『トイ・ストーリー4』なぜファンが戸惑う内容になったのか? 作り手のメッセージから読み解く

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2019年07月18日 10:21  リアルサウンド

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『トイ・ストーリー4』(c)2019 Disney/Pixar. All Rights Reserved.

 『トイ・ストーリー』第1作(1995年)は、ピクサー・アニメーション・スタジオの最初の長編作品であると同時に、世界初の長編フルCGアニメーション作品でもある。CGによる表現がアニメーションの主流になりつつあるいま、世界初の長編アニメーションである、ディズニークラシック『白雪姫』(1937年)と同様に、それはアニメーションの変革を象徴する重要な作品となったといえるだろう。


参考:『トイ・ストーリー4』ジョシュ・クーリー監督が語る、ピクサーに宿るジョン・ラセターの精神


 CGという発達段階の表現手法がとられていることから、新作が作られるたびに飛躍的な進歩を遂げてきた、このシリーズ。全体的にバランスが安定し、作品として円熟の域に達した『トイ・ストーリー3』では、アカデミー賞長編アニメーション賞を受賞するなど、大きな評価を受けた。なかでもその結末は、シリーズを締めくくる“完璧な”ラストだと賞賛されることが多い。


 だが、ここで紹介するシリーズ第4作『トイ・ストーリー4』は、そんなファンや多くの観客に大きな驚きをもたらす作品となった。新たに描かれた結末では、前作の“完璧な”ラストを覆し、第1作から積み上げてきた価値観に一部反するように感じられる展開が用意されているのだ。この結末を受け、「納得できない」と語る日本のファンも少なくない。


 なぜ本作『トイ・ストーリー4』は、このような内容になったのか。ここでは製作の背景や物語の内容を振り返りながら、その理由を考察していきたい。


 『トイ・ストーリー3』が、物語の素晴らしさで話題を呼んだ作品だったように、ピクサーの長編作品は、大勢のスタッフたちによるディスカッションを経て、数年がかりで脚本を完成させていくのが普通だ。これは、多くのアニメーションスタジオにしてみれば異例の対応である。


 なぜピクサーは脚本にここまでこだわるのか。それは、長い製作期間を経て作り上げられるアニメーション作品には、“語るべき物語”が必要だという信念が、スタジオに醸成されているからである。今回はとくに、シリーズ第1作を作った中心人物たちが集まり、第4作のアイディアが、続編として足るものかどうかが話し合われたという。そう、“売れるから物語を作る”のではなく、“語るべき物語がなければ作らない”のがピクサーなのだ。だからこそ、そこに込められたメッセージは価値を持ち、ピクサーのブランドイメージを高めてきたのである。その基本は、これまでの製作を統括し、本作の完成前にスタジオから離脱したジョン・ラセターを中心に固められたものだ。


 本作で新しく登場するのが、“フォーキー”というキャラクター。それは、本シリーズの主人公ウッディの新しい持ち主である少女ボニーが、プラスチックの先割れスプーンにモール紐を巻きつけ、シールを貼り付けただけの簡素な手作りおもちゃである。


 ボニーにとって大事なお気に入りであるとはいえ、フォーキー自身は自分のことをゴミだと思っていて、自分からゴミ箱へと入っていきさえする。ボニーにとってフォーキーが重要な存在であることを知っているウッディは、根気強くフォーキーの面倒を見て、彼におもちゃとしてのアイデンティティを持たせようとする。


 本来は使い捨てとして作られた先割れスプーンがベースとなっているフォーキー。そんな存在が意識を持ったとき、自分をゴミだと認識したというのは、ある意味当然のことかもしれない。彼は与えられた役割を全うしているだけなのだ。しかし、彼はウッディの助けや数々の出会いもあって、自分にはそれ以外の可能性があり、設定された役割を超えた幸せがあるということに気づき始めることになる。


 そんなフォーキーの姿を目にしていると、本シリーズが描いてきたような、“子どもに遊んでもらう”ことが、おもちゃの最も重要な役割であり幸せだという、第3作のラストに疑問が出てくるはずである。なぜなら、ウッディたちもまた、おもちゃ本来の役割に従っているだけだからだ。


 「本来の役割を生きることに何の問題がある?」と思うかもしれない。だがその考えは本当に全てのおもちゃに当てはまるのだろうか。


 現実の世界に生きるわれわれ人間も、幼少期から大人になるまで、いろいろな場面で、あるべき生き方や将来を示される場合がある。例えば、条件の良い就職先を見つけて、異性のパートナーと一緒に家庭を持ち、子どもを育て上げ、老後を迎えるというような、“万人向けの幸せ”である。国や地域、生まれた家や周囲の環境によって、その内容は異なるだろう。


 しかし、そのような生き方や趣向にそぐわない人や、それを手にできない人はどうすればよいのか。そんな人は“本来の生き方”ができていない、不幸せな人間なのだろうか。示される幸せのロールモデルというのは、ときとして、そこから外れた者にとって、一種の圧力をともなうものになるのではないか。


 シリーズ第3作は、その意味においては多様な幸せのかたちというものを、しっかりと描き得てはいないように思える。子どもを中心とした観客たちに向けた作品として、それは本当に“完璧な”ラストだったといえるだろうか。


 そのことを自覚的に表現しているのが、本作におけるウッディの境遇である。彼はかつての持ち主だった少年アンディの一番のお気に入りだったが、ボニーのお気に入りのおもちゃにはなれず、クローゼットの中で不本意な思いを抱きながら生きることになる。そして、フォーキーを助けることで、間接的にボニーを幸せにしようとするのだ。ウッディには、もはやそのくらいしかやれることはない。どうしても、隅で忘れ去られてしまうおもちゃというのは、出てきてしまうものなのである。


 そんなウッディに、運命的な出来事が起きた。ボニーのキャンプ先で、かつての仲間である、陶器製の人形ボー・ピープと奇跡的に再会するのだ。彼女は持ち主が変わっていくことであちこちが破損していたが、いまでは最後の持ち主だったアンティークショップから脱出、以前までとは装いも変わり、活動的に人生を楽しんでいた。つまり彼女は、本来の役割から外れても幸せに生きることができる新たな存在だったのだ。


 西部劇のヒーローを気取るように「オレは古いおもちゃさ」と語っていたウッディは、ボーとの出会いを経て、フォーキーの生き方を自らが変えたように、自分自身もこれまでの生き方や価値観を変化させようとする。いままで信じていた生き方から抜け出すことは、つらく困難なことだ。しかし、人が生まれながら幸せを追求する権利を持っているように、意志を持ったおもちゃもまた、好きな生き方を選んでもいいのではないだろうか。


 本作のラストでは、「何で生きてるんだろう?」という“問い”が投げかけられる。『トイ・ストーリー3』までならば、「それは子どもを喜ばせるため」という明確な答えが用意できたかもしれない。だが本作はその問いに対し、「何でだろう…?」という、答えにならない疑問が発せられて終わっている。自由意志を獲得したおもちゃたちは、すでに人間と同等の存在である。人間がどんな生き方をも選ぶことができるように、おもちゃもまた、無限の選択肢が与えられることで、唯一の目的を失ったのだ。


 自分が存在する明確な理由がないということは、たしかに不安だ。与えられたレールを失い、道なき道を走っていくことは、危険だし失敗も多いはずである。しかし、だからこそ生きる実感や価値があるといえるのではないだろうか。


 シリーズのファンが戸惑い、居心地の悪さを覚えるのは、このような哲学的とすらいえるメッセージが、これまでの作品に内在していた無自覚な圧力を暴き出してしまっているからだろう。その事実を突きつけられることで、いままでのファンであればあるほど、本作に責められているように感じてしまうのである。だから、「このシリーズでこういう内容は描かないでほしかった」という声が挙がることになってしまう。


 そんな観客をフォローする意味として、ウッディと同じように“古いおもちゃ”である、ギャビー・ギャビーというアンティーク人形が登場する。彼女は子どもに遊んでもらうという、本来の使われ方を経験することがなく、それでも本来の役割を果たすことに執着しているキャラクターだ。そんな彼女の生き方を批判的に描かないことによって、本作はレールから外れない生き方をも肯定している。なぜなら、それもまた多様な生き方のひとつであるからだ。つまり本作は、これまでの作品を否定するというよりは、描きくわえていると表現した方が正確かもしれない。


 物語を“きれいにまとめあげる”ことと、“真実を伝える”ということは、ときとして反発することがある。なぜなら、真実は脚本の都合に合わせて、かたちを変えてくれるようなものではないからである。


 作り手は、本作がこれまでのファンにショックを与えるかもしれないことを予期できていたはずである。だがここでは、そのようなリスクを引き受けながらも、作り手が本気で信じている、“自由に生きよう”というメッセージを観客に、子どもたちに伝えようとしている。それは、なんと真摯な姿勢だろうか。


 『トイ・ストーリー』第1作から中心となり、常に作品の方向性を示していたジョン・ラセターは、スタジオを去った。そんななかで完成した本作は、それでも作品づくりの魂を痛いほどに叩きつける長編アニメーションとなった。その意味で、新たな可能性に踏み出すことを宣言した『トイ・ストーリー4』は、ラセター無きピクサーの新たな出発にふさわしい作品であるともいえるだろう。(小野寺系)


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