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愛甲猛が証言。球界の革命児がオヤジと呼んだ本物のフィクサーの存在

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2019年07月23日 06:21  webスポルティーバ

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根本陸夫外伝〜証言で綴る「球界の革命児」の知られざる真実
連載第1回

証言者・愛甲猛(1)

 根本陸夫――1950年代、近鉄の捕手だった現役時代は、実働わずか4年で輝かしい実績もない。それが引退後にスカウト、コーチで経験を積み、1968年から広島の監督。のちの”赤ヘル軍団”カープの基礎を固め、1979年からは西武の監督および管理部長(GM)として王国をつくり上げると、1993年から移ったダイエー(現・ソフトバンク)でもチーム強化に尽力した。

 その辣腕ぶりから「球界の寝業師」とも呼ばれ、とくに有望新人獲得の手段をめぐっては、球界内で問題になることもあった。だが、いずれも前身球団から低迷していたライオンズとホークス、2つのチームに実力と人気をもたらし、パ・リーグひいては球界全体を好転させたという意味で、根本は「日本プロ野球に革命を起こした男」と言えるだろう。

 1999年1月、根本はダイエーの球団社長へと上り詰めたが、同年4月に72歳で急逝している。しかし、根本の”遺産”は時を経て風化するどころか、今でも確かな影響を球界に与えている。

 スポルティーバでは2014年に『根本陸夫伝〜証言で綴る球界の革命児の真実』という連載を開始し、2016年にはこれを一冊にまとめた『根本陸夫伝〜プロ野球のすべてを知っていた男』が上梓された。だが、根本陸夫の知られざる真実はまだ尽きることがない。

 そこで『根本陸夫外伝〜証言で綴る球界の革命児の知られざる真実』と題して、新たに連載を始めたいと思う。最初に登場いただくのは”球界の野良犬”こと愛甲猛氏。チームも違うふたりを結んだ意外な人物とは?

 1994年のシーズン中、6月の半ばだった。千葉マリンスタジアム(現・ZOZOマリンスタジアム)でのロッテ対ダイエー(現・ソフトバンク)戦は試合前から雨となり、室内での練習中に中止が決まった。ロッテの練習が終わり、入れ替わりでダイエーナインが入ってきた時のことだ。愛甲猛がロッカーへ向かって歩き始めると、すれ違いざま、目が合って呼び止められた。

「お前、まだ投げられるか? ピッチャーできんだろ?」

 ダイエー監督の根本陸夫だった。室内練習場でなければこんな鉢合わせもなく、唐突に聞かれて驚いた愛甲だったが、とっさに答えていた。

「投げられないことはないですよ。投げろって言われれば、投げられますけど……」

「じゃあ、うちに来いよ、お前。(投手と野手の)両方でやれ」

「ほんとですか? 引っ張ってくださいよ」

 投手として入団した愛甲が野手に転向して以来、10年が経過していた。88年から一塁のレギュラーに定着して外野もこなし、パ・リーグ記録(当時)の535試合連続フルイニング出場も達成。節目の通算1000本安打も記録したばかりだったから、さすがに”二刀流”に現実味はなかった。

 それでも、トレード期限の6月30日(当時)が迫っていただけに、単なる冗談では片付けられない要請とも思えた。プロ14年目を迎えてロッテの選手会長に就任していた愛甲自身、チームに不満を持っている時でもあったし、そもそも根本が現場の指揮官という枠におさまらない野球人であることも知っていた。

 ダイエー以前、根本は広島、クラウンライター、西武で監督を務め、各球団で実質的なGM(ゼネラルマネージャー)としても手腕を発揮。75年に初優勝した”赤ヘル”カープの基礎を固め、80年代から90年代にかけての西武黄金期を築いている。その辣腕ぶりから”トレードの名人”と称され、新人獲得で裏技を駆使したことから”球界の寝業師”と呼ばれた。

ヘッドハンティングされる形で招かれたダイエーでは、監督に加えて代表取締役専務、球団本部長を兼務。グラウンドでの指揮からチーム編成、フロント業務まで掌握する立場にあった。1999年4月に急逝したが、同年1月から球団社長に就任していた。

 愛甲自身、その時点までの根本の実績を把握していたとはいえ、冗談か否かは別にして、根本が気軽に声をかけるような他球団の選手は滅多にいなかったはず。まして、過去に根本監督のチームでプレーした経験もない。なぜ、そのような関係性ができていたのか。愛甲に聞いた。

「僕の親父代わりだった人が幅敏宏(はば・としひろ)さんという方で、プリンスホテルの総支配人だったんです。初めて会った時にもらった名刺にそう書いてあって、『オレが今、担当しているのが池袋、新宿、高輪、品川、赤坂だ』って聞きました。その関係で、池袋のプリンスホテルに遊びに行ったとき、根本さんが来られて、初めてお会いして。もうロッテに入ったあとだったと思いますが、少し話もしました。当時はまだ、根本さんといえば西武の監督をやっている人、というイメージしかなかったんですけどね」

 神奈川の逗子に生まれた愛甲は、5歳の時に父・勇夫と別れている。勇夫は大洋漁業で鯨捕りをしていたが、鯨漁が不景気になって退職。代わりに始めた運送業も破綻すると、妻とふたりの子ども、そしてトラック数台分の借金を残し、「女をつくって」家を出ていってしまった。

 ただ、スポーツ万能だった勇夫は大洋漁業の社内野球で活躍し、大洋(現・DeNA)球団のスカウトも視察に来たほど。愛甲が横浜高に進学すると、父を知る人から「やっぱり、猛は勇夫の子だねえ」と言われたそうだが、「親父代わりの人」とはどういう縁だったのか。

「高校3年、夏の甲子園が終わって、地元に帰ってきてからです。家に電話がかかってきまして、『一度、会いたい。メシを食おう』ということで。どういう人なのか、わからなかったんですけど、池袋のプリンスに呼ばれて、一緒に食事をして。『まあ、泊まっていきな』と部屋まで用意してくれて、というのが最初の出会いです。それで聞いてみたら、その人の自宅が鎌倉逗子ハイランドっていう西武グループが造成した高級住宅地にあって、僕の家から歩いて10分ぐらいのところだったんです。『近いから一緒に帰ろう』って、タクシーで一緒に帰ったこともありました」

 西武グループのプリンスホテルは、1978年9月に硬式野球部の結成を発表。翌79年の日本社会人野球協会(現・日本野球連盟)加盟に向けて、プロ球団も狙っていたドラフト上位指名候補を獲得していく。代表的な一期生は内野手の石毛宏典(駒澤大)、捕手の中尾孝義(専修大)、堀場秀孝(慶應大)で、総勢30名の大学生、高校生が集結した(3回目の入社内定発表時)。

 そして、その直後に西武ライオンズが誕生したのだが、同一資本がプロとアマの野球チームを同時に持つのは初めてのケース。そのため既存のプロ球団に大きな脅威を与え、「西武は大学や高校の有望選手をプリンスホテルに入社させて、ドラフト外でトンネル入団させるのではないか」、「西武はプリンスを実質的なファームにするのではないか」といった疑惑が真剣にささやかれていた。

 1980年夏の甲子園優勝投手で、同年のドラフト上位指名候補だった愛甲。総支配人という立場ながらプリンスホテルから声をかけられたわけで、事実上、硬式野球部にスカウトされたということだったのか。

「10月頃から頻繁に、ハイランドの幅さんの自宅に遊びに行くようになったんです。息子さんがふたりいて、お兄ちゃんは僕より年上でした。だから、お付き合いさせてもらっているうちに『幅家の次男』って言われるようになって。僕は僕で『オヤジ』と呼ばせてもらって。そしたら『プリンスへ来い』って話になったわけです」

 幅は、同ホテル生え抜きの取締役総支配人で、立場的にはホテルマンとしての石毛の才能を見込んだことで知られる古川澄男と変わらない。ただ、古川が東京プリンスグループの総支配人だったのに対し、幅は愛甲が言うとおり5つのプリンスグループを取り仕切っていた。すでに故人だが、最終的には副社長にまで上り詰めている。

「プリンスにいろんなところからいい選手を獲ってきたり、西武にいい選手が入ったり。全部、裏で動いていたのがオヤジだったんです。表向きは根本さんがフィクサーで、いろんな裏工作をしていたように見えて、じつはオヤジが動いていた。だから、その当時の根本さんにとって幅さんは親分的な存在で、本当のフィクサーですよね。だって、根本さんが『オヤジ』って呼んでいたんですから」

(つづく)

(=敬称略)

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