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貧困・挫折・裏切り・息子の死、それでも釜の炎を燃やし続ける「女性陶芸家」

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2019年09月22日 13:00  週刊女性PRIME

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週刊女性PRIME

写真陶芸家神山清子さん 撮影/伊藤和幸
陶芸家神山清子さん 撮影/伊藤和幸

 琵琶湖の南端・ 大津から車を走らせること30分。高速を降りると、愛嬌(あいきょう)たっぷりの狸(タヌキ)の置物が列をなして出迎える光景が、訪れる者の心を和ませる。

 ゆったりと流れる大戸川の向こうで、青々と茂る稲穂がそよぎ、蛙の啼(な)き声がこだまする景色は、まさに日本の原風景そのもの。この信楽(しがらき)は六古窯のひとつに数えられる日本古来の焼き物の故郷。

 ここに陶芸家・神山清子(83)の穴窯がある。

苦しみと悲しみの中で生まれた

 清子は『寸越窯(ずんごえがま)』と名づけた穴窯の前に立つ古民家の縁側で待っていた。

 小柄だが83歳とは思えないしっかりとした足取りでわれわれを寸越窯へと誘(いざな)う。

 窯焚きが始まると、焚き口に座って何日も寝ずに火の番を行うが、今は信楽に暮らす生き物たちの憩いの場所でもあるようだ。

「山から狸だけでなく、猿や鹿、兎や猪もやってきて窯で暖をとり、餌をねだるんよ」

 取材に訪れたその日も、清子は仕事場で器をこしらえていた。ろくろを使わず手びねりで瞬く間に仕上げていく。BGMは軽快なJAZZだ。

「歌ものは歌詞に気をとられるからあかん。リズムが大事」

 陶器を包む手は大きく、その動きに迷いはない。

「家族5人、荷車を押して信楽にやって来た日のことを昨日のことのように覚えとる。この家も父がこしらえたんよ」

 見上げると、緋色(ひいろ)の屋根の上で小鳥が初夏の日差しと戯れていた。

 縁側はもとより、清子の暮らすこの古民家にはおびただしい数の茶碗や花瓶、大壺が無造作に置かれ、われわれの目を楽しませてくれる。

 太古の昔、このあたりは琵琶湖の水底。古い琵琶湖の水が干上がり質のよい粘土が生まれ、土の中の鉄分が赤く発色することから信楽焼の特徴といえる「緋色」は生まれた。

「緋色」は、窯の中で燃える「火の色」でもある。

 50年ほど前に自ら窯を築き、ツヤを出す釉薬(ゆうやく)を使わずに高い温度で陶器を焼き上げる「信楽自然釉」という製法を甦らせた。清子の作品が注目を集めるや世間の目が変わり、祝福の声に包まれた。

 清子と交流の深い新潟県枕崎市『木村茶道美術館』の石黒信行館長(69)はこう話す。

「清子さんは執念の人。とにかく粘り強い。窯焚きが始まると食事の時間も惜しんで、山に生えている野草やキノコを食べ、飢えを凌ぎ炎と格闘していました。今でこそ自然釉を取り入れる作家も増えてきましたが、当時としては画期的な出来事。まさにパイオニアです」

 9月30日からスタートするNHK連続テレビ小説『スカーレット』は滋賀・信楽を舞台に、男性ばかりの陶芸の世界で奮闘する女性陶芸家が描かれる。

 まさに女性が窯に入ることが許されない時代、独自の作品を生むことに挑戦し、弟子を愛情深く育てた清子の姿も物語の参考にされたという。

「私の自然釉薬は、苦しみと悲しみの中で生まれたのよ」

 と言って清子は微笑む。

 焼き物の故郷に迷い込んだわれわれは、縁側で清子の波瀾万丈の生涯に耳を傾け、時を忘れた。

 長崎県佐世保市に生まれた神山清子が、滋賀県にやって来たのは終戦間際、1944年9月のことだった。

「佐世保の炭鉱で監督をしていた父・繁が朝鮮から連れてこられた徴用工を助けたことから警察に追われ、強制収容所へ送られると知り、家財道具をまとめて逃げ出したんや」

 父が引っ張る荷車には2歳になったばかりの妹・静子を乗せ、小学2年生の清子は5歳の弟・繁美の手を引き、母・トミは荷車を押す。命からがらの逃亡劇。思い返せば、これが波乱に満ちた清子の生涯を暗示する最初の出来事。清子が小学5年生になる寒い冬、一家は信楽に落ち着いた。

陶芸との出会い

 父・繁が銀行からお金を借りて、山を買い、材木工場を始める。清子が今も暮らす家はこのとき、建てたものだ。

「父はお金に困っている社員がいると気前よく前借りも許す。面倒見がよく仏様のように言われとった。ところがお酒が大好きでね、毎晩、人を呼んでは飲めや歌えのどんちゃん騒ぎ。中学のとき、暴れる父を一本背負いで投げ飛ばしたこともあったなぁ。私は護身術を兼ねておまわりさんに柔道を教わっとったから(笑)」

 お嬢様育ちの母に代わり、煮炊きからお酒の世話、お金勘定まですべて清子の役目だった。

「せっかく儲かっても、父がすぐ使ってしまうので、家計は常に火の車。田んぼや畑を借り、お米やサツマイモ、野菜を作って自給自足。でもそんな暮らしが、後に役立った」

 食べるものに限らず、ノートや鉛筆といった文房具にも事欠くありさま。それでも努力家の清子は学校の行き帰り、歩きながら勉強に精を出しテストは毎回ほぼ百点満点。先生からの信頼も厚く毎年、級長に指名されている。

 小学6年のとき、先生の推薦で「陶器のできるまで」を紙芝居にして大きな公民館で発表する大役を任された。ところが登壇すると、頭が真っ白。とんだ赤っ恥をかいた。

 これが、清子が生涯をかけて打ち込む陶芸との初めての出会いだった。

 幼いころから絵を描くことが好きだった。小学生のとき、教室で人気女優の似顔絵を描き、友達からお礼に画用紙や色鉛筆をもらうこともあった。

「中1の秋、たわわに実る稲穂をスケッチしていたら“うまいやつがおるな”と褒められ、月に1度、その美術の先生から絵を教えてもろうた」

 勉強もでき、絵もうまい清子は「将来、美大に行ったらどうか」ともすすめられていた。

「高校の学費を信楽町が出してくれる。そんな願ってもないお話をいただいたのに、“人の世話にまでなって行かせたくない”と父が断ったときはショックやった。晩年、父は死ぬ間際に“謝らな、ならんことがある。高校に行かせてやらなくて悪かった”と言うとった。大学などに行っとったら、女は生意気になる、そう思っとったんやろな」

 中学を卒業した清子は父に言われるがままに洋裁、和裁、お花を習うが“絵を描きたい”という衝動を抑えることはできなかった。

「陶器作りの盛んな信楽では、陶器に絵を描く“絵付け”の仕事がある。絵が描きたい一心で私は絵付け師に弟子入り。その人の紹介で火鉢や植木鉢に絵を描く“絵付け工”の仕事に就くことができたんよ」

 当時はまだ“絵付け”をする女性も稀。最初からできないものと決めつけられ、いじめにもあった。しかし、向かい風が吹けば吹くほど清子は闘志を燃やすタイプ。

「成長しようとすれば絶えず敵が現れる。出る杭は打たれるっちゅうこっちゃ。働きながら好きな絵が思いっきり描ける。そう思って、朝から晩まで夢中で絵筆を握っとった」

30歳、陶芸家としての自信

 同じ会社で陶器の制作部にいた男性に思いを寄せられ、清子は21歳で結婚。

 翌年、長女・久美子。25歳のときに長男・賢一を授かり、2児の母になった。

 しかし、昭和30年代後半に入ると、暖房器具が一般家庭にも行き渡り、主流だった火鉢などの売り上げは頭打ち。27歳で会社に見切りをつけた清子は、信楽焼の伝統的な名物・狸の「型押し」を手伝ってみるが、どうしても充実感は得られなかった。そんなある日、

「庭に出てみると、子どもたちが泥団子を作ってままごと遊びをしてる。その光景を見て、これやな、と思ったね」

 小さな土の団子で大皿をこしらえ、知り合いの窯で焼いてもらうと、素朴だがなんともいえない味のある「小紋様皿」が焼きあがった。

 いくつかの作品をすすめられるがままに公募展に応募してみると滋賀県展・市展、さらに朝日陶芸展にも入選。

─信楽に神山清子あり

 当時珍しかった女性陶芸家の仕事ぶりをひと目見ようと、多くの人たちが訪ねてくる。

 当時、30歳。陶芸家として、ひそかに自信を持ち始めた清子には、ある夢があった。

 隠れ里でありながら、京の都とも接する信楽は、交通の要衝でもあり歴史は古い。

 奈良時代、聖武天皇がこの地に紫香楽宮を作るために多くの渡来系の技術者が移り住んだことから、日本の六古窯のひとつに数えられる信楽焼は生まれたとされる。

「昔の陶工たちは山の斜面をくり抜き、石や粘土で固めた一部屋の穴窯で、なんの釉薬も使わずに美しい色の焼き物をこしらえた。この色は一体どうやったら生まれるんか」

 安土桃山時代には千利休や小堀遠州にも愛された古きよき時代の信楽焼の魅力にとりつかれた清子は、信楽に残る昔の窯跡を訪ね歩き、34歳のとき、自分の家の庭に穴窯を築いてしまう。

「過去の文献を読み漁り、先人たちの窯跡を巡るうちに穴窯の中でたっぷり時間かけて高温で焼きあげれば、釉薬を使わずに古の信楽焼は必ずできる。そう確信したんよ」

 当時は女性が窯を持つことすら許されない時代。しかも釉薬を使わない古の信楽焼を甦らすことなど、女性の清子にできるわけがない。地元・信楽の窯元たちからも嫉妬まじりの嫌がらせを受ける。何を言われても受け流してきた清子を、ある日、思わぬ出来事が襲った。

 ともに夢を語ってきた夫が、住み込みの弟子の女性と家を出て行ってしまったのである。

自殺を考え、夜の街を彷徨う

「私が展覧会で入選するようになってから夫はたびたび家を開け、私にテレビの取材が来ても勝手に断ってしまう」

 諍いが絶えなくなり、清子に手を上げようとした夫の前に息子の賢一が立ちはだかり、

「僕は母さんと姉ちゃんとでがんばる。父さんいなくてもいい!」と言い放った。

 夫の不貞は狭い田舎町で知らぬ者もいない。恥ずかしさと情けなさで生きていく心地もしなかった清子は何回も自殺を考え、夜の街を彷徨い続けることもあった。やがて食べるものすらなくなった清子と2人の子どもたちは、庭の畑でとれる野菜などで飢えを凌ぐしかなかった。

「お母さん、もうお父さんのことは忘れて仕事をして」

 そんな娘・久美子の言葉にも救われた。

─私には、寸越窯がある。

 釉薬を使わずに自然の美しい色を醸し出す古の信楽焼を甦らせる夢もある。向かい風が強ければ強いほど闘志を燃やしてきた幼い日々が、ふと清子の脳裏をかすめた。電気釜で食器を焼き糊口をしのぐ一方、清子は暇を見つけては信楽の山を歩いた。

「焼き物は土が命。掘り出した土を何日も天日で乾かし、土に混じった石を1粒1粒、取り除き、木槌で細かく砕いて手で練り、最低でも1年は寝かせなあかん。寝かせることによって土に粘りが出てくるんよ」

 機械や釉薬はもちろん、ろくろすら使わず「手びねり」で生み出す清子独特の作り方は、中国の古代の焼き物からヒントを得たまさにオリジナル。

 これこそ古の信楽焼。そう信じて疑わなかったが、肝心要の土が見つからない。

 そんなある日、12歳になった息子・賢一が青く深い緑色の溶け込んだ陶器の破片を拾ってきた。

「日が差すとエメラルドグリーンの光を放ち、ビードロのような輝きを放つ。まさに古の自然釉の色。その石が、かつて父が持っていた裏山から出るとは、まさに灯台下暗しやね」

 と頬を緩める。だが、古の信楽焼を甦らせる清子の夢への挑戦はここからが正念場である。

「窯の温度、焚く日数、焚き方、あげくには窯も築き直してみたものの、思うような色が出ないまま4年の歳月がたっとった」

 清子は子どもたちが寝つくと、過去の失敗を記した「窯焚き日記」を繰り返し読み、失敗の原因を探り眠れぬ夜を過ごす。

「薪を買うお金すらなくなり、今度できんかったら出稼ぎに行くしかない……」

 切羽詰まった思いを胸に、清子は穴窯に薪を投げ込み、焚き口から炎を見つめた。赤黒い炎がやがて黄色と白色が混じったものに変わり、轟々と音を立て窯いっぱいに火が渦を巻く。

─16日間、1200度に保ち窯を焚き続ける。

 これが「窯焚き日記」を目を皿のように読み返した末に導き出した結論。しかし、またもアクシデントに見舞われてしまう。

「高温で焚き続けるため窯の天井が壊れ、まるで生き物のように吹き出した火が燃え盛っとった」

 慌てた清子は、火を吹く天井の穴を粘土で塞ぎ火を鎮めると、寝ていた子どもたちを起こし、3人で砂袋を積み上げ、家中のバケツに水を汲み窯のまわりに置いた。

 火事は免れたものの、その間に窯の温度はぐんぐん下がっていく。

─そうはさせぬ。

「賢一、薪を放り込め」

 家族総出で15分ごとに窯の温度を測り、薪をくべる。薪が少なくなれば、雑木でもなんでもかまわない。清子たちは16日間、無我夢中で寸越窯を焚き続けた。そして迎えた窯出しの日。

「熱い窯の中でピカッと光る花入れや壺、そして水差しが見えた。薪の灰が降り自然の釉薬となって緋色の土肌にビードロの彩りを添えとった」

 と今も興奮ぎみに話す清子。

「母はこれこそ古信楽の色やと、黒くなった頬に涙を浮かべ話してくれました」(長女・久美子)

頼られたほうが元気が出る

「信楽自然釉」が1976年、テレビ番組『新日本紀行』(NHK)で報じられると清子は一躍、時の人となった。

 そんな中、清子の弟子第1号になった陶芸家・小野充子(72)は当時をこう振り返る。

「東京の美大を卒業してやってきた50年ほど前の信楽は、今とは違い家もまばら、まるで桃源郷のよう。カレーライスを作るにも牛肉が少ないので先生は片栗粉を入れてトロみをつける。“魔法ネ”と言って片目をつぶるチャーミングな仕草が忘れられません」

 しかし名前は知れ渡っても、生活は決して豊かにはならなかったと清子は話す。

「住み込みで食事付き、しかもお小遣いまでもらえると聞き、弟子が弟子を呼び、最盛期には6人もおった。夕方になると、弟子たちが畑や川に行って、晩のおかずになりそうなものをとってくる。夏休みになると美大の大学生も大勢やって来た。料理はいつも私ひとりで作っとったね(笑)」

 人に頼られたら嫌とは言えない。そんな性格は幼いころから変わっていない。

「頼るよりも、頼られたほうが元気出るんよ」

 清子は、そう言って笑い飛ばす。しかし、大勢の弟子たちと共同生活をさせられた家族はたまったものではない。やりくりに困っている母を見兼ねて、娘の久美子が「こんなに食べて!」と弟子たちに怒りをあらわにしたこともあった。

 久美子は当時を振り返り、

「お金がないからおかずを買うこともできず、スズメなど野鳥の焼き鳥はもちろんイナゴのしょうゆ炒め、金魚の佃煮もよく食べました。弟の賢一が大戸川で釣ってきたナマズの蒲焼きは絶品でしたね」

 弟子の中には家出や夜逃げをして来た者もいた。

「親御さんが乗り込んできて“共犯者”呼ばわりされたこともある。ただ、この家に来た以上、面倒見るのが私の責任やし、放り出すわけにはいかん。ただし、それ以降は住民票と両親の許可がない限り、弟子入りは許さんかった」

 今の時代では考えられないおおらかさ。しかし、それだけ親身になって育てた弟子も、3年たって仕事を覚えると、ほかの窯場から引き抜かれることもしょっちゅう。

「使い捨てされて戻ってくる子もいる。謝ってきた子には弱くてね。また面倒をみた」

 弟子との微笑ましいエピソードは尽きない清子だが、精力的に作陶にも打ち込み、国内はもとよりニューヨーク、スペインのグレナダ、そして中国などでも個展が開かれ、清子の名声は世界でも一目置かれる存在となっていく。

 

 そんな清子の作品に真っ先に注目したのが、かの有名な陶芸家、加藤唐九郎である。

「ある日ブラリと寸越窯に見えられると、作品を頬ずりしてご覧になり、何点も買っていただきましたよ」

 加藤唐九郎は自身の仕事場のガラスケースに清子の焼いたお皿を飾り、「女性でもこんな凄い物を作る」「負けてられへん」と陶芸家の息子さんにハッパをかけていたという。

 そんな母の後ろ姿を見て、やがて息子・賢一も陶芸家の道を志す。

 賢一は地元の信楽工業高校窯業科を卒業後も、窯業試験場に3年間通い、釉薬を研究。天目釉に魅せられて中国の天目山の寺から伝承された抹茶茶碗「天目茶碗」の制作に打ち込むようになっていた。

「息子も筋はよかったが、私と同じ『信楽自然釉』をやったら、比べられてしまう。穴窯の仕事は私が死んでから継いでくれと頼んどった」

最後まで闘うと心に決めた

 陶芸の世界に入って3年。

 賢一は清子と親子展を開くなど陶芸家としての道を歩き始める。

 時代はまさにバブル真っただ中。翌年、信楽で「世界陶芸祭」が行われるため、町中が沸き立っていた最中、賢一を病魔が襲う。

 1990年、2月。雪が積もった信楽の仕事場で作陶中の賢一が身体をよじって土間に倒れた。医師から告げられた病名は、

─慢性骨髄性白血病。

「異常に白血球が増え死に至る当時は難病だった。このままでは2年半の命と告げられ、私はひっくり返って気絶して。今までどんなことがあっても歯を食いしばって乗り越えてきたけど、こんときがいちばんつらかった」

 家に帰ると清子は、仕事場にこもり一心不乱に土を練った。すると涙があふれ出し、声が枯れるほど泣いた。

─なぜ賢一が……!

 そう思うと締めつけられるほど胸が苦しい。しかし清子は“最後まで闘う”と心に決めた。

「助かるには、同じ白血球の型(HLA)を持つ健康な提供者(ドナー)から骨髄液を移植してもらうしかない」

 同じ白血球の型を持つ確率は兄弟姉妹で4分の1。他人の場合は数百から数万人に1人。気の遠くなる確率だったが、提供者が見つからなければ確実に死が待っていた。娘の久美子は、清子の当時の様子についてこう話す。

「母は病院では気丈に振る舞っていても、家に帰ってくると何をするにも“しっかりせな、しっかりせな”と声に出して自分自身を励ましていました」

 同年の夏には賢一の地元の友人たちが中心となって『神山賢一君を救う会』を結成。

「頼むよ、母さん」

 さらにチャリティー作陶展の開催など、『救う会』の活動はマスコミから大きな注目を集めるも、まもなく解散せざるをえない状況に追い込まれる。

「今でこそ、国が全額負担で行える血液検査のお金13500円も当時は個人負担。『救う会』がその費用が払えんと解散した後も、私が作品を売ったお金で何とか支払いを続けとった」

 その費用はなんと7000万円にものぼる。いくら作品が売れても、清子のもとには全くお金は残らなかった。

 翌1991年6月、賢一は再び高熱を出して再入院。悠長にドナーを探している時間はもう残されていなかった。

「白血球の型(HLA)が完全に一致するわけではなかったものの、大阪で食堂をしていた妹・静子が移植を名乗り出てくれてな。これに賭けてみるしかほかに道はなかった」

 10月に行われた賢一の移植手術は無事に成功を収めた。

 手術を担当した、当時・名古屋赤十字病院の小寺良尚先生(76)は、こう話す。

「清子さんは、息子さんを助けたい一心で白血病についてもよく勉強され、骨髄バンク設立に向け熱心に活動をともにした同志のような存在。清子さんの活動が国を動かすきっかけにもなりました」

 その年の12月、清子たちの願いが国を動かし日本初の公的骨髄バンク「骨髄移植推進財団」が設立された。

 春には退院できるかもしれない。そんな淡い期待を抱いていた矢先、賢一の白血病が再発。ショックを受け、崩れ落ちそうになる身体に鞭打って、清子は立ち上がった。

「お前が入院する前に作っていた壺を母さんの穴窯で焼こう思う」

 清子は賢一の手の跡を残したかった。それは天目茶碗とは別に自然釉にも挑戦したいと考えていた賢一の思いでもあった。だからこそ白血病に侵され、衰えた体力を振り絞ってまで大壺をこしらえたのである。

「自分で焼いてみたいけど、おとなしく待っているから。頼むよ、母さん」

─あの大壺を自然釉で焚く。

 清子は水指、うずくまる、花入れとともに、賢一の大壺を窯詰めし窯に火を放った。清子には、もし賢一が元気なら、叶えてみたかった夢がある。

「電気も水道も通っていない貧しい国に行ってみると、血のつながりや男や女も関係なくみんな家族みたいに暮らしている。こうした国に行って焼き物を教えたい。世界中どこへ行っても焼き物は焼ける。実際に南米のブラジル、アフリカのケニアへも下見に行っとった。賛同するお医者さんや学校の先生もいてな、みんなで“村おこし”や、ゆうて盛り上がってな」

 信楽だけでなく世界に「寸越窯」を作る、考えただけで清子の胸は高鳴った。それがまさかこんな結末が待ち受けていたとは。窯の中で燃え盛る炎を見つめる清子には無念でならなかった。

「賢一君は焼き物をしていたせいか年のわりに肝が据わっている。清子さんが、気丈に振る舞う賢一君の前で涙を見せることもありませんでした」(前出・小寺先生)

赤い涙を流した息子

 焼きあがった大壺を賢一に見せた日のことを、清子は今でも忘れられない。信楽特有の緋の色に荒れ狂った黒煙が影を落とし、その上に深く暖かいビードロがまるで踊っているかのように彩りを添える。

「大壺を抱きながら、賢一は目から出血しているせいで赤い涙を流してね。あのときばかりは涙が堪えきれんかった」

 4月に入ると、賢一の容体は急変。高熱と痛みに苦しむ日は、熱に浮かされる賢一に清子は子守唄を歌った。'92年4月21日、激しい吐血。

「死ぬのが怖い」

 と言ってしがみつく賢一に、

「みんな誰でも大地に帰るんや。何も怖いことない。先に行ってなさい。母さん、仕事をすませていくからね」

 31歳を迎えたばかりの賢一は、母の子守唄に送られ静かにこの世を去る。

 それから13年の時を経て、2人の物語が2005年、映画『火火』として蘇った。

「作陶指導は勿論、映画に登場する数百点にも及ぶ作品は、みな私が作ったもの。寸越窯や自宅もすべて撮影に使ってもろうた。ほかのお母ちゃんじゃできないことしてあげたんやから。お母ちゃん立派やろっ」

 と言って清子は相好を崩す。

 古い家の縁側に腰かけ、夜ひとりで涼を取っていると、今でも大勢で暮らしていた懐かしい日々が甦る。今も清子のことを気遣った弟子たちから季節の物が送られてくる。

─もし賢一が生きていたら

 今ごろ、寸越窯を焚き、寝ずに火の番をしていたかもしれないと思うと、笑みがこぼれた。

「しかし、窯は私が死ぬ前に、潰すしかあるまい」

 賢一を亡くした今も清子の心の奥底では、世界に「寸越窯」を作る夢が熾火のようにくすぶり続けていた。

「今からでも、話があれば飛んで行きたい」

 蛍の舞う庭先から山深い里に昇る月を見上げ、清子はそう強く願った。

取材・文/島右近(しま・うこん)放送作家、映像プロデューサー。文化、スポーツをはじめ幅広いジャンルで取材・文筆活動を続けてきた。ドキュメンタリー番組に携わるうちに歴史に興味を抱き、『家康は関ヶ原で死んでいた』を上梓

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  • 長ければ好いってもんじゃないぞ?三行で纏められないの?記者は。徴用工で既にもうファンタジー記憶違い。
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  • 「正直(しょうじき)」者が作る、陶磁器(とうじき)�Ԥ��Ԥ��ʿ�������( ・ω・)�Ԥ��Ԥ��ʿ�������
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