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江夏豊は「きれいな勝負をする人」作家・後藤正治が見た本質とは?

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2019年09月23日 11:30  AERA dot.

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写真後藤正治(ごとう・まさはる)/1946年、京都市生まれ。京都大学農学部卒。心臓移植をテーマにした『空白の軌跡』、定時制高校ボクシング部を舞台にした『リターンマッチ』(大宅壮一ノンフィクション賞)など。近著にノンフィクション作家本田靖春の評伝『拗ね者たらん』(講談社)。『後藤正治ノンフィクション集』全10巻(ブレーンセンター)がある (撮影/門間新弥)
後藤正治(ごとう・まさはる)/1946年、京都市生まれ。京都大学農学部卒。心臓移植をテーマにした『空白の軌跡』、定時制高校ボクシング部を舞台にした『リターンマッチ』(大宅壮一ノンフィクション賞)など。近著にノンフィクション作家本田靖春の評伝『拗ね者たらん』(講談社)。『後藤正治ノンフィクション集』全10巻(ブレーンセンター)がある (撮影/門間新弥)
 演技に生きる女優に元ボクシング世界王者、腕っこきの料理人……多彩な人生模様を伝える「もう一つの自分史」。五木寛之さんの登場で始まった連載が、最終回を迎えます。「東京五輪の名花」チャスラフスカや阪神のエースだった江夏豊らを陰影豊かに描いたノンフィクション作家、後藤正治さんが、出会った人々と、歩んできた時代を語ります。

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*  *  *
 小学生のときなど、将来は何になりたいかと、先生に聞かれますよね。「何にもなりたくない」と答えた記憶があるんですよ。目立たない子だったけど、思えばそのころからちょっと変わり者だったんでしょうね。

――京都御所や相国寺に近い、静かな街で子ども時代を過ごした。いまも京都府内で暮らし、古都を愛する。

 おおらかな学風にひかれ、浪人して京大に入りました。農学部で学び、研究者になろうと思っていました。

 でも学生運動が高揚した1969年、熱心な活動家ではなかった僕も上京してデモに参加したんですが、蒲田駅で逮捕されたんです。20日余り勾留されたのですが、付き合っていた彼女に振られましてね。悲しかったなぁ。

 でも安堵する思いが確かにありましてね。「政治の季節」をやり過ごすこともできたけど、僕は何とか逃げずにすんだ、と。留置場で阿呆(あほう)なヤツと自分を笑いながら、これでいいんだ、と思っていました。

 既成のものにノンと言いたいのにもかかわらず、心に蓋をして世間的な道を進みたくはなかったんです。同年代の多くの人のようにはね。

 そんな青春時代に唯一残ったのが、自分自身は何者なのか、という問いかけでした。答えは簡単には見つかりません。研究者になることに魅力を感じなくなり、大学時代の後半は、ほとんど学校に行かずに喫茶店でアルバイトをしていましたね。

 大学を出てからも、はっきりとした目的がないまま、自分探しが長く続きましたね。この経験を一度も後悔したことはなくてね。阿呆というか、ちょっと冷たい風が吹いている道を歩きたい、というか。そういう性分なんでしょうね。

――公害問題などを取り上げる雑誌「環境破壊」で取材・執筆する機会を得たことがステップになる。

 水俣病の取材のために、朝5時くらいに熊本県の水俣に着いたんです。でも、ほとんど当てがなくて、途方に暮れました。やがて30代くらいの漁師に出会った。彼の父親が認定患者だったかな。

 男っぷりのいい漁師で、知り合ったばかりの僕を船に乗せてくれたり、一杯飲もうと誘ってくれたり。そうこうしているうちに夜が更けたから、泊まっていけ、と。そこからいろんな人を紹介され、話を聞くことができたんです。

 患者たちの悲惨な状況を知り、ショックを受けたんだけども、こんなに親切にしてもらえる、とは思わなかったんですよね。水俣の現場を離れても、帰り道でも温かい気持ちに包まれました。

 こういう仕事をやっていけたら、と思い至ったのはそのときです。いまも、そんな帰り道の幸福感が原動力になっています。

――臓器移植の問題に取り組んだ『空白の軌跡』を上梓し、ノンフィクション作家として地歩を築く。ある患者との出会いが忘れられない。

 難病で国立循環器病センター(当時)に入院していた仲田明美さん(当時28歳)です。酸素マスクが必要で寝たきりの状態でした。僕は思わず、退屈でしょうと口にしたんです。そして、こんな深い言葉を聞きました。

「じっと空を見詰めていると、空の雲は一刻も休まず流れている。そんなときほど、あぁ生きているんだなぁと思う。酸素の補給を受けつつ寝たきりになっても、結局、一日一日をきちんと生きるということしかないんですね」

 何度か会ううちに、仲田さんから大学ノートにしたためられた日記を託されました。

 仲田さんは、心肺同時移植に一縷(いちる)の望みをかけていた。受け入れ先の米国スタンフォード大学から連絡がないので、取材を兼ねて同大学のシャムウェイ教授を訪ねていったんです。けれども、「彼女の場合は、病気が進んでいるから移植の対象にならない」という答えでした。

 帰国した僕は、「なかなかドナーが出ないので、もう少し待っていてください」と伝えました。本当のことを告げたら身も蓋もないでしょう。彼女の希望を奪ってしまうから、言葉を濁したんです。

 彼女は、故郷の病院に入り、32歳まで彼女なりに生きました。『空白の軌跡』から始まり、移植の問題は『ふたつの生命』と『甦る鼓動』でも追いましたが、彼女がいなかったらここまで書けなかった。託された日記が遺言のように思えましてね。

――約40年、作家生活をつづけてきた。取り上げた人物は当時の皇太子であり、オノ・ヨーコであり、長屋住まいで無二の仕事をする画家であり、多士済々。ただ、自身と共振する人を描く、ということは通底している。

 傾向としては、どこかで寄り道をしてしまう人に興味を持つなぁ。凹凸があるというか、ひだがあるというか。苦労した人のほうが、共感性を持てるからだと思います。僕も寄り道してきたからね(笑)。

『牙』という作品は、王や長嶋らがいたV9時代の巨人に、真っ向勝負を挑みつづけた江夏豊を描きました。

 彼とは1年くらい付き合ったかな。引退後に刑務所に入ったこともある人ですが、マウンドに立つ江夏はコントロールが素晴らしくて、ダーティーワークが嫌いだった。

 ライバルだった王に江夏との思い出話を聞いたとき、14年間戦ってきたけれども、デッドボールがなかった、と言うんです。江夏の私生活はハチャメチャだったけれども、きれいな勝負をする人だった。それは野球にすべてをかけた彼の本質だと思うんです。

 僕の書いているものはきれいごとだ、と言われることもある。ただ、描きたかったのは、大きいことがいいことだ、とされた高度成長時代、圧倒的な強者に、独り立ち向かった江夏です。闇の部分もいろいろと聞いてはいましたが、それは本筋ではありませんでした。

――数多くの作品を残してきたが、思い入れに濃淡はないのだろうか。

 むずかしいなぁ。沢木耕太郎さんと対談したときは、広島カープの黄金時代を支えた木庭教を書いた『スカウト』がいい、と言われたんですけども……。

 作家というのは若き日に書いた作品を越えることができないと。負けが込んだボクサーの反転攻勢を描いた『咬ませ犬』がいいと言われることがあるのですが、結局、こういう初期の作品を、ついに越えられなかったんじゃないかなと思います。

――優美な演技で世界中を魅了したチェコの体操選手について書いた『ベラ・チャスラフスカ』も思い出深い。手紙のやりとりはできましたが、結局会うことはできなかった。

 1960年代後半、社会主義圏だったチェコ(旧チェコスロバキア)に「プラハの春」といわれる民主化運動が起きた。このとき、民主化運動を支えた「二千語宣言」というのがあり、ベラ・チャスラフスカはそれに署名していました。

――しかし、ソ連の軍事介入があり、傀儡政権ができると、署名をしたほとんどの人たちは、撤回していった。なのに、チャスラフスカは決して節を曲げなかった。

 どうなったかというと、64年の東京五輪に続き、68年のメキシコ五輪でも金メダルを獲得したヒロインだったのに職を追われ、細々と20年間過ごしていた。子どもが2人いて、離婚もし、経済的にも苦しい。署名さえ撤回すれば、国から厚遇を受けることができたのですが。

 手紙のやりとりで、二千語宣言を撤回しなかった理由を尋ねると、「節義のために」とありました。すぐれた通訳による古風な日本語ですが、正しいと思ったことを曲げない精神の人だった。

 2016年8月、チャスラフスカは、74歳で亡くなっています。実は、来年開催される東京五輪を機に、もう一度日本を訪れたいと言っていたので、楽しみにしていたんですけれども……。

 ソ連が崩壊し、多くの選手が米国やヨーロッパの国に移っていたこともあり、スポーツ誌の連載で始めた企画でしたが、それが終わっても、各地を旅しました。相当のお金をつぎ込んでも、これが全然売れなくてね。でも僕にとっては納得できるかの問題でね、阿呆になってやっていました。

 長年やってきて売れる作家でもなかったけれど、檀家さんみたいな読者がいるのを最近知りましてね。何十回も読んだとかで、自分でも忘れている内容とかも覚えている(笑)。実は、読者っていうのは、ものすごく怖い存在です。ものを書くというのは、結局一人の読者に言葉を届ける行為です。一人の読者を意識すると、その人を裏切れないんですよ。

――今では元気な姿を見せているが、2年前、大動脈解離で救急搬送された。初めての大病で、10日ほどICUに入り、一時は生命が危ぶまれたという。

 どうにか踏みとどまって、いまは一応、血圧を安定させる薬を飲んでいるんだけど、よく忘れるんです。よくお酒を飲んできましたが、医者にも飲まないほうがいいですか、という質問もしてないんです(笑)。

 まあ飲んべえの自己弁護をしますが、酒を飲むのは、人とよく語り合いたいからです。気取らず、おもねらず、笑い合いたい。阿呆組として生きた人生を、肴にしてもらうのも悪くありません。

 振り返って、生きていて他者に残せる最大のものは良き思い出、と信じています。齢(よわい)を重ね、そんな心境に至りました。

(聞き手/本誌・岩下明日香)

※週刊朝日  2019年9月27日号

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