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出刃包丁とナタで男をバラバラに――結婚誓った内妻の告白【荒川放水路バラバラ殺人事件・前編】

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2019年09月15日 21:02  サイゾーウーマン

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サイゾーウーマン

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世間を戦慄させた事件の犯人は女だった――。平凡に暮らす姿からは想像できない、ひとりの女による犯行。自己愛、欲望、嫉妬、劣等感――罪に飲み込まれた闇をあぶり出す。

 戦後間もない昭和27年の東京都足立区。市民プールや学校にプールがあることが珍しかった頃、辺りにひしめくバラックに住む人々は、暑くなると荒川やその入江などで泳いでいた。現在、荒川の河川敷はさまざまに整備され、サッカーコートや広場がおかれているが、当時、荒川放水路東岸にあったひょうたん型の浅瀬は、子供子どもも川底に足がつくため、通称「日の丸プール」と呼ばれ、地域の子供子どもたち達に親しまれていた。

 5月10日の昼頃、ここで泳いでいた子供子どもたちが「変なものがある」と、魚釣りの大人に教えた。見ると、岸辺の芦の間にハトロン紙と麻ひもで荷造りした動物の死体らしい大きな包みが転がっている。ところどころから、どす黒い血がにじみ出て、臭気を放っていた。よく見るとどうも人間の胴体らしい。男は所轄の西新井署に急報、戦後初のバラバラ殺人事件が発覚した瞬間だった。

第5回:荒川放水路バラバラ殺人事件

 終戦から7年がたった昭和27年、戦後初めて開催されたメーデーに集まった群衆の一部が、解散地点の日比谷公園から皇居前広場になだれ込み、警察隊がこれに発砲。2人の死亡者を出した。それから数日後には、東京・新宿で火炎瓶騒ぎも起こった。「何か革命でも起こるのではないか」と案じる声も囁かれる中で発覚したバラバラ殺人だったことから、遺体の身元確認を進めると同時に、犯人の動機についての捜査も進んだ。

 胴体の発見後、直ちに西新井署に設けられた捜査本部により捜査が進められるなか、15日朝9時50分ごろ、死体の首が「日の丸プール」の対岸で発見される。さらに翌16日朝8時40分ごろ「日の丸プール」上流約9キロの新川鉄橋下で両腕が見つかった。この指紋を照合し、被害者の身元が判明。板橋区に住む志村署の警ら係、伊藤忠夫巡査(27=当時)であることがわかった。そのため捜査本部では伊藤巡査の内妻、志村第三小学校の教師をしていた宇野富美子(26=同)から事情を聞き追及した結果、同日夕方ごろ、犯行の一部を自供。逮捕に至った。

 殺害された伊藤が勤務していた志村署から北に2キロほど。工場と麦畑が広がる一角。そこにある、じめじめとした空き地で風車がギイギイと音を立てている。脇にぽつりとある2階建ての家で、伊藤と富美子、そして富美子の母と弟は暮らしていた。

 その家で事件が起こったのは、胴体が発見される4日前の夜。伊藤巡査が帰宅して寝入ったところ、富美子がその首を縄で絞めて殺害。ふと振り返ると、母シズがいつのまにかそばに立っていた。二人は相談し、道路に死体を放棄して他人に殺害されたように見せかけようとも話したが、女手二人では、60キロ以上ある伊藤巡査の遺体を運び出すことができなかった。次第に夜が明け始めたのでやむを得ず、遺体を行李に入れ、一旦押し入れに隠すことに。母親から死体をバラバラにして捨てることを勧められた富美子は出刃包丁とナタを購入しに出かけた。

 再びの夜がやってきた。2階に大きなタライを上げ、死体の入った行李をその上に乗せる。さらにタライの中に洗面器を置いて、出刃包丁とナタを使い首、手足、胴体と切り離していった。控えめに明かりのついた4畳間に、バラバラの体が積み重ねられて行き、タライの中の洗面器には切り離すたびにどす黒い血が溜まっていった。そして切り離した部分ごと、新聞紙とハトロン紙で包んでいく。この初めての大仕事を二人は2時間でやってのけたという。

 翌9日の日暮れを待ち、小学校の自転車を借りてきた富美子が胴体の包みをその自転車に乗せて一足先に家を出る。母親は首と手の包みを下げてバスで移動。先に新荒川大橋に到着した富美子は、ひんやりとした風が頬を撫でる新荒川大橋の上で、人がいなくなるタイミングを見計らい、橋の上から胴体の包みを投げ捨てた。やっとたどり着いた母親から包みを受け取ると、同じ場所から投げ込む。そして家に帰り、足をくるんだ包みと血を拭いた布切れを包んだものを自転車に積んで、再び出発。今度は戸田橋から投げ込んだ。すでに日付は変わり、10日の午前1時になっていた。遺体を刻んだ行李は細かに壊して燃やし、こうして、女性2人による死体損壊、遺棄行為を終えたのだった。

200通のラブレターを受け同棲、結婚を誓う

 なぜ富美子は夫を殺害するに至ったのか。

 遠縁にあたる二人が最初に出会ったのは終戦翌年、昭和21年の春のことだ。富美子は大阪に育ち、17歳の時に母方の親戚を頼って山形県の米沢へ疎開。米沢で高等女学校に通っていた。伊藤は山形に生まれ、地元の小学校を卒業し上京。戦時中は「日本光学(現・ニコン)」の行員をしていたが応召され、終戦で復員して米沢に戻ってきたころ、二人は出会う。伊藤は富美子に一目惚れだったらしく、結婚前に彼女に出したラブレターは200通に及んだ。

「頭の中はあなたのことでいっぱいです。会いたい。今はこの気持ちを抑えるためにせめてあなたのお名前を無性に書きまくっております」

 こうしたまっすぐな思いを、日々書き送っていたという。200通のほぼ全てが下書きの上、清書したものだった。それでも富美子は伊藤になびくことなく昭和22年、大阪の小学校への就職が決まり、米沢から転居。しばらく交渉も途絶えていた。2年生を受け持ち、教員としての仕事に邁進していた昭和24年、「昨年上京、今警視庁志村警察署に勤務している」と知らせを受け、再び文通を交わす仲となる。その年の夏に、伊藤の招待を受け、彼が住む東京の寮を訪ねた際、結婚の申し込みを受ける。最初は乗り気でなかった富美子も、ぶれることのない伊藤の気持ちに心を動かされ、事件前年の春、大阪から東京・板橋区にある小学校に転校すると同時に、同棲生活を始めた。

 富美子はのちに、手記を公開しているが、そこには伊藤への当時の思いがこう書き綴られていた。

「私の家は以前、相当手広く商売をやっていましたが、戦争と同時に不運が続き、ついに田舎に引っ込んでしまってろくな収入もなく、生活は苦しい最中でした。それだけに私は、自分の身の始末より『家のために働かねば』と言う気持ちが先に立ち、結婚問題などあまり真剣に考えなかったというのが、その頃の偽らぬ心情でした。

 しかしその反面、伊藤のプロポーズを受けて以来、彼を慕う気持ちが1日1日と高まっていたことが事実で、私が彼との結婚を固く心に誓ったのは、それから間もなくの事です」

 ところが一緒に暮らし始めると、それまでのまっすぐで真面目な伊藤の印象とは異なる顔が見え始める。

――後編につづく(9月16日更新)

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