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本人が自負。「巨人V9を支えたのは柴田、高田、土井、黒江の好走塁」

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2019年08月16日 06:51  webスポルティーバ

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「令和に語る、昭和プロ野球の仕事人」 第3回 柴田勲・後編

 平成の世にあっても、どこかセピア色に映っていた「昭和」。まして元号が令和になったいま、昭和は遠い過去になろうとしているが、その時代のプロ野球を盛り上げた多彩な選手たちのことを忘れてはならない。

 過去の貴重なインタビュー素材を発掘し、個性あふれる「昭和プロ野球人」の真髄に迫るシリーズ。前回に引き続き、日本における”元祖スイッチヒッター”として6度の盗塁王に輝き、ジャイアンツのV9に貢献した柴田勲さんの証言を伝える。

* * *

 甲子園優勝投手として、あこがれの巨人軍に入団。ところが、1年目のシーズンを終えた1962年の秋に、早くも打者転向、しかも「左でも右でも、両方打ちゃあいいんだ」とスイッチヒッター挑戦を言い渡される。

 ただ、柴田さん本人にすれば、前例がないだけに厳しかったに違いない。どのような工夫をしたのだろうか。

「いやぁ、最初は何にもわかんなかったからさ、左打ちをやるんなら、左手を器用に使えるようにしよう、と。じゃあ、何をするにも左手だってことで、いつも右手はポケットに入れておく。煙草を吸うのも左手、箸を使うのも左手。何を食べるときもね、こうやって左手しか使わない」

 柴田さんはそう言うと左手でフォークを持ち、サラダをすくった。実際、手慣れた感じだった。

「ね? こういう工夫をやってみたわけよ。でもね、これが全然、バッティングとは関係ない。やってみて、よーくわかりました」

 思わずドッと吹き出してしまった。効果が得られなかった方法を、ここまで丁寧に説明する野球人、過去に誰もいなかった。

「打つのと、実生活で左手を使うのは関係ないんだね。やっぱり、スイングで作っていくしかない、ってことで、それからバットを振り始めた。初めてだから戸惑ったけど、それなりに形にはなってたかな。本当はバット長く持って、左でも、もっとホームラン打ちたかった。でも、結果を出すために一握り半ぐらい空けて、短く持ってね」

 2年目の63年、柴田さんはファームでスタート。当初、モーリー・ウイルス(ドジャースで活躍したスイッチヒッター)を目指してショートを守っていたが、手薄になっていた外野に再転向する。徐々に打撃面も向上して一軍昇格を果たすと、5月11日の国鉄(現・ヤクルト)戦、この試合で初めて、1番・センターでスタメン出場。25日からの広島戦ではプロ初本塁打をマークした。

「あのときは長谷川良平さんから打って、翌日、大石清さんからまた打って2試合連続ホームラン。それからレギュラーになれたの。で、初ホームランはまだ慣れてない左打席だったから、確かなきっかけになった。それで自分で自信がついて、これならスイッチでやっていけると思ったから……。でも、オレはもとから流すのはうまくなかった。イチローみたいに、グッと引き付けて、ポーンと逆方向に打てない」

 子どもの頃の記憶でおぼろげながら、左方向への打球も結構あったのではないだろうか。

「うん。なんかね、イメージとしてはバット短く持って流した、というのがあるみたい。でも、あれは振り遅れてたまたま行っただけ。基本的に全部、引っ張りだったから、同じ右ピッチャーでも、真っすぐとかスライダーのピッチャーは案外うまく打ったけど、緩いカーブとかシュートピッチャーは苦手だった。だから、左打席の打率はよくなくて、サード、ショートに転がして内野安打になる率も高くなかったと思うね。高かったら、トータルの打率はもっと上がっただろうし、3割も3回か4回は打ってたかなぁ」

 実のところは引っ張りが基本だったため、足で稼げるヒットは少なかった。打率3割以上なしでの2000安打達成には、そんな背景があったようだ。ここで田中幸雄の2000安打達成について聞いてみる。

「おお、そうそう、ずっとオレ1人だったんだよな、3割打ってないのは。それで幸雄がやっと入ってきてくれた。はっはっは。いや、彼は打てるチャンスがあったと思うんだよ。でも、オレは3年間だけ右バッターに転向したり、遠回りしたからね」

 文献資料を見て初めて知ったことだが、柴田さんは68年から右打ちに戻っている。その長打力を生かすため、打順は1番から5番になった。ONの後を打つ5番が不安定、というチーム事情があったなかでの再転向で、同年は自己最多の26本塁打。69年には3番も打つと、7月の阪神戦ではプロ初にして生涯で一度の4番を任され、江夏豊から本塁打を放っている。しかし、同年、翌70年も打撃不振で規定打席に達せず、それが柴田さんにすれば「遠回り」なのだろう。

「まあ、そんなことでオレは3割打てなかったけど、足とか、守備とか、走塁とかで、それはもう打率にしたら2〜3分の貢献はしたと思ってる。足にはスランプがないから、どんなに打つほうで調子悪くても休ませてもらえなかった。それで17年間もレギュラーで、2200試合も出たんだからね」

 そうなのだ。3割がなくても2000安打とは、チームに不可欠な足があったからこそ積み上げられた数字なのだ。その点、柴田さんの足で驚異的なのは、63年、打者として1年目で43盗塁をマークしていることだ。当時、すでに盗塁の技術は身につけていたのだろうか。

「いやいや、技術っていうか、盗塁の技術ってそんなにいらないんだよ。いかに、走ろうという意欲があるかどうか、それだけだからね。意欲のない選手に『走れ』って言ったって、絶対に無理。これは教えることができないものなの。オレの場合、塁に出たらすべて走るって意欲があったと思うし、当時、クイックをやってるピッチャーはごくわずかで、結構、大きなクセのあるピッチャーも多かった。だから、それだけ走れたと思うんだ」

 クセを盗む技術があったというより、今の野球よりも走りやすい状況があって、なおかつ意欲があったから数多く走れた、ということなのだろうか。

 ともかく、柴田さんは翌年以降も走りまくり、66年に46盗塁で初のタイトルを獲得すると、67年は70盗塁という破格の数字で2年連続盗塁王。この年から着用していた手袋が赤色で、それが斬新だったことで[赤い手袋]もしくは[赤い怪盗]というニックネームがつけられた。当時の球界では、赤色のものを身につけること自体、珍しかったのだ。

「赤もそうだけど、手袋をつける人はほかに誰もいなかった。素手で打たないと怒られた時代だよ。だから初めは素手で打って、塁に出たらつけてたんだけど、2年ぐらいして、面倒なんで手袋して打つようになったの」

 手袋のみならず、スイッチも前例がなかったのだ。ほかに誰もやっていないことを果敢にやってのける──。その姿勢が、柴田勲という選手のセールスポイントを作り上げたのだと思う。

「いやいや、果敢じゃないのよ。たまたまなんだよ。あくまでも結果的に、赤い手袋がセンセーショナルに見られた。それも70盗塁なんてできた時代だったからであって、今はみんなクイックをやる、ビデオが発達してピッチャーのクセも直されちゃう。オレが走ってたときよりも、今のほうが盗塁は難しくなってるよね。ということは、難しいからこそ、成功させるには技術以上に気持ち、意欲が大事なんじゃないかな。これは盗塁だけじゃなくて、走塁でも同じことだから」

 あくまでも意欲。柴田さんは一瞬、天井を見上げ、グッと身を乗り出して言った。

「たとえば、ワンアウト、ランナー一塁。センター前、ライト前にヒットを打って、それで『三塁まで走って来い』ってコーチがいくら言っても、走者にその気がなければ走れない。でも、そこに打球が飛んだら三塁まで走る、っていう意欲が最初から走者にあって、準備さえしとけば、サードコーチャーなんか見なくたって行けるんだよ。

 で、昨日の試合、ワンアウトでホリンズが一塁にいて、二岡がセンター前に打った。センターが突っ込んできて後逸して、ホリンズがギリギリでホームに還ってきた。このとき、二岡はカットマンの動きを見て二塁で止まったけど、走る意欲があれば、三塁まで行けてるよ。足の状態が悪いのかもわかんないけど、バッターは打ったらもうバッターじゃないの。打った瞬間から走者なんだから」

 6月10日(2007年)の巨人対日本ハム戦。1対3と巨人がリードされて迎えた9回裏、二岡智宏のタイムリー二塁打で1点差に詰め寄った場面についてだった。

「で、もし三塁まで行ってればの話よ。行ってれば、次の脇谷のヒットでホームに還ってこれて同点なわけよ。それがね、二塁で止まっちゃって還ってこれないってのは、1年間の戦いを通してみれば目立たないプレーなんだけど、実はものすごく大きいんだよ」

 最終的に巨人は同点に追いつけずに負けた。走る意欲のなさが負けにつながった試合だったと言えそうだ。

 柴田さんは視線を落として腕時計を見た。もう12時15分は過ぎていたので僕は焦ったが、「だいじょぶ、あと5分」と言ってコーヒーを飲み干した。

「だからね、チームに走る意欲のある選手が何人いるか、もしくは、相手をだませるような賢い走塁ができる選手が何人いるか、だと思う。そういう選手が多ければ多いほど、少ないヒットで点が取れる。ところが、そういう選手がいなければ、一昨日のジャイアンツみたいに、ホームランでガバーン、ガバーン、ガバーン、ガバーンでしか点が取れない。そうすると、競ったときに弱いんだよね」

 一昨日=6月9日の楽天戦における巨人は大量12点を取ったが、すべて本塁打による得点だった。まさに一昨日とは打って変わって、昨日=10日の日本ハム戦は1点が取れず接戦を落としたのだ。

「それでオレ、思い出すのはね、V9時代は確かに王(貞治)さん、長嶋(茂雄)さんがいた。ピッチャーもよかった。でも、その一方にオレと高田(繁)と土井(正三)、それから黒江(透修=ゆきのぶ)さんがいた。このへんはね、しっかりした野球ができたの。ただ打って、走って、守るんじゃなくて、常に好走塁ができる選手がチームに4人いたんだよ。だから、たとえばオレが三塁ランナーで、バッターが土井だったら、セーフティースクイズだって成功してるよ」

 聞いた途端、リアルタイムでは見ていない往時の野球が頭を駆け巡った。すなわち、65年から73年にかけて、日本シリーズ9連覇を成し遂げた野球──。今の巨人に足りないものが解き明かされるなかで、図らずも、V9を支えた機動力の素がありありと想像できた。好走塁のできる選手がそろっていたからこそ、当時の巨人は勝ち続けられた、と柴田さんは言っている。

「好走塁ができる選手、今はいないとは言わない。少ない、と思うな。アメリカに比べたら本当に少ない。向こうでも強いチームっていうのは、走者一塁でヒット打ったら、必ず三塁に行くよね。芝生が深いから、打球が死ぬから、ということもあるかもわかんないけど、でも、見ていて意欲的だよね。ガイジンさんのほうが。今のジャイアンツだったら、ホリンズを見ててごらん。彼はホントにねぇ、ワンヒットでビャーッと一塁から三塁に、っていう意欲あるよ」

 柴田さんはホリンズの能力を素直に見て、評価している。デビルレイズで05年に13本塁打、06年に15本塁打を放った実績がありながら、開幕時は8番を打っていたその助っ人に対し、ファンの間で「本当に必要なのか」という声も出ていた。が、じつは助っ人ホリンズこそが、V9時代の好走塁を見せてくれる選手だったとは……。

「でもね、ガイジンさんは日本の野球に慣れてくると走らなくなっちゃうからな。ホントは鈴木尚広みたいな選手をね、なんとかしたいと思ってる。ただ、オレがもしも監督の立場だったら、盗塁できる選手が1人よりも、好走者が4人か5人ほしい、と思うだろうな。そういうチームが強くなる。うん」

 その強いチームの頂点が、V9時代の巨人──。

「当時、みんなそれぞれ自分の役目を果たすっていう意識が強かったね。で、みんな仲悪いんだから。いやホントに。要するに、仲良しチームじゃないの。今の人はミスするとなだめるよね。当時は『おまえのミスで!』と怒る。言われたほうも『この野郎!』となる。それが試合になるとひとつにまとまるんだけど、試合から離れたら、てんでんばらばら。そういうチーム、もしも今あったら絶対に強いよ」

(2007年6月11日・取材)

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