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箕内拓郎がW杯で感じた最後の差「60分しかラグビーをできなかった」

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2019年09月11日 07:31  webスポルティーバ

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レジェンドたちのRWC回顧録 2003年大会 箕内拓郎(前編)

 2003年は、日本ラグビーにとって変革の年だった。その年の9月23日の土曜日、国立競技場でトップリーグがスタートした。社会人の全国リーグ創設は、日本ラグビー界にとって世界へ挑戦する意欲の表れだった。

 その開幕直後の10月、第5回ラグビーワールドカップ(RWC)がオーストラリアで開催された。向井昭吾監督率いる日本代表は、4戦全敗に終わった。ただ、フランス、スコットランドを脅かし、海外メディアからは「ブレイブ・ブロッサムズ(勇敢な桜の戦士たち)」と評され、3試合を行なった高温多湿のタウンズビルという街では、地元ファンの支持もつかんだ。

 そのときの主将が、当時27歳の箕内拓郎さん(NEC−NTTドコモ−日野レッドドルフィンズFWコーチ)だった。8月某日。テレビのラグビー解説のあと、東京・秩父宮ラグビー場近くで16年前のRWCを振り返ってもらった。グレーの短パンに黒色のTシャツ姿。胸にはラグビーの「R」という文字が描かれている。

 あのときのRWCを一言で、と聞けば、「楽しかったですね」と箕内さんは表情をやわらげた。

「僕自身、日本代表としてワールドカップを戦うって、ラグビーを始めた頃から夢とまではいわないまでも、一番の目標としてやっていましたから。国歌を歌いながら、興奮したのを覚えています」

 あの大会、豪州全体がワールドカップで盛り上がっていた。いい思い出なのだろう、ワールドクラスのナンバー8だった箕内さんは話をしながら愉快そうにからだがゆれている。

「オーストラリアの空港に降りた時から、ワールドカップ一色で迎えられました。日本ではそういう空気はまったくなかった。試合でも、大観衆とまではいわないまでも、多くの日本人以外の外国人から応援されて、幸せな気分になったんです。グラウンドでピッチインする時、”ああ、こういうところでプレーできる選手になったんだ”という感慨深いものがありました」 

――2003年RWCの日本代表ってどんなチームでしたか。

「大会前の結果が悪かったので、期待はされていなかったでしょうが、何かこう、いいチームだったんです。向井さん(監督)が必死で強化してくれて。オンとオフがはっきりしていました。からだを張る人間がいて、一緒にいて熱くなる部分だったり、鳥肌が立つような部分だったり…」

――チームスローガンは覚えていますか。

「これ、忘れていたら、向井さんに怒られますよ。”スピード・アタック”です。たしか向井さんのノートの表紙にスローガンのシールが貼ってあったんです。なんで、向井さんだけ、このシールを持っているんだろうってずっと思っていました」

――大会の準備はどうでしたか。

「春合宿を(オーストラリアの)タウンズビルでやりました。今と比べると比較にならないですけど、対戦相手の分析もやっていました。メンバーを発表して、網走で合宿して、そのあたりから、チームがすごくガチっとまとまるというか、チーム力が上がったのを感じましたね。これはもう、腹をくくってやらないといけないっていう覚悟ができました」

――箕内さん以外でからだを張る選手とは。

「この間、当時の試合の再放送をやっていたんですが、みんな、必死にやってるなと思いました。ブレイクダウンでも、アタックもタックルも。熱い選手が多かったです」

――箕内さんは年齢的には中堅でしたね。

「そうですね。上には元木由記雄さん、長谷川慎さんやタケさん(伊藤剛臣)、アンドリュー・ミラー、ジョージ・コニア、ジョンさん(松田努)がいました。リョウさん(山村亮)はまだ、大学生だった。僕らの世代では、(大久保)直弥や(大畑)大介がいて、ザワ(小野澤宏時)もがんばっていたし、バランスがとれていました」

――初戦のスコットランド戦(●11−32)では、一時は4点差まで迫りましたよね。

「はい。第2戦のフランス(●29−51)も1点差までいったんです。善戦という雰囲気はありましたが、この頃はチームとして、60分しかラグビーができなかったですね」

―そう、ラスト20分の壁がありました。

「これは、すごく覚えているんですけどね。ラスト20分です。とくに初戦、2戦目、向井さんの勝ちにいくプラン通りに60分間はいくんです。そこから、メンバーを入れ替えて、もう一回ギアを上げていこうとしても、変わらなかったんです」

――確かに強いチームはラスト20分でギアが上がります。

「相手の顔色を見ていて、しんどい中でも、ギアを上げようという時、全然、余裕があるんですよね」

――ラスト20分の違いはなぜでしょうか。

「もちろんベースとして体力差は絶対的にあるでしょう。だから、その後のJK(ジョン・カーワン)も、エディー・ジョーンズも、フィットネスをベースとして、クイックなラグビーをしようとしたんでしょう。さらにいえば、それまでスコットランドやフランスと何試合やったかというと、経験がないんです。選手はもちろん、スタッフ、コーチも、です。口で簡単に”ここから上げていこう”と言っても、実際、からだが追いついていかないんです」

――最後のギアチェンジは体力だけが必要なのでしょうか。

「いや、経験というか、駆け引きもあるでしょう。やっぱり、プレーを選んでいくというのもそうでしょうし、ゲームスピードを上げたり落としたり、戦術的にキックを使うとか使わないとか、そこが大事なんです」

――この年、トップリーグがスタートしました。タフな試合の経験値を上げる環境が少しはでき始めたのでしょうか。

「ただ、インターナショナルではその経験は全くない状況でした。もし、相手がギアを上げて来れば、どのようにしてゲームをスローダウンさせていくのかとか。僕らは、ラスト20分の中でこういうミスをしてはいけないという時にミスを犯していたんです。本当にひとつのミスでトライを何本もとられています。ラスト20分間の中にはいろんなものが詰まっていたなと思います」

――このRWCのレガシーは、ラスト20分の教訓ですか。

「ベースとして互角に戦えるというところまで力は付いてきているというのは、実感できました。でも、最後、どうやって仕留めるのか、なんです。選手やスタッフだけでなく、日本ラグビー全体として取り組んでいかないとダメなんです。世界も同じようなスピードでレベルを上げていくのだから、日本は次の2007年まで、どうやって追いつくのかが課題でした」

――最後の米国戦(●26−39)は勝てると思っていたのですが、動きが重かったですよね。

「それ、中3日ですよ。しかも、移動日が1日ありました。記憶が曖昧ですが、僕と大介を含めて数名は4試合ずっと出ていたんです。そりゃ、しんどかったですよ。それまで、スコットランド、フランス、フィジー(●13−41)の連戦なんて、短期間にやった経験はありませんでした。しかも、中日がスコットランド戦からどんどん短くなっていったんですから」

――日程は過酷でした。

「相手の強度は強いし、フィジカルの準備をしないといけないのはわかっていたんですけど、実際に経験して、そんなにしんどいとは…。オン・オフの切り替えがうまかったので、精神状態はいいんです。でも、グラウンドに立ってみると、思った以上に疲労がたまっているのを感じました」

――終わって、次の4年後のRWCへは。

「最初に言ったように、ワールドカップが純粋に楽しかった。だから、”もう一度、この舞台に立ちたい”と思ったのを覚えています」

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