夫は「ジキルとハイド」の二重人格だった――戦後初のバラバラ犯となった女【荒川バラバラ殺人事件・後編】

0

2019年09月16日 21:02  サイゾーウーマン

  • チェックする
  • つぶやく
  • 日記を書く

サイゾーウーマン

写真

 戦後間もない昭和27年の東京都足立区。荒川の放水路にあった浅瀬は、子供子どもも川底に足がつくため、通称「日の丸プール」と呼ばれ、地域の子どもたちに親しまれていた。5月10日の昼頃、ここで人間の胴体が発見される。遺体の身元は伊藤忠夫巡査(27=当時)。内妻で志村第三小学校の教師をしていた宇野富美子(26=同)による殺人だった。出刃包丁とナタを使い、母親と遺体を解体したという。

(前編はこちら)

夫は「ジキルとハイド」の二重人格だった

 伊藤は富美子に一目惚れで、200通のラブレターを送り、ついに富美子との結婚を誓うまでになるが、一緒に暮らし始めると、それまでのまっすぐで真面目な伊藤の印象とは異なる顔が見え始める。

「いつまでたっても伊藤は私を籍に入れてくれず、結婚前『必ず準備する』と約束した家計の設計費も、いつの間にか先に使い果たし、かえって1万を超える借金があることなどが分かりました。『ジキルとハイド』の二重人格が彼の本体であったのです」(富美子の手記より)

 一部報道には1万どころか6万円(現在の約10〜60万円)の借金があったともいわれており、さらに伊藤は大酒飲みで、勤務態度も勤労とは程遠く、解職寸前だった。家では富美子を殴る蹴るも日常茶飯事で、節約や我慢を重ねて富美子は月給のおよそ半分である3,000〜4000円を毎月用立てていたものの、感謝されるどころか「借金したのは、もともとお前のせいなんだ」と非難された。富美子が思い余って離婚話を切り出したところ、仕事道具であるはずの拳銃を抜いて「逃げても絶対見つけ出す」と脅されたこともあったという。

「私は法廷で検事さんから、愛情がないと非難されたことがあります。伊藤もよく同僚に『妻は冷たい』と漏らしたそうですがそれは偽りです。伊藤こそ愛情を持たない男だったのです。私が苦労して工面した金は、飲んだり食ったりつまらぬことに使い果たし、少しでも家庭を顧みようと気持ちのない人間なのです。もちろんこうした味気ない夫婦生活のため、ある点では無情にさえなっていく私の素振りが、伊藤の堕落した生活態度にますます拍車を加えて行った事は否定できません」(同)

 合わせ鏡のように、富美子の気持ちが伊藤から離れていくと同時に伊藤もまた、家庭を顧みず酒に溺れるようになっていった。二人には子どもがいなかったがしかし、富美子は離婚ができないと思っていた。それには当時の時代背景が関係している。

「夫は警察官なのです。仮に離婚沙汰にでもなれば、夫は『警察官らしくない行状』として首になるのは明らかなことです。もしそんなことになれば……。日頃でさえ別れたら殺してやると、口癖のように言っていた彼の事ですから、あるいは本当に殺されるかもしれないとさえ想像し、また同居している母や弟のことを考えて、そのままズルズルと元の鞘に帰っていたのです」(同手記)

 そして事件の日。その夜も、伊藤は泥酔状態で帰宅した。彼は無愛想な顔で出迎える富美子の態度が癇に障ったのか、ひとしきり暴れ、富美子の揚げ足を取り悪口を言ったあと、その晩の夜勤を放り出して寝入ってしまう直前に、彼女にこう言ったのだという。

「殺すのは惜しいな。お前を女郎にでも売り付けたら儲かるのだが」

 これを聞いた富美子の糸はついに切れた。思わず血が逆流するのを感じたという。

「餓死しても良い、殺されてもいい、それが本当に愛する夫のためなら……。だが伊藤みたいな人間に殺されるのは嫌だ。と言ってこのままでいれば、むざむざ伊藤の犠牲になるのを待つばかり。伊藤が死んだって親子3人の生活は自分の力で平和に暮らしていける。もしそれができないような自分だったら、生きていたって同じことだ。幸い伊藤は眠っている。ヒモか何かで首を絞めて殺せるかもしれない」(同手記)

 殺害計画を組み立て頭が冴え渡った富美子が思い出したのは、伊藤が1カ月前に自宅に持って帰って来ていた『自警』という書物だった。ここに書かれたある殺人事件の絞殺方法を参考にし、夫の警棒の真ん中にグリーンの麻紐をくくりつけ、窓の外の間にそれを挟み込んだのち、窓際から引いた麻紐を夫の首を巻きつけて、下の端を握って一気に絞めたのだった。うめき声をあげたのち、伊藤はあっけなく絶命したが、富美子は「生き返ってくるかもしれない」と、さらに1時間、首を絞め続けていた。

 富美子は伊藤を殺害して、遺体をバラバラにするまで、一昼夜、それを押入れにしまいこんでいたことは先述の通り。その間、富美子は何食わぬ顔で勤務先の学校に行き、いつものように、子どもたちを相手に授業をしていた。

 殺害後の心情について、富美子はこのように振り返っている。

「その(殺害時の)ひとこまひとこまが、恐ろしい映像となって、今でも獄中の私を苦しめています。起訴されるまでの間、私の頭には過ぎし伊藤との生活の思い出が走馬灯のように駆け巡り『取り返しのつかない』絶望感と『非人間的な行為』の恐怖感との、止めどもない葛藤のうちに日を送ったのです」(同)

 後悔と恐怖に苛まれていたとは言うものの、完全犯罪を目論んでいたのだろう。バラバラにして投棄した遺体の一部が川から発見され、報道がなされるまで、伊藤の行方不明届を出してもいなかった。次々と川から遺体があがり、そのたびに報道が加熱しても、当初は母娘ともども、犯行を認めずにいた。

 一方で、初めて遺体が見つかった翌日には伊藤の継母に電報で「タダオカエラヌ、ソノチ ツカヌカ、フミコ」と発信。数日後には速達で「実は7日の夜11時頃から忠男が出ていったきり帰ってきません。荒川にバラバラ事件もあったため、心配で御飯も食べられず、夜もろくに寝れません」といった内容の手紙を送っているのだ。

 しかし、胴体を包んでいた新聞紙の中に、富美子が前年4月まで住んでいた大阪府守口市の配達区域で配られるものと同一のものがあった。加えて、自宅の家宅捜索が行われた際、押し入れの襖やカーテンに残された血痕を警察官に発見される。こうした証拠を元に追及を受け、あっけなく犯行を認めたのだった。それまで押しかける報道陣などに「失礼ではないか?」と追い返し、家宅捜索では6畳間に長々と寝そべったまま捜査員を見回していた母シズも、一緒に連行された。

1時間だけでも慰安の場所がほしかった

 戦後初のバラバラ殺人事件であること、犯人が女性であることから、本事件は報道が過熱し、法廷では富美子の過去の男関係も事細かに明らかにされた。

「実はこの頃(編注:伊藤に結婚を申し込まれた時)富美子は大阪で同僚の教師の、しかも2人とセックスがらみの付き合いを繰り広げていた。(略)富美子は『性格がさっぱりしている』ということで男性教師に人気があった。そんな中から彼女は、ウブで若いHを選んで、自ら足を開き、『こうするのよ』と男のものを肌にあてがって合体させてやったりしていたのだった。(略)自分に気のある男を手玉にとって弄ぶのは、さらに大好きだったのだろう。証言によると富美子はHに結婚を申し込んだのだったが、そう言いながら別の教師と付き合っていることを知っていた彼は断った……」

 富美子はそれに対し、手記でこう述べる。

「私は今、裁きの庭に立っています。世の人は私のことを『冷酷無情な女』『血も涙もない悪魔』と、ありとあらゆる罵倒の言葉を浴びせかけています。私にはもちろん反駁する資格はありません。しかしこれだけは言いたいのです……私と言う女は友達から身の上の相談を受けても、遊び相手には不向きな女でした。内気。悪い言葉で言えば陰性な女であるかもしれません。しかし他の女性と同じように、幸福でありたいという気持ちには変わりはありませんでした。もっと具体的に言えば、教員という職業柄、自分の存在が値打ち以上に社会から評価されているアブノウマルな環境から、1時間でもいいから解放されたい。その慰安の場所を、私は夫との生活にだけ求めていたのです」

 警察官と教師、公職につくものだからこそ事件を隠し通したかったのか。教師という職業柄、のしかかるプレッシャーからひとときでも解放されたいという思いで一緒になった伊藤に冷たい仕打ちを受け、絶望したのか……。富美子にはのちに東京地裁で無期懲役を求刑されたが、懲役12年の判決。栃木刑務所で服役中に皇太子(当時)結婚特赦のため、7年間の服役で出所した。母シズは、死体損壊罪で1年6月の判決(求刑・懲役3年)を受けたが、事件の年の暮れに、東京拘置所で死亡した。
(高橋ユキ)

(参考文献)
昭和27年6月1日号 「週刊サンケイ」
昭和27年10月5日号 「週刊サンケイ」
1960年10月28日号 「週刊スリラー」
1991年1月3日・10日合併号 「週刊文春」
2000年3月23日号 「週刊実話」
2002年9月22日号 「サンデー毎日」
2004年7月号 「現代」

    前日のランキングへ

    ニュース設定