奇跡のキャスティングと映像美が紡ぐ 唯一無二の身体の物語『Girl/ガール』の繊細な表現

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2019年07月14日 10:21  リアルサウンド

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『Girl/ガール』(c)Menuet 2018

 黄金色の光のなかで、微睡む少女が目を覚ます。この少女ララ(ビクトール・ポルスター)は男性の性別を与えられて生まれたが、心は女性であり、医療手段によって女性になることを望んでいるトランスジェンダーである。理解のある優しい父親がそばにいながらも、ララは胸の内を口に出すことなく、彼女の心の在りようとは裏腹に隔離していく身体を抱えるその苦しみを、一身に引き受けている。映画はララが言葉によって発露させずにいるその痛みを、映像によって繊細に表現していく。それはたとえばトウシューズで圧迫され血塗れになった足の指であり、脚と脚の間のテーピングの赤い跡であり、堪えるようにして固く噛まれた唇であったりする。


参考:ルーカス・ドン監督が語る、賛否両論の『Girl/ガール』に込めた思い 「つながりを感じてほしい」


 ララは女性になることと等しく、バレリーナになることを夢見ている。バレリーナになるにあたって、身体がいかに重要であるか。昨年公開されたバレエ映画『ボリショイ・バレエ 2人のスワン』(2017年)でも、バレエをするための身体として思うように自身の身体が成長していかない生徒が、次々と脱落していく残酷さが克明に描かれていた。ましてやララの身体は男性であり、その厳しさは苛酷を極める。だからこそ本作では、バレエという要素がより一層ララの身体の問題を顕在化させ、カメラは映画を通してララの身体を追い続ける。その身体を持つビクトール・ポルスターという奇跡のキャスティングと、ルーカス・ドン監督による映像美が紡ぐ、唯一無二の身体の物語がここに生まれた。


 しかしこの映画は、手放しで称賛されたわけではない。一部の批評家からは、トランスジェンダーの役者が演じずにシスジェンダー(割りあてられた性別と自認している性別が一致している人)が演じていることや、トラウマ的な残虐描写に対して批判の声も上がった。実際、メインのトランスジェンダー役をトランスジェンダーである役者が演じた映画は数少ない。第90回アカデミー賞で外国語映画賞を受賞した『ナチュラルウーマン』(2017年)や、日本公開未定の『Port Authority(原題)』(2019年)などがあるものの、ほとんどの映画でシスジェンダーの役者が演じているのが現状である。しかもそれは表現のリアリティの問題に留まらず、トランスジェンダー(俳優)の労働の問題とも絡んでいるために、より根深い問題として議論が続けられている。


 また、トランスジェンダーを描く映画と暴力表象は分かち難い関係でもある。同じくティーンのトランスジェンダーを描いた『アバウト・レイ 16歳の決断』(2015年)や、『ボーイズ・ドント・クライ』(1999年)、『わたしはロランス』(2012年)、『リリーのすべて』(2015年)など、多くの映画でトランスジェンダーのキャラクターは自ら身体を痛めつけたり、暴力に曝されたりする。本作でも批判の対象となった目を背けてしまいたくなるような描写があるものの、それはトランスジェンダーが対峙している痛みやつらさの、映像表現に他ならないのではないだろうか。


 本作は、ルーカス・ドン監督自身に起きたジェンダーに対する幼い頃の混乱の記憶が投射されているという。彼は周囲の期待に迎合するため、自身の「女性らしさ」を封印し、「男性らしさ」と共に生きることを選んだ。そんな彼にとって、自らの望む性別で生きようとする揺らがない精神を持つララ(そして、ララのモデルとなったノラ・モンセクール)は、憧憬の対象以外のなにものでもない。かつての監督のように、ジェンダーという隘路に迷い込んでしまった経験を持つ人は、決して少なくないだろう。まるで綺羅星を見るかのように向けられたララに対する監督の憧憬のまなざしと同化するようにして、私たちにもまたララが眩しく映る。


 光を全身から放ちながら、彼女は休むことなく妄執的に踊り続ける。意図的にピルエットが繰り返される振り付けによって、何度も何度もまわり続ける。まわるというのは、ただひたすらその場で動作を繰り返すことでしかなく、前に進むことでも、どこかへと移動することでもない。望む女性の身体へトランジションしていくことなく、男性のまま止まってしまった身体で在り続けることは、彼女にとってその場でまわり続けることと同然なのかもしれない。そしてそんな彼女のもどかしく先走る感情が、ついには悲劇を招いてしまう。しかし、その悲劇を超えた先の彼女の清々しい顔を見れば、それが彼女にとって必要な悲劇であったことにもまた気が付く。


 クライマックスに向けて、ララの舞踊は激しさを増す。終盤のリハーサルのシーンでは、舞台上でララを照らす青の光のなかに、橙の光が入り混じって映し出される。それは炎の表象に違いない。彼女の望む身体と踊ることへの渇望が、燃ゆる炎となってスクリーンに焼き付いている。そんな熱い幻視に魅せられたなら、ララの行く先の幸福をきっと願わずにはいられなくなる。(児玉美月)


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