9.11から18年。「テロ」という事象を通して、社会や人間を問い直す映画作品

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2019年09月17日 19:01  CINRA.NET

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クリント・イーストウッド
※本記事は『15時17分、パリ行き』『女は二度決断する』のネタバレを含む内容となっております。あらかじめご了承下さい。

「9.11」から18年が経った。現在も世界各地でテロ事件が頻発しており、米国を中心とする対テロ戦略にも終わりが見えない。

もともと「テロリズム」という言葉の語源はフランス革命時の「恐怖政治」で、反革命分子を弾圧する手法や戦術を意味するものであったが、今や「テロ」や「テロリスト」は単に「純粋な悪」の代名詞となった。法の庇護は一切不要で、拷問をしても処刑をしても構わない。近代社会が前提とする人権の適用から除外しても差し支えがないという段階にまで達した。キューバの米軍基地内に位置するグアンタナモ湾収容キャンプがその象徴だ。

このような末期的な状況が続いている中で、「テロ」という事象を通してわたしたちの社会、引いては人間性そのものを問い直す映画が次々と制作されている。

■パリ行き高速鉄道内で起きた実際の銃乱射事件を当事者の再現で映画化したクリント・イーストウッド監督『15時17分、パリ行き』
2015年にフランスの高速鉄道の車内で発生した「タリス銃乱射事件」を、プロの俳優を起用せず当事者3人に再現してもらう形で映像化した『15時17分、パリ行き』(2018年、米国、監督:クリント・イーストウッド)は、テロを未然に防いだ青年が実は挫折だらけのいわゆる「落ちこぼれ」であったことを描く。

銃撃犯に最初のタックルを食らわせたスペンサー・ストーンは、他の友人2人と同じく幼少時代から転校を繰り返した「問題児」。空軍のパラレスキュー部隊に憧れて軍隊に入隊したが、視覚検査での奥行知覚の欠如で不合格になる。次にサバイバル訓練を教えるSERE指導員の課程を受けるが、今度は遅刻と課題の未達成により落第を宣告される……。

■理屈を超えた行動をとる「規格外の人間」を社会は持て余す
ストーンのある種の「変人ぶり」を表しているエピソードがある。救命法に関する授業中、基地内で銃撃事件発生を伝える警報が鳴る。講師は「机の下へ隠れなさい」と生徒に呼びかける。「戦おうとするな。身を守れ」が規定だからだ。しかし、ストーンはボールペンを片手に扉の横に立ち、侵入者に襲い掛かる態勢を取る。「机の下へ戻りなさい」と言う講師の命令を無視するのだ。誤報だと判明した後、講師は呆れ返って「バカな行動」であることを生徒たちに諭す。

だが、皮肉なことにこの「バカな行動」――高速鉄道の車内で自動小銃を持った銃撃犯へのタックル――こそが数百人の乗客の運命を変えたのである。このような衝迫は理屈を超えている。理屈を超えているがゆえに、社会はそのような人間を「持て余す」。果ては排除しようとする。幼少期に発達障害を疑われ投薬治療を勧められたことや、学校の規則に馴染めなかったことなどが、逆にストーンが理屈で考えない存在であることを裏付ける。

■銃撃犯と乗客を救った青年はコインの裏と表。非寛容な社会に周辺化される人々
本作はテロリズムの芽を撲滅しようと躍起になる社会が、「異質なもの」「過剰なもの」を切り捨てていく構造を強化し、「英雄になりたい変人」をも周辺化していることを静かに告発しているのだ。これは市民社会の表面的な秩序維持を最優先することによって、市民社会を護持する気概のある「規格外の人間」が生まれ難くなることを意味する。銃撃犯とストーンは、そのようなわたしたちの社会状況というサイコロの目の出方の一つ、コインの裏と表なのである。

ジャーナリストのロバート・バーカイクが著したノンフィクション『ジハーディ・ジョンの生涯』(野中香方子訳、文藝春秋)は、過激派組織イスラーム国を世界に知らしめた動画の青年が、執拗なゼロトレランス(非寛容)政策が招いた悲劇である可能性を示す。これがいわばコインの裏だ。

わたしたちの社会が口先ばかりの多様性を唱える一方で、佇まいや毛色の違う他者が虐げられるシステムを座視するとき――わたしたちはテロという恐るべき事象を命懸けで止めるポテンシャルも失っているのである。

■暴力が普遍的なコミュニケーションであることを暴く、ファティ・アキン監督『女は二度決断する』
移民を標的にしたネオナチによる爆弾テロ事件とその顛末を描いた『女は二度決断する』(2017年、ドイツ、監督:ファティ・アキン)は、家族を殺された被害者の復讐劇という「多くの人々の共感を得やすい構図」を手掛かりに、わたしたちにとって暴力が普遍的なコミュニケーションであることを暴く。

物語の舞台はドイツ・ハンブルク。主人公のカティヤ(ダイアン・クルーガー)は、ネオナチが自転車に仕掛けた爆弾により、仕事場の事務所にいたトルコ系の夫と長男の命を奪われる。ほどなく若いネオナチの夫婦が容疑者として逮捕されるが、裁判ではアリバイを証言する者が現れるなど不利な展開に見舞われ、夫婦が無罪判決を勝ち取るという最悪の結果に終わってしまう。怒りと悲しみを抑えられないカティヤは、ギリシャで休暇を満喫中の夫婦の後を追い掛け、爆弾をリュックに背負って夫婦もろとも自爆する。一息に説明すると至極シンプルな構成だが、この結末にのみ囚われると全体が見えなくなる。その前の段階にこそ重要な啓示が示されているからだ。

■「同じ爆弾を作って復讐を果たす」ことから垣間見える「暴力の対称性」
まず、復讐に用いる爆弾だが、カティヤは裁判記録に従って忠実に同じものを自作する。この爆弾は、アンホ(Ammonium Nitrate/Fuel Oil explosive :ANFO)爆薬と呼ばれ、テロリストの間ではよく使われている安価で強力な爆弾だ。そのようなものをわざわざ手間暇をかけて、まるで何かの儀式のように制作するのである。ただ相手を殺すことが目的であれば、拳銃でも刃物でも良いはずだ。このカティヤの独特の復讐方法から、どこかで暴力のバランス、対称性のようなものを追求しているように受け取れる。

■「殺す者」であるとともに「殺される者」でもあるような両義性を引き受ける、自爆という決断
もう一つは、映画のタイトルにもなっている「二度決断する」シーンだ。

最初、カティヤは夫婦のキャンピングカーの下にリュックサックに入れた爆弾を仕掛ける。が、突然思い直して取り止める。その後、カティヤに月経が訪れる。性器に手を伸ばし、指に血が付いたのを確認するカットがあるが、月経をこれほど直接的に描いた映画は珍しい。ここには経血を通じた両義性が刻印されている。経血は、排泄物や母乳や唾液と同様に、身体に属すると同時に身体に属さない「境界的な次元」を示すものだからだ。

そしてカティヤは二度目の決断で、今度は爆弾入りのリュックサックを抱えて、キャンピングカーに乗り込んで犯人と自爆することを選ぶ。つまり、「殺す者」であるとともに「殺される者」でもあるような両義性を引き受けるのである。それは自らも死ぬことで復讐の連鎖に終止符を打つという、原始社会以来の復讐権に対する批評のようにも見える。また「人の命を奪うことに対する本質的な違和感」への自己犠牲的な返礼でもある。

けれども、このプロセスを丁寧に描写して観客に突き付けることで、決して同意することはできないが、その感情を否定することが難しい「宙吊りにされた境地」を体験させることに成功している。もし、暴力の普遍性を理解することができるのであれば、わたしたちはそれを食い止めることも可能なのではないか、そう思わずにはいられない説得力に満ちた傑作だ。

わたしたちは日々ニュースで報道される「テロ」という言葉の先入観に惑わされず、わたしたちの社会の深層に巣食う「アンチテロ」の誘惑にも目を向けなければならない。これらの映画は、そんな困難な時代を生きているわたしたちに強烈なインスピレーションを与えてくれるだろう。(テキスト:真鍋厚)
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