だという立場や考えを超えて、生身の実生活者同士、“街場での「ツレ」、知り合い”という目線で話し合いを始めること。それが第一歩になるような気がしている。



大阪は大都市、都会だ。都会では人は匿名的存在でやっていけるが、大阪の街場では、店と客、あるいは客同士の双方が実名的存在で、どちらも「地元意識」を共有するコミュニティの一員であるようなことが多い。



大都会のなかで人格的な接触があって知り合いになれる他者の数が、有限と見るのか無限と考えるのか、どちらにブックエンドを置くかで、生活哲理ががらりと変わってくる。



 それは同時に、維新的な「おもろい詐欺」を見破る最大のリテラシーになるのではないか。

(江 弘毅)

  1958年、岸和田市生まれ。編集者/著述家。89年『ミーツ・リージョナル』誌を創刊し、12年間編集長を務める。2006年、編集・出版集団140Bを大阪に立ち上げ、編集責任者。主な著書『街場の大阪論』『飲み食い世界一の大阪』『いっとかなあかん店大阪』『K氏の大阪弁ブンガク論』。


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  • 維新は物事の本質をはっきり面白く発言する人が多いからでしょう。
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