【男たちの挽歌】落合博満、最後の1年

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2019年09月11日 11:43  ベースボールキング

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ベースボールキング

左越えにホームランを放つ日本ハムの落合、左手にはバッティンググローブ=東京ドーム
◆ 落合博満の最後って覚えてる?

「あの選手の現役最終年ってどんな感じだったっけ?」

 よく野球ファン同士で球場観戦帰りに飲んでいると、そんな話題になる。みんなスター選手の全盛期の活躍はよく覚えている。あのタイトルを獲ったとか、優勝に貢献したみたいな輝かしい経歴の数々。けど、現役晩年。特に「最後の1年」の成績まではほとんど記憶にない。

 場合によっては、自由契約後の移籍先で一軍出場のないまま静かにユニフォームを脱いでいたり、引退宣言をしないでひっそり去って行く。まさにプロ野球、男たちの挽歌。連載1回目は、1998年(平成10年)の落合博満のラストイヤーを見てみよう。

 というわけで突然ですが、あなたはオレ流・落合の現役最終年の打撃成績を知ってますか?……って間違いなく、合コンで前の席のOLさんに質問したら死ぬほどモテなそうな質問だ。

 個人的に落合が巨人を追われ、日本ハムへ移籍したことはもちろん覚えている。97年のオールスター戦では全パの1番打者として打席に立ち、当時17歳だったアイドル・広末涼子の始球式に笑顔で付き合っていた。でも、肝心のシーズン成績はどうだったのか?


◆ オレ流の決断

 前年の96年オフ、西武の清原和博が死にたいくらいに憧れた巨人へのFA移籍が秒読み段階に。そうなると一塁のポジションが被る落合はどうするのか? そのシーズン、43歳の元三冠王は、8月末に死球を受け左手小指を骨折するアクシデントに見舞われながらも、打率.301、21本塁打、86打点、OPS.924と年齢を感じさせない堂々たる成績を残していた。

 SMAPの香取慎吾や安室奈美恵が表紙を飾る雑誌『小学五年生』の96年5月号では、唐突に「落合博満vs.ラモス瑠偉」のスペシャル対談が実現。子どもたちが憧れるイチローとか三浦知良ではなく、唐突に2人合わせて81歳の大ベテラン濃厚対談。ミニ四駆のニューマシーンスクープ記事を楽しむ小学生がついて来れたのかは謎だが、ここで落合は手加減なしのオレ流ガチンコ発言を連発している。

「子供のころから憧れ続けてきた職業につける人間が、この世の中にいったい何人いると思う? オレもラモスもそれを実現している数少ない人間でしょう。それを考えたら、もったいなくて『オレ、やーめた』なんて言えないもの」

「よく『若手を育てろ』とか『若手を使え』という人がいるでしょう。でも、プロの世界は人に育ててもらうものじゃない。自分で育って、自分で這い上がってくるものなんだ。それだけ厳しい世界なんだ」

 凄い、これを読まさせられる『小学五年生』読者のその後の人生は大丈夫だろうか……なんて心配になってしまうほど、大人の世界の生々しい真実をぶちかますリアリスト落合は、11月28日に「清原と自分の使い方で長嶋さんの悩む顔を見たくなかった」と、ミスターと並んで巨人退団会見を開く。


◆ 異端児から英雄に!?

 その直後に、野村克也監督率いるヤクルトと日本ハムが獲得に乗りだし、当初は同リーグのヤクルト移籍濃厚と言われながらも、12月12日には急転直下で日本ハムの背番号3のユニフォームを着て入団会見。年俸3億円の2年契約という好条件に加え、大社義規オーナーと上田利治監督が同席する異例の熱気に、11年ぶりのパ・リーグでプレーする主役は「来年、日本一になりますんで」と宣言し盛り上がった。

 この時期、メディアはちょっとしたオレ流ブームで、週刊誌でも「リストラに負けない中年の星」のような応援記事が目立つ。選手会を脱退したり、名球会入りを拒否するなど、ずっと球界の異端児でヒール(悪役)だった男が、43歳にして初めてベビーフェイス(善玉ヒーロー)になった瞬間でもあった。

 しかし、だ。自著『野球人』(ベースボール・マガジン社)によると、前年の日本シリーズで左手小指骨折から無理して復帰したため、微妙な体全体のバランスの狂いがあったという。春季キャンプでは球団人気を上げようとマスコミにも積極的に対応したが、自身の練習量は減ってしまう。アキレス腱痛もあり満足に走り込むこともできず、さらに春先には珍しく風邪を引いて回復に時間が掛かり、開幕からチームも6連敗と散々のスタート。4月16日の西武戦では4打数4安打と健在ぶりをアピールするが、その後は途中交代の多い起用法にも戸惑い、調子が上がらず失速してしまう。

 終盤には16年ぶりの6番降格、さらに8月22日のオリックス戦で一塁ライナーを捕球した際に左手薬指の脱きゅうで戦線離脱。移籍1年目の97年は113試合、打率.262、3本塁打、43打点という寂しい成績で終わり、日本ハムも同率4位と低迷。戦力外通告を受けた選手が「落合さんが来てからおかしくなった」なんつって捨て台詞を残して去るなど、1年前の優勝請負人扱いが嘘のような状況でプロ19年目のシーズンを終えることになる。


◆ 引き際もオレ流

 そして迎えた98年。前年に続き、素手でバットを握るこだわりを捨てて左手には手袋をはめ、新たに当時のセ・リーグではほとんどなかったデーゲームにも対応できるよう、サングラスもかけた。もうなりふり構っていられない。2年契約の最終年、12月には45歳になる球界最年長のベテランは結果を残すしかなかった。

 4月4日の開幕戦は西武の若きエース西口文也から意地の3安打猛打賞。だが、時の流れは残酷だ。どんなスーパーアイドルもやがて歳を取り、おじさんやおばさんになるように、一流のアスリートもいつの日か衰え、終わりは来る。限られた貴重な時間を、演者と観客はワリカンしているわけだ。4月末にはバットマンの生命線でもある右手親指の付け根部分を痛め一時離脱。復帰後は代打起用も増え、7月以降は首位を走るチームのビッグバン打線の中に、その名はなかった。

 落合の現役最後の打席は98年10月7日、千葉マリンスタジアムの古巣ロッテ戦(ダブルヘッダーの2試合目)でのことだ。なおチームは後半戦に急失速し、当日は西武の逆転優勝が秒読み段階(当時はもちろんCS制度はない)。メディアでは「今季限りの引退」が報じられ、球団からは引退試合の開催を相談され、上田利治監督からは指名打者での先発出場を打診されていた。

 このロッテ戦で有終の一発を打てば、12球団すべてから本塁打を放ったことになる記録もかかっていたが、落合はそのすべての申し出を断りベンチスタート。チームが1対4とリードされた5回表一死、当時の『週刊ベースボール』の写真を確認すると、代打で登場した背番号3は全盛期と同じように素手でバットを握り、神主打法と呼ばれた独特の構えで打席に立っている。

 最多勝のタイトルを狙う、20歳年下の相手エース黒木知宏は全球直球勝負。満身創痍の打撃の職人は3球目の141キロのストレートを打って一塁ゴロに倒れる。19年前に代打出場から始まった25歳の無名のオールドルーキーは、3度の三冠王という前人未到の金字塔を残し、45歳を目前にバットを置いた。

 通算2371安打、525本塁打、1564打点の大打者としては異例の引退試合も派手なセレモニーもない静かなラストゲーム。試合後、千葉マリンで出待ちしていた多くのファンが待つ柵前まで歩み寄ると、淡々と握手を交わして回り、稀代のスラッガー落合博満の「最後の1年」は幕を閉じた。

 ひとつの時代の終わりと新たな時代の始まり。ちなみに、落合と同年に日本ハムに入団して、キャンプで緊張しながらもキャッチボール相手を務め、引退の翌99年からその一塁のポジションを継承したのは、ガッツこと小笠原道大である。

(次回、小笠原道大編へと続く)

【落合博満 85年・98年打撃成績】
85年(32歳/ロッテ/推定年俸5940万円)
130試合 率.367 52本 146点 OPS.1.244
※自身二度目の三冠王獲得、得点圏打率.492は日本記録

98年(45歳/日本ハム/推定年俸3億円)
58試合 率.235 2本 18点 OPS.653
※現役最終打席は代打で出場し一塁ゴロ

文=中溝康隆(なかみぞ・やすたか)

このニュースに関するつぶやき

  • 晩年の落合さんで思い出すのは、大谷以前の"二刀流"嘉勢の初登板時に浴びせた一発と、その時のコメント。「野手から打っても全然うれしくないよ」さすがやなと思ったわな。>続く。。。
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