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頭デッカチから“脱走”した作家・吉岡忍が今伝えたいこと

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2019年09月16日 16:00  AERA dot.

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写真吉岡 忍(よしおか・しのぶ)/1948年、長野県生まれ。早稲田大学在学中にベトナム反戦運動などに参加。その後、ノンフィクション作家に。87年、『墜落の夏 日航123便事故全記録』で講談社ノンフィクション賞を受賞。『M/世界の、憂鬱な先端』など著書多数。2017年から日本ペンクラブ会長 (撮影/写真部・片山菜緒子)
吉岡 忍(よしおか・しのぶ)/1948年、長野県生まれ。早稲田大学在学中にベトナム反戦運動などに参加。その後、ノンフィクション作家に。87年、『墜落の夏 日航123便事故全記録』で講談社ノンフィクション賞を受賞。『M/世界の、憂鬱な先端』など著書多数。2017年から日本ペンクラブ会長 (撮影/写真部・片山菜緒子)
 あのとき、別の選択をしていたら……。著名人が人生の岐路を振り返る「もう一つの自分史」。今回は、ノンフィクション作家で日本ペンクラブ会長の吉岡忍さん。人生の転機は、若者たちが熱く行動した時代、ベトナム反戦運動への参加でした。還暦を過ぎ、東日本大震災の被災地に向かい、再び大きな転機を迎えます。表現者として、今なお衰えない原動力とは何でしょうか?

*  *  *
 子どものころ、アメリカにすごく憧れていたんですよ。戦後教育では、アメリカは民主主義のお手本、自由や豊かさの象徴だったから。

――教員だった父親が本好きで、本の山に囲まれて育つ。スタインベックやヘミングウェーなどアメリカ人作家の作品や山崎正和、安岡章太郎らのアメリカ体験記も残らず読んだ。

 1965年、高校生のときにベトナム戦争の北爆が始まり、「アメリカがどうしてこんなことになっているのか」と思いました。この戦争のことを調べて、「絶対おかしい」とひっかかるようになったんですよ。

 67年、早稲田大学政経学部に入学したんだけど、長野から上京してすぐ、「ベトナムに平和を!市民連合」(ベ平連)のデモに参加したのね。学者の日高六郎、鶴見俊輔、作家の小田実、開高健、それにときどきは大江健三郎、堀田善衛……知識人たちがたしかにいました。

 初めてデモに行ったとき、小田さんがニューヨークの反戦集会から持ち帰った缶バッジを見せてくれたんです。カラフルなバッジでカッコよかった。「日本でも作りましょうよ」と言ったら、小田さんから「ベ平連はな、言い出しっぺがやるんだよ」と言われちゃった。

――そう言われても、まだ長野から出てきて数日。電車の山手線も総武線も区別できない新参者で、途方に暮れたという。見かねた開高が、デザイナー事務所を紹介してくれた。

 ベ平連はアメリカのワシントン・ポスト紙に岡本太郎の墨書で「殺すな」と訴える意見広告を出していたので、そのコピーと見本の缶バッジをもって、住所だけを頼りに銀座の事務所を訪ねました。

 そこで会ったのが、当時、新進デザイナーだった和田誠さん。腕まくりしたピンクのシャツにジーンズ姿で、手首にはミッキーマウスの腕時計だからね、格好いいですよ。そして和田さんは本当に作ってくれた。

 あのころ、目新しかったバッジは、あちこちで話題になり、売れに売れた。バッジをシャツやかばんにつけるというのが、オシャレに映ったんでしょうね。

 そしたら中学校や高校でこのバッジを禁止する学校が出てきたのね。「政治のことを考えるのは早い」というのが理由でね。世界中で10代20代が反戦デモをくり広げているのに「何も考えるな」というほうがズレているよね。でも、政治意識や社会的関心はオシャレとかカッコいいとか、そういうところから始まるんだ、と気がついた出来事でした。

――バッジをきっかけにベ平連の事務所に出入りするようになった。半年後には米軍の脱走兵を匿(かくま)う仕事で、結核病棟の空き室やハンセン病の施設に隠れ住んだり、軽井沢の別荘で過ごしたり、と全国を飛び回った。その間、食事や逃亡ルートも準備して、彼らにあれこれ指示もする。アメリカが偉大な国とは、だんだん思えなくなった。

 69年には仲間といっしょに新宿西口の地下広場でフォークゲリラを企画しました。1カ月後には数千人が集まる集会になった。ちょうど新左翼運動も盛り上がっていて、なかには投石で交番を壊すグループなんかもいたんですね。それで公安条例と道交法の違反容疑で指名手配され、青山の喫茶店にいるときに逮捕されたんです。ところが逮捕状を見ると、僕に関係ないことがたくさん書かれていたから、こちらから裁判を起こして争ってね。20日間ほど留置場に入っていましたが、起訴もされないまま出てきました。

 大学はこのころ、3年で退学しました。もっと勉強したい、と考えたんですね。それから1年半ほど雨戸も閉め、ほとんどアパートから出ない生活をしていました。本ばかり読んでた。1日2冊は読んだかな。

 ベ平連で活動しているうちに、自分は何も知らない、というコンプレックスを抱いていたんです。

 小田さんや開高さんや大江さんとときどきお茶や食事に行くと、彼らはよく外国の小説の話をするんです。僕も本は好きなのでかなり読んではいましたが、原著までは読んでいない。ぼーっと聞いていると、別れ際に「これ、おまえも読め」ともらったりするんですよ。それがアメリカで話題になっているペーパーバックだったりするから、もう大変。辞書と首っ引き。物知りにはなりましたけどね。

――小田や開高らは戦争の時代を体験しており、読んだものがそれぞれの経験に裏付けされ、理解しているようだった。それに対し20歳のころの吉岡はやはり頭デッカチだ、と痛感する。「海外に行き、本が書かれた現場で読もう」と決心したという。

 金子光晴の紀行文をたどってマレー半島を下ったり、G・オーウェルのエッセー「象を撃つ」の舞台になったビルマ(ミャンマー)の町を訪れたり。旅行鞄(かばん)に本をたくさん詰め込んで、一回で20、30冊は持っていったかな。そういう貧乏旅行を何度も繰り返しました。現場があって生きている人がいて、そこで書かれた本を読み、話を聞くと、たんなる情報だった知識が体験化して、ものの見方が全く変わることがわかったんです。

 妻と出会ったのは学生のときで、脱走兵を匿う活動を手伝ってもらっているうちに、いつしか一緒に暮らしていました。彼女はもう出版社勤めをしていたので、なかなか一緒には旅行できませんでしたが、年に1、2回はあちこち行きましたね。僕はそのころから雑誌に記事を書いたり、詩の翻訳をやったりしながら40、50カ国かな……外国をぶらぶらしていた。プータローですよ。

 ただ、70年代の後半、妻が入院してしまってね。結局は胆石とわかって手術したけど、それを機に退職してしまったので、じゃ、そろそろ僕が働くかと。まあ、あまりはっきりした動機もなくノンフィクション作家になったところもありますね。

――学校現場や教員を巡る問題、事件・事故……。いろんなテーマで著作を出してきたが、ひときわ“ズシン”ときた転機は2011年に起きた東日本大震災だった。

 たくさんの犠牲者を出した大川小学校(宮城県石巻市)を訪れました。この学校は僕の曽祖父が初代校長として30年以上勤めたところです。そんな縁もあって行ってみたんですが、もう見渡すかぎりの水と泥で、そこをたくさんの親たちがわが子を捜している惨状でした。

 物書きとしての下心で言えば、ここを取材すれば1冊書ける、と思いました。でもね、被災地に1カ月、2カ月といるうちに、そんな甘い考えでは何も伝えられない、と考え始めたんです。

 それまで御巣鷹山の日航機墜落事故など、たくさんの現場を取材してきました。そのときどきで忘れられない衝撃を受けたものです。その衝撃を抱えて現場を歩き、考え続けていると、必ず人間や社会の断面が見えてくる。

 だけど、東日本大震災の場合、断面は「底」まで見えてしまった感じかな。それを表現する方法をまだ見いだしていないと思い至ったんです。

 例えば、僕は長野県の出身だから海の仕事がわからない。漁師さんから「家も船も失いました」と聞いたら、一行で書けますよ。でも、そのひと言を発したとき、彼の頭に何が浮かんでいるのか、まったく実感がない。こんなことでは何も書けないと思って漁師さんに頼んでワカメ漁や銀ザケの養殖場に連れていってもらうことを繰り返したんですね。

 歴史に目を向けないといけない、ということも実感しました。いまもこの社会にはどこか東北を低く見るような差別意識が横たわっていると思います。戊辰戦争で東北勢が負け、薩長率いる明治政府に賊軍扱いされたこともある。さかのぼれば、ヤマトタケルが朝廷に従わない蝦夷(えぞ)を征伐したという古事記の記述もある。

 そうした流れをおさえておかないと、なぜあの事故を起こした原発が東北にあったのかということも理解できません。

 東日本大震災をテーマにした本はたくさん出ていますが、そこまで描き切れた作品はまだない、と思います。僕も悩みながらですが、ほんとに一行一行、これでいいのか、と考えながら書いているところです。

――17年、作家・浅田次郎さんの後を受け、日本ペンクラブ会長に就任。たいへんな時期に引き受けた、と実感している。

「理想や理念で始まった社会は2世代半で終わる」と思っています。人が社会の中心となって活躍できるのが30年間とすると、2世代半は75年ですね。「半」というのがミソで、つまり、孫たちが中心世代になると、世の中がおかしくなるということ。ソ連はロシア革命から74年で崩壊、アメリカは建国してから八十数年後に内輪もめを始めて南北戦争になった。日本も明治維新から七十数年後、焦土となって敗戦です。

 そして今年は敗戦から74年ですね。祖父母の世代が命からがら体験したことがたんなる情報になって、どんどん、その意味が薄れている。

「あいちトリエンナーレ2019」で「表現の不自由展・その後」が中止に追い込まれたのもその一つ。ネットの情報だけで「嫌韓・嫌中」だと言い合っている風潮を見ていると、危ないな、と思います。

 こんな時代だからこそ自分で経験して知る、という姿勢を大切にしてほしい。

 若いころ、頭デッカチ状態から“脱走”し、奔走してきた僕なりにできることが、まだもう少しあるかな、と思っています。

(聞き手/本誌・吉崎洋夫)

※週刊朝日  2019年9月20日号

【おすすめ記事】ノンフィクション作家・吉岡忍が「防潮堤は強がりなガキ大将みたい」と指摘


このニュースに関するつぶやき

  • 久しぶりにあの時代のことを思い出しました。懐かしいです。中華街からの帰り、名医のかたは運転をしながら、延々と共産主義の理想を語っておられました。小学校の校門では先輩達がデモに行こうとチラシ
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  • 日高家の方々、皆さん、立派な方々でした。今、そういうかたがたがいなくなりました。
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